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ワーグナーの世界

ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner,1813-1883)について,今更ながら考えてみます。
音楽の専門家には,原音に近い,ヴァーグナーとかたくなに表記する人がいますが,ここでは一般的なワーグナーと表します。

ワーグナーの音楽は,壮大で,きらびやかで,それまでの歌劇を総合芸術としてまとめあげ,「楽劇」と称されています。

また,自分の作品を上演するために,バイロイト祝祭劇場を建設(1876)しました。
祝祭劇場の運営は,その後,子孫たちが引継いでいますが,身内の内部対立も激しく,私物化,商業主義との批判もあり,出演を拒む演奏家も少なくありません。

ワグネリアンと称する,ワーグナーの音楽に心酔する人々がいる一方,拒絶する人々もたくさんいるのです。
それは,ワーグナー自身が,自信家で独善的で排他的で,反ユダヤ思想の持ち主で,ユダヤ系のメンデルスゾーン(09-49)の音楽を非難し,生存中から賛否を二分していました。

リスト(11-86,ピアニスト・作曲家)の娘コジマ(37-30)は夫ハンス・フォン・ビューロー(30-94)がいる身でワグナーの子を産み,ビューローは激しく対立するブラームス(33-97)派に加わります。
ちなみに,ビューローは初めての専門指揮者で,それまでは作曲者がみずから指揮をしました。

じつは,私が初めて生のオペラを見たのは,1970年,ベルリン・ドイツオペラ日本公演,ロリン・マゼール(30-14)指揮『ローエングリン』(1848)でした。
とくに印象に残ったのは,第3幕前のきらびやかな前奏曲に引き続いて演奏される『婚礼の合唱』でした。自分のときはこれでやるぞ,と思ったものでした。

ところで,結婚式につきものの音楽は,メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』(1842)のなかの『結婚行進曲』が,ワーグナーの「婚礼の合唱」と二分しており,『行進曲』はより華やかで,『合唱』はむしろ荘重な感じがします。
披露宴の入場はメンデルスゾーンで,退場はワーグナーで,というのが定番のようで,150年を経て,並んで使われています。

ワーグナーの作品の中でもっとも長大なものは『ニーベルングの指輪』(48-74)4部作で,完成に26年間もかかり,通称,指輪(リング)と呼ばれています。

  • 序夜『ラインの黄金』 (Das Rheingold )     2時間40分
  • 第1夜『ワルキューレ』 (Die Walküre )      3時間50分
  • 第2夜『ジークフリート』 (Siegfried )     4時間
  • 第3夜『神々のたそがれ』 (Götterdämmerung ) 4時間30分
    上演時間合計                 15時間

ヒロインのブリュンヒルデは全神ヴォータンの長女でワルキューレ(女戦士,英雄をワルハラ城に導く役)ですが,英雄ジークフリートと結ばれます。
なんと,あのアニメ『崖の上のポニョ』のポニョの本名がブリュンヒルデになっています。

私は『ラインの黄金』だけは生で見たことがあります(すべて日本人の公演)。

ワーグナーの不幸は,反ユダヤで一致したヒトラー(89-45)が熱狂的なワグネリアンだったことです。
大衆を洗脳するために,ワーグナーの高揚させる音楽を集団催眠に利用しました。
たとえば,ナチスの党大会で『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲が演奏されたりしました。

第二次世界大戦の末期,ユダヤ人の少女がバイオリンが弾けるということで,アウシュヴィッツ行きを免れました。
最近,その音楽家がワグネリアンのユダヤ人と対談をしました。彼女はとてもワーグナーの音楽を受け入れることはできないと断言しました。

今でも,イスラエルではワーグナーの音楽を演奏することはタブー(厳しく禁止される行為)とされています。
100年後には,このトラウマ(強烈で心に大きな痛手を与えるような体験,それが長期の不安状態を引起す原因となる心的外傷)から脱却できるのでしょうか。

日本にも,ワーグナーを信奉する人たちがいます。
慶應義塾大学ではワグネル・ソサィエティーという名の団体が,オーケストラ,男声合唱団,女声合唱団の3つあります。

その慶応ワグネル・ソサィエティー男声合唱団出身のカルテット(四重唱団)がダークダックスです。1951年に結成。
メンバーは全員が経済学部の出で,

高見澤宏(33-11)トップ・テナー,愛称パク,11年に死去 佐々木通正(32-)セカンド・テナー,愛称マンガ
喜早 哲(30-)バリトン,愛称ゲタ,リーダー
遠山 一(30-)ベース(バス)本名:金井哲夫(現在は改名し金井政幸),愛称ゾウ,東京藝大中退

ロシア民謡,山の歌,唱歌など幅広いジャンルの楽曲をレパートリーとしており,さらに清水脩・作曲『山に祈る』男声合唱組曲などの初演も行っており,多くの音楽シーンでの先駆者的な活動をしてきました。
1997年に佐々木が倒れ,3人のアヒルとして活動,2011年に高見澤が死去後はほとんど活動休止状態。

同時代に,デューク・エイセス,ボニージャックスの男声カルテットがいました。

デューク・エイセスは1955年結成,当初はジャズ・黒人霊歌に特化し,永六輔・詞  いずみたく・曲「にほんのうた」シリーズもレパートリーです。メンバーを入替えて継続し,トップ・テナーはなんと5人目です。ユニゾン(斉唱)と重厚なハーモニーが特長でしたが,これだけメンバーが入替ると同じ響きを保つのは難しいです。

ボニージャックスは早稲田大学グリークラブ出身で1958年結成,レパートリーは多彩です。ロシア民謡「一週間」や合唱曲「遥かな友に」,童謡「ちいさい秋みつけた」「手のひらを太陽に」などは,ボニーが歌ったことから広く知られるようになりました。

今回はダークダックスで有名になったこの曲にしましょうか。

ロシア民謡『ともしび』楽団カチューシャ・訳詞

夜霧の彼方へ 別れを告げ
雄々しきますらお いででゆく
窓辺にまたたく ともしびに
つきせぬ乙女の 愛のかげ

戦いに結ぶ 誓いの友
されど忘れ得ぬ 心のまち
思い出の姿 今も胸に
いとしの乙女よ 祖国の灯よ

やさしき乙女の 清き思い
海山はるかに へだつとも
二つの心に 赤くもゆる
こがねの灯 とわに消えず

変らぬ誓いを 胸にひめて
祖国の灯のため 闘わん
若きますらおの 赤くもゆる
こがねの灯 とわに消えず

ロシア語の歌詞を見ましたが,「海山はるかに」とかの言葉は出てきません。だいたいロシアには海はほとんど存在しませんので,「山河」になっているのもありますが,かなり意訳になっていると思います。

かつて大学の男声合唱団(グリークラブ)出身の男声カルテットが活躍しましたが,声には活動寿命があり,現在では残念ながら衰退気味です。

かれらの音楽は,米国のミルス・ブラザーズゴールデン・ゲイト・カルテットに代表されるジャズボーカルグループを原点としていますが,一方,19世紀後半の米国では,男が床屋(barber)に集まって無伴奏のカルテットを楽しむのが流行し「バーバーショップ・ハーモニー」と呼ばれる独自のスタイルを築いて,現在も素人(別に仕事を持っている人たち)グループでも質の高い演奏を保っていて,ときどき日本でも公演を行っています。

いまの日本では,アカペラ(無伴奏の合唱)グループが流行ってきており,人数も演奏方法も多彩で,ハーモニーを楽しむ感があって,良いのではありませんか。

今春は,花の季節,気候が不順で,雨が多く,気温変動も大きいく,冬物・春物の衣装選択も日替わりで,気象情報にはくれぐれも注意してお過ごしください。

青春とは

むかし,「青春とはなんだ」というTVの学園ドラマ(65-66)がありました。
夏木陽介の主演,石原慎太郎の原作,主題歌・挿入歌は岩谷時子・詞,いずみたく・曲,布施明・歌で,ラグビーを通じて心の交流や人間教育を実現してゆくという,よくあるパターンのドラマでした。これは,その後「これが青春だ」「でっかい太陽」「燃えろ!太陽」とシリーズ化してゆきます。

このような場合,ラグビーという競技はまことに都合がよく,泥んこになって乱闘するという,極めて分りやすいシーンが展開できますから。

ラグビーの精神として

One for all,  All for one
(一人は皆のために,皆は一人のために)

がよく言われていますが,それは日本だけのことで,
もともとはアレキサンドル・デュマ(大デュマ)の『三銃士』(1844)のなかで三銃士が剣をあわせて誓う言葉として登場しました。(原典 un pour tous, tous pour un“)

ところで,四季と方位には四神と色が割り当てられており,

春  東  青竜  青
夏  南  朱雀  朱(赤)
秋  西  白虎  白
冬  北  玄武  玄(黒)

つまり,青春朱夏白秋玄冬というわけです。

さて,日本の三大青春文学,純愛小説というべき作品は

伊藤佐千夫野菊の墓』(1906)
15歳の少年・斎藤政夫と2歳年上の従姉・民子との淡い恋を描きます。夏目漱石より「自然で,淡泊で,可哀想で,美しくて,野趣があって(中略)あんな小説ならば何百編よんでもよろしい」との評価を受けます。
民さんは野菊のような人だ。僕は野菊が大好き」という政夫のセリフは絶妙です。

川端康成伊豆の踊子』(1926)
19歳の川端が伊豆に旅した時の実体験を元にしている短編です。孤独や憂鬱な気分から逃れるために伊豆へ一人旅に出た青年が,旅芸人一座と道連れとなり,踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。孤児根性に歪んでいた青年の自我の悩みや感傷が,素朴で清純無垢な踊子の心によって解きほぐされていく過程と,彼女との悲しい別れまでが描かれています。

三島由紀夫潮騒』(1954)
伊勢湾に浮かぶ歌島(神島)を舞台に,若く純朴な漁夫・久保新治と海女・初江が,いくつもの障害や困難を乗り越え,恋愛が成就するまでを描いた物語。
雨の降る休漁日に初江と待ち合わせの約束をした新治は,先に到着し,初江を待っていたが,焚き火に暖められるうちに眠ってしまう。ふと目が覚めて気が付くと,初江が肌着を脱いで乾かしているのが見えた。裸を見られた初江は,新治にも裸になるように言う。裸になった新治に,さらに「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」と言った。火を飛び越した新治と初江は裸のまま抱き合うが,初江の「今はいかん。私,あんたの嫁さんになることに決めたもの」という誓いと,新治の道徳に対する敬虔さから二人は衝動を抑えた。
よく登場するシーンですが,今はこういう風にはいきません。

いま読み返しても,甘酸っぱい青春時代の思い出がよみがえるようです。
これらは,それぞれの時代のアイドルたちによって何度も映画化されています。

4月1日は入学式の日です。
今回の歌はこの楽しい曲にしましょうか。

一ねんせいになったらまどみちお・作詞 山本直純・作曲

一ねんせいに なったら
一ねんせいに なったら
ともだち ひゃくにん できるかな
ひゃくにんで たべたいな
ふじさんのうえで おにぎりを
ぱっくん ぱっくん ぱっくんと

一ねんせいに なったら
一ねんせいに なったら
ともだち ひゃくにん できるかな
ひゃくにんで かけたいな
にっぽんじゅうを ひとまわり
どっしん どっしん どっしんと

一ねんせいに なったら
一ねんせいに なったら
 ともだち ひゃくにん できるかな
ひゃくにんで わらいたい
せかいじゅうを ふるわせて
わっはは わっはは わっはっは

まどさんについては,下記に詳しく述べています。
2014年5月29日付「まどさんを偲ぶ」
をクリックしてみてください。

どうです,春にふさわしい,とても楽しい歌でしょう。
やはり入学式は桜のしたで,春にかぎります。

名人上手

3月19日に桂米朝さんがお亡くなりになりました。享年89歳。
翌朝の新聞では,全国紙からスポーツ紙にいたるまで,こぞって1面のトップ記事で伝えました。亡くなってから偉大さがわかる,というものです。
追悼文で「知的でハンサム,上品で博学」と表現した人がいましたが,芸風・人柄・存在感がそのとおりでした。

桜餅 一つ残して 帰りけり    八十八(やそはち)

八十八とは米の字を分解した米朝さんの俳号です。
私のブログでも,
2014年12月20日付「落語とわたしと」
のなかでいろいろと書いておりますので,ご興味のある方はクリックしてみてください。

昔からいろいろな人が亡くなるときに辞世の和歌・俳句を詠んでいます。(米朝さんのは辞世の句ではありません,念のため)

願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ
西行
つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを
在原業平
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢
豊臣秀吉
風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん
浅野長矩(内匠頭)
あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
大石良雄(内蔵助)
此の世をば どりゃお暇に せん香の 煙とともに 灰左様なら
十返舎一九
昨日まで人のことかと思いしが俺が死ぬのかこれはたまらん
太田蜀山人
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
吉田松陰

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる   松尾芭蕉
おもしろきこともなき世をおもしろく 高杉晋作
人魂で行く気散じや夏野原      葛飾北斎
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな     正岡子規
行列の行きつく果ては餓鬼地獄    荻原朔太郎

名人とは,技芸にすぐれて名のある人,ということです。
米朝さんは重要無形文化財保持者(人間国宝)ですから,当然,落語の名人といってよいでしょう。

名人のもともとは,囲碁・将棋から来ています。
名人の最初は,織田信長本因坊算砂(日海)に「そちはまことの名人なり」とほめたことが起源とされます。
ちなみに,本因坊とは囲碁の家系の一つで,昭和になって本因坊秀哉が引退するときに日本棋院に名跡を譲渡し,以後タイトルとなりました。

世襲制・推挙制であった名人位を,大正になって十三世名人関根金次郎が実力制名人戦を提案したことから,名人位はタイトルになりました。
ちなみに,関根金次郎といえば,王将で有名な大阪の坂田三吉と何度も対局したことでも有名です。

囲碁のタイトルは,本因坊・王座・名人・十段・天元・棋聖・碁聖の7つで,井山祐太は2013年に棋聖を除く六冠を取りました。
井山祐太(89.5.24-)は東大阪市の出身,石井邦生九段の門下,ネットを通じて師匠と1000局を超える対局をして実力を高めたことで話題になり,夫人は将棋女流棋士の室田伊緒二段で生年月日が同じです。現在は,棋聖・名人・本因坊・碁聖の4冠。

将棋のタイトルは,名人・棋聖・王位・王座・竜王・王将・棋王の7つです。
羽生義治(70.9.27-)は現在,名人・王位・王座・棋聖の4冠を達成しています。
1995-96に7冠独占を達成し,維持したのは167日間でした。
すでに,永世の称号を6つも持っており,十九世名人・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世棋聖・永世王将で,いずれも引退後に襲名することになっています。

ところで,名人のことを英語ではマスター(master),ドイツ語でマイスター(Meister),イタリア語でマエストロ(maestro)といいます。

マスターというと,喫茶店の店主のようで軽く聞こえますが,学位の修士はマスター(Master)といいます。

マイスターといえば,いかにも熟達した職人の感じがして,ドイツ人の技を大切にする伝統が生き続けています。
マイスタージンガー(Meistersinger,職匠歌手)という言葉を聞かれたことはありますか? ワーグナー作曲の楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は有名です。
ドイツでは大学へは無料で行けますが,誰もが行くわけではなくて,一方ではマイスターを目指す若者も多いのです。

指揮者のことを万国共通で,マエストロと呼びますが,カール・ベームという著名なドイツ人の指揮者が来日したとき,「マエストロ」と呼びかけたところ,「ドクターと呼んでください,若い頃,頑張って取得したのですから」と言いました。グラーツ大学で法学博士の称号を得ています。
ドクター(Doctor,Dr)とは学位の最高位で「博士」を指します。
ちなみに,学士バッチェラー(Bachelor)と言います。じつは「独身の男子」のことも,bachelor というのです。

いよいよ桜の季節です。
ある気象予報士のデータによると,2月からの1日の平均気温の積算値が400℃を超える頃に桜が開花するそうです。
今年は短い周期で暖かい日と寒い日が大きく変動する春でしたが,今週末には桜の開花が見られそうです。

桜の歌はたくさんありますが,なんといってもこの曲に尽きるでしょう。


』 武島羽衣・作詞 滝廉太郎・作曲(1900)

春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂(かひ)のしづくも 花と散る
ながめを何に たとふべき

見ずやあけぼの 露浴びて
われにもの言ふ 桜木を
見ずや夕ぐれ 手をのべて
われさしまねく 青柳(あおやぎ)を

錦おりなす 長堤(ちょうてい)に
くるればのぼる おぼろ月
げに一刻も 千金の
ながめを何に たとふべき

武島羽衣(72-67)は東京出身の詩人・作詞家・国文学者,「美しき天然」(田中穂積・曲)など,享年94歳。

滝廉太郎(79-03)は東京出身の作曲家,東京音楽学校卒,ライプツィヒ音楽院に留学するも結核発症のため1年で帰国,代表作は「荒城の月」(土井晩翠・詞),「箱根八里」(鳥居忱(まこと)・詞)など,享年23歳。

』は日本最初の合唱曲で,ピアノ伴奏付きの女声二部合唱か女声二重唱で歌われます。
滝さんは早逝されましたが,すばらしい楽曲を残されました。

たんに「花」といえば桜をさし,ソメイヨシノ・ヤマザクラ・サトザクラ・ヒガンザクラなど種類も多く,日本の国花です。

桜が咲けば,本格的な春です。
夜桜の下で深酒して風邪などひかぬ程度に楽しんでください。

先生というもの

夜の盛り場で,道行く人たちに客引きが呼びかけるときに,

「社長!」か「先生!」

と言っとけば,客は嫌な顔をしない,ということを聞いたことがあります。

私が初めて「先生」と呼ばれたのは,大学に入って,家庭教師として生徒のお宅へ出向いたときでした。
なんとなく,偉くなったような気がしたのは,まさに若気の至りとでも申しましょうか。

先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし

と川柳にもあるように,先生と呼ばれていい気になっていても呼んだ方は特別に尊敬しているわけでもないし,乗せられて得意になるものではない,というような意味です。

先生」と呼ばれる人には,真に尊敬に値する先生と呼ばれるにふさわしい人と,とりあえず先生と呼んでいるだけ(本人は呼ばれて嬉しがっているが)の人,の2種類があります。

後者は代議士,弁護士,小説家など,そして最近増えてきた各種の指導者たちです。

いずれにしても,日本人,とくに女性は簡単に「先生」を連発する傾向にあります。

弟子を見るとその先生が素晴らしかったかどうかが分ります。

まずは,江戸末期の緒方洪庵(1810-1863)は大坂に適々斎塾(適塾)を開き,もともと蘭学塾でしたが,

福澤諭吉(1835-1901)慶応義塾の創設,学問のすゝめ・著

大村益次郎(村田蔵六,1824-1869)長州の医師,兵学者

などの維新で活躍する多くの人材を育てました。

明治政府のいわゆる「お雇い外国人」として W. S. クラーク(26-86)は札幌農学校の教頭として1877年に赴任,1年足らずの滞在でしたが,帰国後も影響力は生き残り,

新島襄(43-90)米アマースト大学で受講,同志社の創設

内村鑑三(61-30)農学校2期生,クラークと入違い,宗教家

新渡戸稲造(62-33)内村と同級生,教育家,5千円札の肖像

その後の日本に大きな影響を与える人材を輩出しました。

” Boys, be anbitious like this old man. “

という言葉を残したことでも有名ですが,「この老人(自分)のように,あなたたち若い人も野心的であれ」というような意味です。

明治期にたくさんの外国人が教師として雇われましたが,彼らはほとんどみんな良い印象をもって帰ったと言われています。
それは日本人の若者たちはみな礼儀正しく,勉強熱心で,教師を尊敬し,日本の発展に役に立ちたいという志を持っていましたから,必然的に教師たちも熱心にならざるを得なかったし,「今は遅れているが将来発展するのは間違いない」,日本を馬鹿にはできない,特別に優秀な民族である,と感じて帰ったといわれています。
日本が他の後進国のように植民地にならなかったのは,これら外国人の帰国後の発言が影響したとも言われています。

われわれ現代の日本人も140年前の大先輩たちに負けないように誇りをもって毅然として外国人と付き合って行きたいものです。

じつは,
私もある開発途上国へ国際協力の一環として,ある大学に専門教育するために赴任したことがあるのです。
クラークさんは1年足らずでしたが,私は2年間でしたから,少しは役に立てるのでは,と内心期待して赴きました。
しかし,着任早々,完膚なきまでにその思いは裏切られました。
学生たちに全くと言ってよいほど,学習意欲というものがないのです。
ある大学院生に,「私のような日本人に指導を受ける機会は今後もそうないと思うので,もう少しちゃんと出席して学習すればどうですか」と言ってみたのですが,
なんと,その学生は「私には妻や子がいるので,働かなくてはいけない。卒業証書は金で買う」と言ってのけたのです。

その国は独立後15年,独裁政権が続き,カネとコネが優先する社会で,勉強しても良い就職先はないし,教師すら学生からカネを取って単位を与えたり,成績を上げたりするので,若者たちに前向きな意欲というものが生まれないのでした。

また,言い訳に,「まだ独立して15年しか経ちませんから」というセリフをよく耳にしましたが,日本では,黒船が来航して15年で明治維新,敗戦後15年で所得倍増計画が出されました。(実質国民所得は7年で倍増が達成されました)

残念ながら,そういう国では20年,30年たっても発展するのは難しい,と感じました。

さて,
ちょっと意外な先生たちの話をしましょうか。
自分たちのことを「先生」「先生」と呼び合うのです。若くてまだ未熟に見える人に対しても「先生」と呼びかけます。

それは,「社交ダンス」教室の「先生」たちです。
英語では社交ダンスを Social Dance とは言わず,Ballroom Dance と言います。Ballroom(ボールルーム)とは舞踏室のことを指します。

欧米では社交ダンスは教養の一つとなっていて,学校で習うそうです。

ノーベル賞授賞式の晩餐会では,ディナー後の大舞踏会で自由に踊ることができます。確か,江崎玲於奈(1925-)さんは転んで骨折したはずです。

また,テニスのウインブルドン大会後のパーティでは,男女シングルスのチャンピオン同士でペアを組んで踊ることが恒例になっていました。(現在はやらなくなったようです)

ところが,日本では,鹿鳴館時代に外交政策上の必要性から導入されましたが,本格的に一般の人が踊り出すのは第2次世界大戦後に進駐軍向けにダンスホールがたくさん開かれるようになってからです。
しかし問題は,風俗営業法でダンスを規制してきたことです。
最近1998年,改正されましたが,指定された教師がいる場合にのみ法律が適法外になるというおかしなものになっています。

オーストリアのウィーンでは大舞踏会が1月から3月にかけて幾つも開催され,みんな正装して,それこそ夜を徹して踊りあかします。
もっとも有名なのはウィーン国立歌劇場で行なわれる大舞踏会(オーパンバル,Opernball)ですが,デビュタント(debutant,初舞台の人)として,17~24歳の男女150組300人がオーディションで選出され,一生に一度しか出られない特別の舞踏会です。

それで,「先生」の話に戻りますが,日本の「社交ダンス」教室の教師たちは,風営法で規制されるダンスを,もっと世界基準の高尚な芸術の一つという認識に変えてもらうために,自ら「先生」と呼び合って意識を高めているのではないか,と思っています。

日本のこの時期は卒業式のシーズンです。
かずある卒業式で歌われる歌のうち,もっとも伝統的で,感動的なのがこの曲です。
歌詞が難しいので歌われなくなってきたそうですが,名曲です。

仰げば尊し』作詞・作曲者不詳(1884)小学唱歌集(三)

仰げば 尊し 我が師の恩
教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
今こそ 別れめ いざさらば

互(たがい)に睦(むつみ)し 日ごろの恩
別(わか)るる後(のち)にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば

朝夕 馴(な)れにし 学びの窓
蛍の灯火(ともしび) 積む白雪(しらゆき)
忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
今こそ 別れめ いざさらば

ここに,「今こそ別れめ」の「め」は,意志・決意を表す古語の助動詞「む」の已然形(いぜんけい),つまり「こそ」と呼応した係り結びで,「今まさに別れよう」というような意味で,決して「別れ目」ではないことに注意してください。

また,ながらく作者不詳となっていましたが,最近2011年,アメリカの楽曲に ” Song for the Close of School ” があり,それが原曲であることが示されました。しかし,歌詞は訳詞ではないので,「仰げば尊し」に至る経緯の詳細はわかりません。

現代では次の曲が卒業シーズンの歌として人気が高いそうです。

卒業写真荒井(松任谷)由実・作詞作曲(1975)

かなしいことがあると 開く革の表紙
卒業写真のあの人は やさしい目をしている
町で見かけたとき 何も言えなかった
卒業写真の面影が そのままだったから
人ごみに流されて 変わって行く私を
あなたはときどき 遠くで叱って

話しかけるように ゆれる柳の下を
通った道さえ今はもう 電車から見えるだけ
あの頃の生き方を あなたは忘れないで
あなたは私の 青春そのもの
人ごみに流されて 変わって行く私を
あなたはときどき 遠くで叱って
あなたは私の 青春そのもの

歌詞にでてくる「あの人」とは誰でしょうか?
昔の彼氏ですか?
いえいえ学校の先生です,しかも女性の美術の高校の先生です。
芸大(東京藝術大学)美術学部を目指して勉強していたユーミン(由美)を厳しく指導したのがこの先生でした。今年がダメでも来年頑張ればいいよ,と言って励ましてくれました。
この美術学部は倍率30~40倍の超難関校で,専門の予備校があり,ある経験者によると,1クラス40名で,ここで断トツで1番にならないと合格できない,と知って愕然とした,と言っていました。
結果は不合格で,親の勧めもあって,浪人はせずに多摩美術大学に入りました。その後,作曲,音楽の道に進みました。

そういう経緯を知って歌詞を見直すと,随所に腑に落ちる箇所があります。

この曲は1975年リリースのアルバム「COBALT HOUR」に収録されており,ハイ・ファイ・セットのデビュー・シングルとしても同時期の1975年に発売されています。

赤い鳥(69-74)が解散してハイ・ファイ・セット紙ふうせん(後藤・平山)になり,ハイ・ファイ・セット(74-94)が解散して,山本(新居)潤子の持ち歌になっています。

3月に卒業して,桜咲く4月に入学するという日本の伝統的な年度行事を,欧米風に9月開講に変更しようという動きがありますが,やはり従来式の方が季節感が馴染んでいて断然よいと思います。

季節の節目

今日この頃は,まさしく季節のかわり目,気温も天気も短い周期で大きく変動しています。
伝統的な年中行事を行なう季節の節目となる日を,節句といいます。

年間に様々な節句が存在していましたが,江戸時代に幕府が公的な行事を行なう日として,五節句を定めました。

漢名        日付  和名    料理
人日(じんじつ) 1月7日 七草の節句 七草粥
上巳(じょうし) 3月3日 桃の節句  菱餅,白酒
端午(たんご)  5月5日 菖蒲の節句 柏餅,菖蒲湯
七夕(しちせき) 7月7日 たなばた  そうめん
重陽(ちょうよう)9月9日 菊の節句  菊酒

おせち(御節)はもともと五節句の祝儀料理すべてをいっていましたが,のちに最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになりました。

五節句のなかでも桃の節句雛祭りが,もっとも華やかで冬から春へ季節の替り目の感じがひとしおです。

もともとは,5月5日の端午の節句とともに男女の別なく行われていましたが,江戸時代ごろから,豪華な雛人形は女の子に属するものとされ,端午の節句(菖蒲の節句)は「尚武(武事を重んずること)」にかけて男の子の節句とされるようになりました。

ひな祭りは,女子のすこやかな成長を祈る節句の年中行事で,ひなあそびとも言いました。
ひな人形を飾り,桃の花を飾って,白酒寿司などの飲食を楽しみ,雛あられ菱餅を供えます。

最初は儀式的なものではなく「雛あそび」の名前の由来がありましたが,川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり,「災厄よけ」に祀られました。
女子の「人形遊び」=「雛あそび」から節句としての「雛祭り」へとかわってゆき,一生の災厄をこの人形に身代わりさせるという祭礼的な意味合いが強くなり,身分の高い女性の嫁入り道具の一つにもなって,自然と華美になり,より贅沢なものになってゆきました。

ひな人形の種類は,

  • 内裏雛(だいりびな)あるいは親王と親王妃(男雛・女雛)。それぞれ天皇・皇后をあらわします。
  • 三人官女(さんにんかんじょ)宮中に仕える女官をあらわします。内1人はお歯黒・眉なしで既婚者(ないし年長者)です。
  • 五人囃子(ごにんばやし)能のお囃子を奏でる5人の楽人をあらわし,向かって右から,謡(うたい),笛(ふえ),小鼓(こつづみ),大鼓(おおつづみ),そして太鼓(たいこ)の順です。
  • 随身(ずいじん,ずいしん)通称右大臣左大臣で,向かって右が左大臣で年配者,向かって左が右大臣で若者で,いずれも武官の姿です。

ここでよく問題になるのが,男雛・女雛の並び方ですが,
現在,男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多く,それが一般的になっており,結婚式の新郎新婦もそれに倣っています。

ところが,日本の伝統では「」が上の位でした。
ですから,男雛も左大臣も左側,つまり向かって右に居るのが正式でした。

京雛では伝統的な並びで,関東雛と男雛と女雛の並ぶ位置は逆となっています。
ちなみに飾り物や紫宸殿(ししんでん,儀式が行われる正殿)の植栽でも,「左近の桜」「右近の橘」は,桜が左側(向かって右)にあります。

明治天皇の時代までは左が高位という伝統があったため帝は左に立ちましたが,文明開化により西欧の並びに合わせて,大正天皇以降は右に立たれています。

祭りの日が終った後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという話は昭和初期に作られた俗説とされており,旧暦の場合,梅雨が間近なので,早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから,というのが理由だとされています。

また,地域によっては「おひな様は春の飾りもの,季節の節できちんと片付ける,というけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」という,躾の意味から言われています。

この時季の歌としては,なんといっても最もなじみのあるのがこの曲です。

うれしいひな祭り山野三郎・作詞 河村光陽・作曲(1936)

あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花を上げましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
今日はたのしい ひな祭り

お内裏様と おひな様
二人ならんで すまし顔
お嫁にいらした 姉(ねえ)様に
よく似た官女の 白い顔

金のびょうぶに うつる灯を
かすかにゆする 春の風
すこし白酒 めされたか
あかいお顔の 右大臣

着物をきかえて 帯しめて
今日はわたしも はれ姿
春のやよいの このよき日
なによりうれしい ひな祭り

サトウハチロー(03-73)は東京出身の詩人・童謡作詞家・作家,山野三郎は数ある変名の一つ,作家の佐藤愛子は異母妹。
愛子さんは若いころは美形で遠藤周作などの憧れの存在だったらしいのですが,乱暴者の兄ハチローを嫌っており,その理由として「やっぱり兄妹どこか似ている」といわれるのが我慢できなかったそうです。
代表作は「リンゴの唄」「長崎の鐘」「お山の杉の子」「かわいいかくれんぼ」「おかあさん」など。

河村光陽(97-46)は福岡出身の作曲家,本名は直則,代表作は「グッドバイ」「かもめの水兵さん」など。

この「うれしいひな祭り」には正しくない表現が含まれており,サトウハチロー本人も気にしていたと言います。具体的には,男雛女雛を「お内裏様とお雛様」と呼ぶのはこの歌から広まった誤用で,また右大臣を「赤い顔」としているのも誤りです。

でも,いいじゃありませんか。こんなにみんなに親しまれ歌われて,やっぱり名曲だからです。
間違いは間違いとして正しく説明すれば,認識が深まってより良く後世に伝わるでしょう。

梅の花がかおると

東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花
主(あるじ)なしとて 春な忘れそ

これは菅原道真が京を去るときに詠んだ,あまりにも有名な和歌です。
最後は「春を忘るな」(拾遺和歌集)が初出ですが,古典の時間に「な・そ」で禁止の意味を強めると習ったことを思い出してその形で記しました。(これは正式には係り結びとは呼ばないそうです)

は,早春,葉に先だって開く花は,5弁で香気が高く,平安時代以降,とくに香をめで,詩歌に詠まれました。
たんに「」といえば「」を指しましたが,平安後期以降は「」を指すことに変っていきました。

菅原道真(845-903)は,平安時代の学者・漢詩人・政治家で,右大臣まで昇りましたが,左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ,他人をおとしいれるため目上の人にありもしないことを告げること)され,大宰府権師(ごんのそち)として左遷され,現地で亡くなりました。
死後,天変地異が多発し,道真の祟りと怖れられ,その怨霊を鎮めるために,京都の北野に北野天満宮が建てられました。
その後,「天神様」として天神信仰が全国に広まり,もともと学者だったことから,「学問の神」として信仰されることになりました。

その梅が,京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅」伝説も有名です。

道真(菅家)の「古今和歌集」の歌は,小倉百人一首の24番にも選ばれています。

このたびは 幣(ぬさ)も取り敢へず 手向山
紅葉の錦 神の随(まにまに)

この度の旅は,あわただしく発ちましたから,幣(ぬさ)の用意もできませんでした。手向山の神よ,このみごとな美しい紅葉の錦を私のささげる幣として,み心のままにお受けください。

ここで,幣(ぬさ)というのは,神主さんがお祓いのとき手にもつ白い紙ですが,この時代のは,色の絹を小さく切ったものだといいます。旅へ行くときはそれを幣袋に入れて,峠でまき,神に無事を祈るのです。

道真は,6月25日に生まれ,2月25日(いずれも旧暦)に亡くなっているので,25日は特別な「天神さん」の日になっています。

2月25日は,京都の北野天満宮梅花祭です。
しかし実際には,梅が咲くにはまだ少し早い時季です。
とくに今年は,気象庁の暖冬という長期予報がヤッパリはずれ,厳しい寒さがつづきましたから,開花は平年よりも遅くなるはずです。(ほんとに長期予報はよく外れますね)

7月25日大阪天満宮天神祭(日本三大祭の一)です。

この道真の失脚事件は,『菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ)として,人形浄瑠璃歌舞伎の演目になっています。
江戸時代の1746年,大坂の竹本座で初演,とくに四段目の『寺子屋』は,子供を殺してその首実検でわが子が身代りになっているのを知る,というなんとも恐ろしげな芝居ですが,独立して上演されることも多く,歌舞伎の代表的な狂言の一つになっています。

この季節の歌はこれにしましょうか。

春よこい相馬御風・作詞 弘田龍太郎・作曲

春よ来い 早く来い
あるき始めた みいちゃんが
赤いはなおの ジョジョはいて
おんもへ出たいと 待っている

春よ来い 早く来い
おうちの前の 桃の木の
つぼみもみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている

相馬御風(1883-1950)は新潟県出身の詩人・歌人・評論家,早稲田大学卒業,早稲田大学校歌『都の西北』の作詞。

弘田龍太郎(1892-1952)は高知生まれ,小学校は千葉,中学は三重,東京音楽学校(現・東京藝術大学)ピアノ科卒業,「赤い鳥」運動に参加,北原白秋と組んで多くの童謡を作曲,代表作は『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『靴が鳴る』など。

ところで,
2月26日は玉筋魚(いかなご)シンコ(稚魚)漁の解禁日で,阪神地区の家庭の多くでは大きな鍋で炊いて,いわゆるイカナゴ釘煮(くぎに)にして食べます。
これは佃煮の一種で,醤油・みりん・砂糖・生姜などを入れて水分がなくなるまで煮込みます。
炊きあがったイカナゴは茶色く曲がっており,錆びた釘に見えることから「釘煮」と呼ばれるようになりました。

このころは,三寒四温といって,3日寒くなって後4日暖かくなるというような変動を繰り返して春になってゆく季節です。

少し暖かくなったからといって油断せずに,あしたの天気予報をよく聞いて(あしたの予報は当たります)衣装の選択を間違えないようにして,元気で本格的な春をお迎えください。

司馬さんの思い出

2月12日は作家・司馬遼太郎さんの命日『菜の花忌』です。
国民的な歴史小説家であった司馬さんが亡くなって19年が経ちます。

改めて司馬(23-96)さんの略歴を記しますと,
本名は福田定一,大阪市の生まれ,筆名は「司馬遷に遼かに及ばない日本の者(太郎)」から来ています。
旧制・大阪外国語学校(新制・大阪外国語大学,現・大阪大学外国学部)蒙古語学科を仮卒業,学徒出陣で戦車隊に配属,栃木県佐野市で終戦を迎えます。

アメリカ軍(連合国軍)が東京に攻撃に来た場合に,栃木から東京に移動して攻撃を行なうという作戦に,
市民と兵士が混乱します。そういった場合どうすればいいのでしょうか」と,大本営からきた少佐参謀に聞いたところ,
轢(ひ)き殺してゆく」と答えたのをきき,軍隊は国民を守るための存在ではなかったのか,と疑問を持った22歳の司馬さんは,
なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう?」
いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」
昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として
22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐しています。

司馬さんの著作はたくさんあって代表作を選ぶのは難しいですが,なんといっても『龍馬がゆく』は間違いなくその一つです。
世間一般でイメージされる坂本龍馬像はこの小説で確立したといってもいいです。

最初,産経新聞の夕刊に連載(62-66)されました。
岩田専太郎(01-74)の艶のある挿絵もよかったし,毎日,学校帰りに読むのが楽しみの一つでした。
文春文庫(全8巻)になったのを再読しましたが,割愛されている部分も多く,やはり新聞の連載小説は読者の興味をつなぎとめるために,濡れ場などサービス・カットもたくさんあったのだと感じました。

菜の花忌』の由来にもなったのは長編小説『菜の花の沖』です。
江戸時代後期の廻船商人の高田屋嘉兵衛を主人公にした小説です。

嘉兵衛(1769-1827)は淡路島の貧家に生まれ,半農半漁をすて,兵庫にでて船乗りになり,苦労して船もちの廻船商人にまでなり,蝦夷・函館まで進出します。ゴローニン事件に巻き込まれ,カムチャツカに連行されますが,町人身分ながら日露交渉の間に立ち,事件解決へ導きました。
鎖国時代に外国へ行ったことは国禁を犯したことになるのですが,そのことは「お構いなし」を申し渡され,難しい国際問題の解決への「骨折り」に対して,幕府から「おほめ」があり,「ほうび」として金5両がさげわたされました。すべて異例のことです。

ゴローニン事件(ゴロヴニン事件とも表記)とは,1811年にロシアの軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン Головнин, Golovnin)が日本に抑留された事件です。
じつはこの前段階で,1807年にフヴォストロフが択捉(エトロフ)や樺太に上陸し,略奪や放火などの襲撃事件を起こしていたのです。

その後,測量目的で千島を訪れていたゴローニンが罪もないのに日本に捕えられたというわけです。

副艦長のリコルドが報復処置として,国後(クナシリ)沖で日本船の観世丸を拿捕(だほ)し,乗っていた高田屋嘉兵衛ゴローニンとの捕虜交換を画策します。

嘉兵衛カムチャツカに連行されてリコルドと同居するうちに,ロシア語も理解するようになり,信頼を得て友人としてもてなされ,ディアナ号で日本に向かう時には,船員たちからもタイショウ(大将)と敬意をもって呼ばれるようになります。

やがてディアナ号は湾口にでたとき,風の中で鳴るようにして帆を開いた。そのとき,リコルド以下すべての乗組員が甲板上に整列し,曳綱(ひきづな)を解いて離れてゆく嘉兵衛に向かい,

ウラァ,タイショウ

と,三度,叫んだ。嘉兵衛は不覚にも顔中が涙でくしゃくしゃになった。
(中略)
臨終のとき,まわりの者に,

ドウカ,タノム。ミンナデ,タイショウ,ウラァ
と喚(おら)んでくれ。

と小さな声でいった。まわりの者は何のことかわからず,不覚にも沈黙で酬(むく)いてしまった。

この小説を読んで以来,この「ウラァ」を生で聴いてみたい,とながらく思っていました。

その思いが実現したのは,
旧・ソ連のある共和国に赴任していたときのこと,あるレストランに入ったとき,10人ほどの団体が壮行会だったのでしょうか,車座で着席していました。
ほどなく,全員が立ち上がり,

ウッラー 〇〇

と三唱したのです。
その叫びは,はらわたの底に沁み渡るような声量と迫力でした。

本場ロシアの合唱を聴いたときに,とても人間の声とは思えないような音域・音量が聞こえることがありますが,声帯の違いとしか言いようのない,地鳴りするような大音声でした。

じつは,わたしの通っているスポーツジムに司馬さんの後輩たちがアルバイトでスタッフとして勤務しています。
「2月12日は何の日?」「さあ,しりません
「菜の花忌ですやん」「ナノハナキて何ですか?」
偉大な大先輩のことをもう少し知ってほしいな,と思いました。
ちなみに,この後輩たちは,ハンガリー語学科,蒙古語学科,デンマーク語学科,ペルシャ語学科の学生たちです。

昭和は遠くなりにけり
20世紀も遠くなりにけり

この季節にピッタリのあまりにも日本的なこの歌はどうでしょうか。

早春賦吉丸一昌・作詞 中田 章・作曲(1913)新作唱歌(三)

春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か

吉丸一昌(1873-1916)作詞家・文学者・教育者,東大卒,東京音楽学校(現・東京藝術大学)教授,大分県出身。

中田 章(1886-1931)作曲家・オルガニスト,東京音楽学校卒,東京音楽学校・教授,東京都出身,中田喜直は三男。

まだ寒い日が続きますが,まちがいなく春はそこまで来ていますから,もう少しの辛抱です。
風邪などひかないように注意して元気にお過ごしください。

肉のはなし

毎月29日は「肉の日」だそうです。
語呂合せで,29をニクと読んで肉の日になったということです。

ご存知のように,といえば,西牛東豚が,もう常識になっていますね。
肉ジャガにもカレーライスにも,関西では当然牛肉なのに,関東では豚肉を使うそうです。

関西では551蓬莱の「豚まん」なのに,関東では井村屋の「肉まん」で,〇〇家の「牛どん」がでたときに,関西では「肉どん」というのに,と違和感を持ちました。

そういえば,最後の将軍・第15代徳川慶喜(1837-1913)は薩摩の豚肉が好みで,「豚一(ぶたいち)様」と呼ばれたそうです。「一」は一橋家の出の意味です。
この人,維新の志士たちや幕臣たちのほとんどが早逝しているのに,76歳,大正期まで生きてのびています。

ちなみに,徳川御三家とは尾張・紀州・水戸であり,8代将軍吉宗(紀州家の出)以降に御三卿すなわち,田安・一橋・清水ができました。
慶喜水戸藩主・徳川斉昭の子ですが,一橋家に養子に入り,将軍家を継承しました。

先日,TV番組で,夫が「今夜,肉が食べたい」と連絡すると,妻はどんな料理を出すか,というような他愛のないことをやっていました。

結果,豚肉のしょうが炒め,トリのから揚げ,トンカツなど,ほとんど牛肉料理以外で,1軒だけすき焼きで,その夫は大喜びしていました。
これは妻の確信犯的行動で,健康のため,経済のため,分っていて作ったようです。現代の妻たちも頭が良いですね。

ここで,牛肉豚肉鶏肉の特徴を比較してみましょうか。

牛肉タンパク質脂質,ビタミンB2を多く含んでいます。赤身には鉄や亜鉛,リンなどのミネラルが豊富です。タンパク質は筋肉や血液をつくったり,体内の組織を再生したりするはたらきを持っていますが,体内に摂り入れるだけではなかなかエネルギーに変わりません。そこで活躍するのがビタミンBとミネラルで,代謝を促し,効率良くエネルギーに変えてくれます。太りやすくなるのは動物性脂肪が体内で固まりやすいことが原因です。

豚肉ビタミンB群牛肉の約5倍も含まれています。特に多く含まれるビタミンB1は,脳や中枢神経の働きを活性化させるはたらきがあるため,集中力や記憶力を高め,イライラを抑える効果があります。必須アミノ酸をバランス良く含んでいることも大きな特徴です。そのほか血管を拡張するはたらきもあり,動脈硬化や高血圧の予防に効果的とされるコリンも多く含まれていたりと,何かと健康効果が期待できるのが豚肉です。

鶏肉脂肪が少なく,消化が良いことが利点です。脂肪分が皮の部分だけなので,皮を取り除けば,脂質やコレステロールを抑えられるため,肥満防止に効果があります。必須アミノ酸のひとつであるメチオニンも多く,肝機能の強化や肝臓に脂肪が溜まる脂肪肝の予防効果があります。ビタミンA,ビタミンB6,ナイアシンを多く含んでおり,眼精疲労の緩和,精神安定などの効果が期待されます。また,皮や骨まわりの部位はコラーゲンが豊富で,肌の新陳代謝を促進します。

相撲取りは牛肉豚肉は食べず,鶏肉を食べます。
それは四足は負けを意味するので,二足で立つ鶏を好むのです。

また,かつての陸上競技短距離の王者カール・ルイスは鶏肉しか食べないことで有名でしたが,それはダイエットのためだったようです。

欧米人は肉食中心で進化してきており,腸の長さは肉食動物並みの4mになってきています。大腸ガン潰瘍性大腸炎になりやすく,肉食大国アメリカでは大腸ガンは死亡率の第2位です。

日本人も戦後の欧米化によって肉食中心の生活になりましたが,もともとは野菜や穀類で進化してきたため,欧米人に比べ長めの腸(7m)ですので,日本人が肉食すると,腸が長い分だけ腐敗便を作りやすく,悪玉菌増殖の危険性,増加した動物性脂肪の影響などで大腸ガン潰瘍性大腸炎その他の成人病を引き起こす可能性は他の民族に比べて大きいことになります。

日本は農耕民族で穀物を主食とし,300年前まで玄米菜食でした。675年天武天皇により肉食禁止令が出されて以来,7世紀から19世紀(江戸末期)までの間,原則として肉食は禁止されていました。しかし体が温まるなど薬膳として,あるいは猟師などが密かに食べてはいました。

人間の歯は動物を取ってしとめるキバはなく,草食に適した臼歯があります。

人類が進化する過程で,肉食するようになって,脳細胞が飛躍的に増大して,絶大な思考力を得るようになったという説があります。
しかし,現在,肉食を増やしても,残念ながら脳が増大することはありません。

必要なたんぱく質を摂取するために,肉食は必要ですが,控えめにして,牛肉よりも豚肉や鶏肉を中心にする方が健康維持には良いでしょう。

さて,
寒い冬の歌はこの曲にしましょうか。

ペチカ北原白秋・詞 山田耕筰・曲(1925)「子供の村」

雪のふる夜は たのしいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
むかしむかしよ 燃えろよペチカ

雪のふる夜は たのしいペチカ
ペチカ燃えろよ おもては寒い
栗や栗やと 呼びますペチカ

雪のふる夜は たのしいペチカ
ペチカ燃えろよ じき春来ます
いまにやなぎも 萌えましょペチカ

雪のふる夜は たのしいペチカ
ペチカ燃えろよ 誰だか来ます
お客さまでしょ うれしいペチカ

雪のふる夜は たのしいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
火の粉ぱちぱち はねろよペチカ 

ペチカпечка,pechka)はロシアの暖炉調理装置です。
煙道がめぐらしてあるレンガなどで造った壁面の輻射熱で部屋を暖めます。

ここで,熱の伝わり方を簡単に説明しますと,伝導・対流・輻射の3つの移動方法があります。

熱伝導とは,物質の移動を伴わずに高温側から低温側へ熱が伝わる移動現象です。鍋の取っ手が熱くなるのは,その一例です。

熱対流とは,流体(液体,気体)内の加熱された部分は膨張し密度が小さくなって上昇し,そこへ周囲の低温の流体が流入して行われる熱移動です。鍋で湯を沸かすと,液体の熱移動が見られます。

熱輻射(ふくしゃ,放射)とは,高温の固体表面から低温の固体表面に,その間の気体の存在に関係なく,直接に電磁波の形で伝わる熱移動をいいます。太陽からの熱の伝わり方がその例です。

輻射型の暖房装置には,中国にかん),朝鮮はオンドル(温突)という伝統的な床暖房がありました。
これは台所のかまどで煮炊きしたときに発生する煙を居住空間の床下に通し,床を暖めることによって部屋全体をも暖める設備です。

日本でこのような本格的な暖房システムが普及しなかったのは,比較的温暖な気候のせいでしょう。

田舎ではいろり(囲炉裏)という調理・暖房器がありました。

温暖地ではせいぜい火鉢という局所暖房器でしょうか。
しかし,火鉢に入れた炭火五徳(ごとく)の上で鉄瓶がチンチンと鳴っている様には風情がありました。
また,五徳に金網をのせて,餅ないしオカキをじっくり焼きあげるのは,味わい深いものがありました。

春までもう少し,インフルエンザなどに罹らず,元気にお過ごしください。

加湿の効果と問題点

先日テレビで加湿器を紹介する番組がありました。
食事中に居間から聞こえてきた音声だけの内容なので詳しくは分りませんが,冬季の加湿の必要性にも言及していたと思います。

一般の聴取者のみなさんが,なるほど冬の加湿は必要なのか,という考慮を欠いた考え方に警告を与えるために,この記事を書いています。

たしかに,乾燥状態が続くと,のどや気管支は防御機能が低下するため,インフルエンザ・ウイルスによる感染が起こりやすくなります。

また,「ゴホン10万,ハクション100万」という言葉があるそうで,風邪をひくと1回の咳(せき)で10万個,1回のくしゃみで100万個のウイルスが空気中にばらまかれるといわれています。このウイルスは,乾燥状態では空気中に漂う時間が長くなりますが,湿度の高い状況では,すぐに地面に落下してしまい,感染の危険性が減るというのです。

しかし,一般の人たちはあまり気づいていないのですが,とても重大な建物側からの問題点があります。

それは「結露」の問題です。

結露といえば,窓につく水滴,ぐらいに思っている方々がいますが,窓ガラスだけで収まってくれれば,それほど大きな問題にはならないのですが,空気中の水分はいろんな場所に流れ込んで,見えないところで害を及ぼすので問題が大きいのです。

空気中や材料の内部に含まれる水分のことを「湿気(しっき,しっけ)」と呼び,液体(水)と気体(水蒸気)の両方の状態をいいます。

湿気の性質は,拡散性が高く防湿がむずかしいことです。
また,空気中に含み得る水分の量は,温度に関係し,高温では多く,低温になるにしたがって少なくなります。
ですから,低温になると,気体の状態でおれなくて,液体にもどり結露を引き起こすのです。

寒い地方では,建物内部で起こった結露のために氷結して,建物が破壊するような重大被害も起こりました。

ですから,寒冷地では壁の断熱を十分にして冷えないように,そして防湿を完全にして建材内部に水分が行かないように,という断熱防湿工法が建物を守るために一般化しました。

北海道などの寒冷地では,室内を常に暖房しておくのが常識で,学生時代,北海道から京都に出てきた学生が,京都は寒いといってパッチ(ズボン下,タイツ)を2枚重ねで着ておりました。

つまり,われわれの住む比較的温暖な地方では,必要な部屋に,必要な時間帯だけ暖房するという,部屋別暖房間欠暖房が,経済的な観点から,ふつうの住み方です。

まず,知っておいていただきたいのは,暖房している部屋では加湿しなくても,湿度はある程度高くなっているのが普通だということです。
それは厨房の調理による水蒸気の流入,風呂場からユゲの流入,観葉植物の水やり,洗濯物ほし,金魚鉢などの水槽,人間の呼気からの水分(静座50g/h)発生,床壁天井・家具からの水分の放湿などがあるからです。

また,ガス・ファンヒータや石油ファンヒータなどの燃焼型の暖房機器を使っている場合は,排気ガスの問題に加えて,多量の水分を発生します。
まさか,ストーブの上にヤカンをのせるという,前時代的な過剰加湿をする家庭は,少ないと思いますが・・・。

暖房しているとき,暖房していない部屋(非暖房室)で結露が起こることがあります。
それは,暖房室からの湿気非暖房室に流れ込み(拡散性が良いため),床壁天井が冷えているため,そこで結露が起こることがあります。
これは,暖房室に接している押入れ防湿がむずかしい)内部で結露が起こるのも同じ原理です。

間欠暖房の部屋で加湿をしたとすると,暖房を停止しているときに室内の床壁天井の温度が下がり,かならず結露が発生します。

室内表面の結露も,窓ガラス面だけなら処理は容易なのですが,家具の裏の壁に発生した結露などは見過ごされて,黴(かび)の発生につながったりします。

このように,建築技術に携わる専門技術者たちは,建物を安全・清潔に保つために種々努力を重ねて来ました。

部屋を加湿すると風邪を引きにくくするというのは,事実でしょうが,加湿することでの問題点も大きいので,よく考えてご利用ください。

暖房加湿を切るときに,部屋の窓を開けて換気すると結露の被害は減少されますが,「ガスファンヒータをご使用のみなさんは,30分に1度,窓を開けて換気してください」というガス会社のテレビ広告と同様に,実行するのがむずかしいことです。

さて,
この時期にふさわしい歌はこの曲にしましょうか。

とうだいもり勝 承夫・作詞 アメリカ民謡(1889)明治唱歌(三)旅泊

こおれる月かげ 空にさえて
ま冬のあら波 よする小島
思えよ とうだいまもる人の
とうときやさしき 愛の心

はげしき雨風 北の海に
山なすあら波 たけりくるう
その夜も とうだいまもる人の
とうとき誠よ 海をてらす

灯台守といえば,
映画『喜びも悲しみも幾年月木下恵介・監督 佐田啓二・高峰秀子・主演(1957)では,海の安全を守るため,日本各地の辺地に点在する灯台を転々としながら,厳しい駐在生活を送る灯台守夫婦の,戦前から戦後に至る25年間を描いた長編ドラマの名作でした。
映画では男声合唱でしたが,のちに若山彰の歌唱による同名の主題歌が大ヒットしました。
作曲家の木下忠司さんは監督の木下恵介さんの弟さんで,いまもご健在です。

喜びも悲しみも幾年月木下忠司・作詞作曲(1957)

おいら岬の 灯台守は
妻と二人で 沖ゆく舟の
無事を祈って 灯をかざす 灯をかざす

冬がきたぞと 海鳥鳴けば
北は雪国 吹雪の夜の
沖に霧笛が 呼び掛ける よびかける

離れ小島に 南の風が
吹けば春くる 花の香だより
遠い故郷 思い出す 思い出す

あしたに夕べに 入船出船
妻よ頑張れ 涙をぬぐえ
燃えてきらめく 夏の海 夏の海

星をかぞえて 波の音きいて
ともにすごした 幾年月の
喜び悲しみ 目にうかぶ 目にうかぶ

しかし,2006年に灯台は無人化され,国内の灯台守は消滅しました。

年の始めの

年の始めのためしとて」は,唱歌「一月一日」の歌い出しで,「ためし」は「」で,決して「試し」ではありません。
年始の先例のように」というような意味です。

元旦(元日の朝)には,お屠蘇(とそ)を飲み,それぞれのお国柄の雑煮おせち料理をたべて,新年の祝儀をおこないます。

厚い新聞が届きますが,正月の新聞は読みごたえがないですね。

ほどなくとどく年賀状は,いっとき,虚礼廃止だとか,メールで済ます,などですたれた感がありましたが,年に一度の安否確認の意味もあって,なくならずに続いています。

正月が困るのは,スポーツジムも休館だし,テニスコートも開いてないし,初詣に出かけるにも混んでいるし,TV番組も似たようなものばかりで飽きるし,身体を持て余すことです。

唯一といっていいTVの楽しみは,オーストリアのウィーンから生でとどけられる,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の「ニュー・イヤー・コンサート」でしょうか。
現在では世界の40ヵ国以上に生中継されています。
ちなみに,オーストリアと日本の時差は8時間,日本が進んでいます。

会場はウィーン楽友教会(Wiener Musikverein,ヴィーナー・ムジークフェライン)の大ホールで,ホール内部の絢爛豪華な装飾とともに,その音響の素晴らしさから通称「黄金のホール」と呼ばれています。

演奏会は,マチネ(昼間の興行)のため,演奏者は燕尾服やタキシードではなく,フロックコートかモーニング,略式でもズボンはグレーの縞物です。

演目はおもにワルツポルカです。
このウィンナ・ワルツと呼ばれるクイック・ワルツは独特で,3拍子が均等間隔ではなく,2拍目がひっかかり気味に演奏され,ウィーン生まれでなければこのリズム感がとれない,などと言われたりしています。

この伝統あるコンサートでは,アンコールとして,ヨハン・シュトラウスⅡの「美しく青きドナウ」,そして最後にヨハン・シュトラウスⅠの「ラデツキー行進曲」を演奏するのがならわしとなっています。

美しく青きドナウ」の冒頭が演奏されると一旦拍手が起こり演奏を中断,指揮者およびウィーン・フィルからの新年のあいさつがあり,再び最初から演奏を始めるのもならわしです。

新年の挨拶はその年の指揮者により色々な趣向で行なわれます。
たとえば,2002年のコンサートではウィーン・フィルの楽員に縁のある国の言葉で新年の挨拶を述べるという形で行なわれ,日本語のあいさつはコンサート・マスターが日本語で(妻が日本人),指揮者の小澤征爾が中国語(満洲生まれ)であいさつしました。

最後の最後の「ラデツキー行進曲」では,小太鼓が高らかに打ち鳴らされると,観客はもう待ってましたとノリノリで手拍子で参加します。

指揮者が誰になるのかも,注目ですが,今年2015年はズービンメータが5回目の登場でした。

ズービン・メータ(1936-)さんは,インドの出身,われわれの記憶に新しいのは,
2011年3月,フィレンツェ歌劇団を率いて来日しましたが,東日本大震災に遭遇,福島原発事故の影響を危惧するフィレンツェ市長の帰国命令によって日程半ばで中止となりました。
「日本の友人たちのために何も演奏できずに去るのは悲しい」と涙しました。
2011年4月10日,多くの外国人演奏家の来日キャンセルが続くなか,東京のオペラの森公演でベートーヴェンの「第九」(管弦楽はNHK交響楽団)を渾身の演奏し,観客は熱狂的に迎え,収益は全額寄付されるチャリティコンサートでした。

2002年の指揮者は小澤征爾(1935-)さんでした。
観客席には元モデルの妻,俳優の息子たちの顔が見えました。

観客といえば,以前,久米宏「ニュース・ステーション」で夜桜中継をしていた元銀行員の姿を何度も目にしました。

一度は生で見てみたい聴いてみたいという願望はありますが,なにせ,日本からの観劇ツアーがありますが,なんと,お一人様120万円(!)からの費用では,おいそれとは行けません。
ネットから自分で座席を確保できますから,ホテルも自分で予約して,格安航空券を利用すれば,何分の一かの費用で可能なはずです。

美しく青きドナウ」(An der schönen blauen Donau)は,1866年の普墺戦争(プロイセン王国とオーストリア帝国との戦争)で大敗し,失望の底に沈んだウィーン市民を慰めるために,ヨハン・シュトラウスⅡ(1825-1899)が1867年に最初,男声合唱曲として作曲しましたが,不評のため,管弦楽曲に書き直されて,人気が出ました。オーストリアの第2の国歌といわれています。

やはり年頭は,2012年ニューイヤーコンサートでのマリス・ヤンソンス指揮の「美しく青きドナウ」にしましょう。
ヤンソンス(1943-,ラトビア)は来年2016年の指揮者にも予定されています(3回目)。

実際の観劇では見られない(と思います)バレエがTVでは見られるのが良いところですね。
この2012年は特にバレエに趣向が凝らされており,上記の踊りの舞台もベルヴェデーレ宮殿ですが,そこの絵画館に所蔵されているクリムトの「接吻」のまえで,絵から抜け出たように踊るバレエ・シーンもありました。(バレエはウィーン国立バレエ団)

さて,
松の内」とは,正月の松飾がある間の称ですが,関西では昔ながらに15日までですが,関東では7日までと短縮されています。

また,
1月7日には,正月のごちそうに疲れ気味の胃を休めるために,春の七草を入れて炊いた七草粥(ななくさがゆ)を食べる習慣があります。
ところで春の七草は,つぎの和歌で覚えます。

せり・なずな ごぎょう・はこべら
ほとけのざ すずな・すずしろ
これぞ七草

ここに,
「なずな」はペンペン草
「ごぎょう」はハハコグザ
「はこべら」はハコベ
「ほとけのざ」はコオニタビラコ
「すずな」は蕪(かぶ)
「すずしろ」は大根

さらに,
1月8日は初薬師
1月10日は十日恵比寿(えべっさん)
1月14日は四天王寺どやどや
1月18日は初観音
1月21日は初弘法(初大師)
1月24日は初地蔵若草山山焼き
1月25日は初天神
1月28日は初不動

と「初」の付く行事がめじろ押し,1月は寒いのに,何かと心急き(こころぜき)な時節なのです。
風邪など引かないよう,元気にお過ごしください。