落語とわたしと

まず,
桂米朝さんの著書『落語と私』ポプラ社(75)文春文庫(86)とは全くの別物なのでお間違いなく。

米朝さんのこの本は,中学生・高校生を対象にして,若い人向きに,といいながら,落語の歴史から,落語の基本,寄席にいたるまで,ていねいに解説されている名著です。

わたしの落語との出会いは,ラジオで,なぜかお気に入りは,三遊亭金馬(1894-1964)で,現在の金馬はまだ小金馬(1929-)と名のり,NHKの公開バラエティコメディ番組『お笑い三人組』ラジオ(55-60)TV(56-66)で江戸家猫八(1921-2001),一龍齋貞鳳(1926-)らと共演していた頃です。

金馬さんをヒイキにした理由は,野太い「熊五郎」から艶のある「おかみさん」そしてけなげな「こども」にいたるまで,声づかいが明瞭で子供ごころにも分りやすかったから,と思います。
のちに,金馬さんが禿頭で乱杭歯なのを知り,びっくりしたのを覚えています。

わたしが桂米朝さんを知ったのは最初ラジオで朝日放送の専属(1958-)だったころだと思います

大阪の演芸場・千日劇場からの中継録画による演芸番組『お笑いとんち袋』(65-67)では大喜利の司会をされていました。
小咄・謎かけ・川柳などを,複数の回答者が即興で回答するというもので,そこで異才をはなっていたのが,当時の小米(のちの枝雀)でした。いつも大ボケをして罰として顔に墨を塗られていました。

TVのワイドショー・トーク番組『ハイ!土曜日です』(66-82)では,共演者のSF作家・小松左京,西洋史の京大・会田雄次,薬師寺住職・高田好胤などを相手に,打打発止の司会をつとめました。

じつは,わたしが生の落語を聞いたのはそれほど古いことではありません。
池田市民文化会館の創立5周年記念として,大ホールで『米朝・圓楽二人会』が1980年4月に開催されました。
そのとき,米朝さんいわく「場所柄『池田の猪買い(ししかい)』をやってくれと言われまして」と。
噺の内容は,大阪の丼池(どぶいけ)から猪(しし)の肉を求めて池田の山猟師の六太夫さんを訪ねて行く,というものですが,とても面白かったです。
共演者の先代・圓楽さんは「星の王子さま」と名のっていた人ですが,何を公演したのか,まったく記憶にありません。

それ以降,落語にいささかはまりました。
当時,落語の定席はありませんでしたから,米朝さんがはじめられたいわゆる「ホール落語」を求めて,いろんな地方の公立の会館での公演をさがし,遠くは,大阪から70km以上離れた兵庫県加古川市まで足をのばしたりしました。

もっとも良い会場は朝日生命ホールで,御堂筋ぞいの淀屋橋と本町の間にありますが,席数が400名足らずなので,肉声で落語が聴けることです。いまでも落語の聖地とされているようです。

1972年からは毎年,正月と夏にサンケイホールで独演会をやるのが恒例になっていて,よく聴きに行きました。

わたしの好きなネタは,『百年目』『はてなの茶碗』『持参金』などたくさんありますが,掘起し再構築した長編『地獄八景亡者戯れ』,自作の『一文笛』など,面白いネタにことかきません。

いまさらですが,
米朝(1925.11.6-)さんの歴史を振返ると,本名は中川清,満洲の大連で生まれ,姫路市の出身,大東文化学院に進学中,正岡容(いるる,04-58)に入門,弟弟子に小沢昭一加藤武などがいます。
師・正岡の「伝統ある上方落語は消滅の危機にある,復興に命をかけろ」との言葉を受け,1947年に桂米團治に入門し,「3代目桂米朝」を名のりますが,1951年に米團治は55歳で死去してしまいます。

それ以後,衰微をきたしていた上方落語を,上方落語四天王といわれた6代目笑福亭松鶴,3代目桂小文枝(後の5代目文枝),3代目桂春団治らと共に復興に尽力しました。

とくに米朝さんの功績は,一度滅んだ噺を文献から発掘したり,落語界の古老から聴き取り調査をして多数復活させていことです。

その成果は,つぎの2冊の著書にくわしいです。
米朝落語全集』単行本,全7巻,創元社,1980.1-1982.1
上方落語 桂米朝コレクション』文庫,全8巻,筑摩書房,2002.9-2003.7

1995年に柳家小さん(1915-2002)が,いきなり重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され,周辺も本人も「なぜ?」と,文楽,志ん生,円生などの名人上手と言われた人たちでも認定されなかったのに,とざわめきました。

翌1996年に,米朝さんが人間国宝に認定され,いかにも日本の役所らしいやり方をみんなが納得しました。

2009年には,演芸人としては初の文化勲章を受章されました。

このように名実ともに落語家として最大級の評価を受けた米朝さんですが,唯一の無念があるとしたら,後継を託すべき,有能な弟子を二人まで,亡くしてしまったことではないでしょうか。

その第一は桂枝雀(1939-1999)です。
本名は前田達(とおる)で,神戸市で生まれ,伊丹市の出身,父の死去により家庭は貧しく,神戸大学文学部に入学後1年で退学して,1961年に米朝に入門,小米(こよね)を名のり,1973年に枝雀を襲名します。
枝雀襲名後,芸風を大幅に変え,オーバーアクションで大爆笑をとり,独演会はいつも満席になりました。

TVのバラエティ番組『浪花なんでも三枝と枝雀』(82.4-85.12)というのがありまして,その縁で『枝雀・三枝二人会』を開催しました。
当時の三枝(現6代文枝)は,まだ古典をやっていたのですが,マクラではTVのような笑いがとれるのに,本ネタになると,ピタッと笑いが消えるのです。
芸の力というものは,残酷なものですね。誰にでもわかるんです,良し悪しが。
三枝本人が一番それに気づいたのでしょう。
その時以来,古典はキッパリとあきらめ,「創作落語」と称する「新作落語」の道に進むのです。

枝雀の演じるわたしの好きなネタは,『宿替え』『高津の富』『不動坊』など,それこそたくさんあります。

朝日生命ホールでの独演会など,演者と客席が一つになり,同じ呼吸をして,演者につられて,客の体が前後に動くような一体感がありました。

わがまち池田でも,市民文化会館小ホールで,枝雀寄席が1月の恒例となり,1981から1998まで続きました。

ほとんど最後のほうと思われる公演を聴きましたが,体調不良とは聞いていましたが,余りにも生気がなかったのを心配しましたが,直後,自殺で亡くなるという訃報を聞いて驚きました。
享年59歳でした。
とても残念でした。

そのつぎは桂吉朝(1954-2005)です。
1974年に米朝に入門し,本格的な正統の上方落語を継承するものとして期待されましたが,胃がんでわずか50歳で死去しました。
時うどん』を,江戸の『時そば』風に粋に話していたのが,思い出されます。

今はその弟子の桂吉弥(1971-)が大活躍中ですが,もう少し仕事量を整理した方が良いのでは,と心配します。

上方落語協会としての不幸は,6代目松鶴が1986年に亡くなった後,米朝さんに会長を任せなかったことです。
当然,会長職は米朝さんが引き継ぐものと思われていたのに,松鶴一門の猛反対で,実現しませんでした。
その後,小文枝春団治も会長を歴任していますから,一番の功労者を会長に据えなかったのは全く不可解で,協会の汚点といってもいいでしょう。

その影響もあって,枝雀一門はいまだに協会を脱退したままです。

上方落語協会としては長年の悲願であった落語の定席「天満天神繁昌亭」(2006年開席)を設立しましたが,枝雀一門は孫弟子までも出演できません。

時節がら,誰もが知っているこの歌『Holy Night(聖夜,きよしこの夜)』にしましょうか。

Holy Nightきよしこの夜)』
・作詞:Josef Mohr,作曲:Franz Gruber(1818)
(讃美歌 第109番)

Silent night, Holy night
All is calm, all is bright
Round you virgin mother and Child
Holy Infant, so tender and mild,
Sleep in heavenly peace,
Sleep in heavenly peace.

きよし このよる
ほしは ひかり
すくいの みこは
まぶねの なかに
ねむり たもう
いと やすく

 いかがですか,心が洗われる思いがするでしょう。
クリスマスとはキリストの降誕祭です。
1年に1度くらいは神聖な気持ちで過ごすのもよいのではありませんか。

また落語に話を戻して,いささか蛇足ぎみに,
たった1人で行なう,この伝統芸能は,かなり難しく,枝雀さんのようにネタクリと呼ばれる稽古を怠らないようにしないと,滑らかに口がまわりません。
たとえば,寿限無などの長セリフを「立て板に水」のように息もつかないで言い切らないと,臨場感が出ません。

あの米朝さんでさえ,2002年,東京・歌舞伎座での『百年目』の公演を最後に,人前で落語をやっていません。
あのとき,旦那が長々と番頭相手に語り掛けるセリフの1部が抜けました,なんとか元へ戻って,話の終結は付けましたが,「一生の不覚,大恥をかいた」とご本人もへこみました。

息子の小米朝が2008年に5代目桂米團治を襲名するとき,その襲名披露公演で,大胆にもこの大ネタ『百年目』をやりました。
不思議なものですね,おなじセリフをしゃべっているのに,旦那にも大番頭にも見えないんですね。
思わずツッコミを入れました,「キミには百年早い!」と。

最近,落語家たちも,趣味の多い人たちが増えてきて,サックスを吹いたり,クラッシク音楽の司会をしたり,飛行機を操縦したりする人たちがいます。
芸というものは正直なものですね。
昔から,「練習はウソをつかない」と言いますが,稽古量の差が出るんです。
「天才」と言われた枝雀さんでさえ,趣味が落語というくらい,落語一筋でした。
「凡人」のその他の芸人たちが追いつけるはずがありません。

落語は奥が深いのです。
最近は落語を聴きに行かなくなりました。

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