梅の花がかおると

東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花
主(あるじ)なしとて 春な忘れそ

これは菅原道真が京を去るときに詠んだ,あまりにも有名な和歌です。
最後は「春を忘るな」(拾遺和歌集)が初出ですが,古典の時間に「な・そ」で禁止の意味を強めると習ったことを思い出してその形で記しました。(これは正式には係り結びとは呼ばないそうです)

は,早春,葉に先だって開く花は,5弁で香気が高く,平安時代以降,とくに香をめで,詩歌に詠まれました。
たんに「」といえば「」を指しましたが,平安後期以降は「」を指すことに変っていきました。

菅原道真(845-903)は,平安時代の学者・漢詩人・政治家で,右大臣まで昇りましたが,左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ,他人をおとしいれるため目上の人にありもしないことを告げること)され,大宰府権師(ごんのそち)として左遷され,現地で亡くなりました。
死後,天変地異が多発し,道真の祟りと怖れられ,その怨霊を鎮めるために,京都の北野に北野天満宮が建てられました。
その後,「天神様」として天神信仰が全国に広まり,もともと学者だったことから,「学問の神」として信仰されることになりました。

その梅が,京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅」伝説も有名です。

道真(菅家)の「古今和歌集」の歌は,小倉百人一首の24番にも選ばれています。

このたびは 幣(ぬさ)も取り敢へず 手向山
紅葉の錦 神の随(まにまに)

この度の旅は,あわただしく発ちましたから,幣(ぬさ)の用意もできませんでした。手向山の神よ,このみごとな美しい紅葉の錦を私のささげる幣として,み心のままにお受けください。

ここで,幣(ぬさ)というのは,神主さんがお祓いのとき手にもつ白い紙ですが,この時代のは,色の絹を小さく切ったものだといいます。旅へ行くときはそれを幣袋に入れて,峠でまき,神に無事を祈るのです。

道真は,6月25日に生まれ,2月25日(いずれも旧暦)に亡くなっているので,25日は特別な「天神さん」の日になっています。

2月25日は,京都の北野天満宮梅花祭です。
しかし実際には,梅が咲くにはまだ少し早い時季です。
とくに今年は,気象庁の暖冬という長期予報がヤッパリはずれ,厳しい寒さがつづきましたから,開花は平年よりも遅くなるはずです。(ほんとに長期予報はよく外れますね)

7月25日大阪天満宮天神祭(日本三大祭の一)です。

この道真の失脚事件は,『菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ)として,人形浄瑠璃歌舞伎の演目になっています。
江戸時代の1746年,大坂の竹本座で初演,とくに四段目の『寺子屋』は,子供を殺してその首実検でわが子が身代りになっているのを知る,というなんとも恐ろしげな芝居ですが,独立して上演されることも多く,歌舞伎の代表的な狂言の一つになっています。

この季節の歌はこれにしましょうか。

春よこい相馬御風・作詞 弘田龍太郎・作曲

春よ来い 早く来い
あるき始めた みいちゃんが
赤いはなおの ジョジョはいて
おんもへ出たいと 待っている

春よ来い 早く来い
おうちの前の 桃の木の
つぼみもみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている

相馬御風(1883-1950)は新潟県出身の詩人・歌人・評論家,早稲田大学卒業,早稲田大学校歌『都の西北』の作詞。

弘田龍太郎(1892-1952)は高知生まれ,小学校は千葉,中学は三重,東京音楽学校(現・東京藝術大学)ピアノ科卒業,「赤い鳥」運動に参加,北原白秋と組んで多くの童謡を作曲,代表作は『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『靴が鳴る』など。

ところで,
2月26日は玉筋魚(いかなご)シンコ(稚魚)漁の解禁日で,阪神地区の家庭の多くでは大きな鍋で炊いて,いわゆるイカナゴ釘煮(くぎに)にして食べます。
これは佃煮の一種で,醤油・みりん・砂糖・生姜などを入れて水分がなくなるまで煮込みます。
炊きあがったイカナゴは茶色く曲がっており,錆びた釘に見えることから「釘煮」と呼ばれるようになりました。

このころは,三寒四温といって,3日寒くなって後4日暖かくなるというような変動を繰り返して春になってゆく季節です。

少し暖かくなったからといって油断せずに,あしたの天気予報をよく聞いて(あしたの予報は当たります)衣装の選択を間違えないようにして,元気で本格的な春をお迎えください。

司馬さんの思い出

2月12日は作家・司馬遼太郎さんの命日『菜の花忌』です。
国民的な歴史小説家であった司馬さんが亡くなって19年が経ちます。

改めて司馬(23-96)さんの略歴を記しますと,
本名は福田定一,大阪市の生まれ,筆名は「司馬遷に遼かに及ばない日本の者(太郎)」から来ています。
旧制・大阪外国語学校(新制・大阪外国語大学,現・大阪大学外国学部)蒙古語学科を仮卒業,学徒出陣で戦車隊に配属,栃木県佐野市で終戦を迎えます。

アメリカ軍(連合国軍)が東京に攻撃に来た場合に,栃木から東京に移動して攻撃を行なうという作戦に,
市民と兵士が混乱します。そういった場合どうすればいいのでしょうか」と,大本営からきた少佐参謀に聞いたところ,
轢(ひ)き殺してゆく」と答えたのをきき,軍隊は国民を守るための存在ではなかったのか,と疑問を持った22歳の司馬さんは,
なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう?」
いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」
昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として
22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐しています。

司馬さんの著作はたくさんあって代表作を選ぶのは難しいですが,なんといっても『龍馬がゆく』は間違いなくその一つです。
世間一般でイメージされる坂本龍馬像はこの小説で確立したといってもいいです。

最初,産経新聞の夕刊に連載(62-66)されました。
岩田専太郎(01-74)の艶のある挿絵もよかったし,毎日,学校帰りに読むのが楽しみの一つでした。
文春文庫(全8巻)になったのを再読しましたが,割愛されている部分も多く,やはり新聞の連載小説は読者の興味をつなぎとめるために,濡れ場などサービス・カットもたくさんあったのだと感じました。

菜の花忌』の由来にもなったのは長編小説『菜の花の沖』です。
江戸時代後期の廻船商人の高田屋嘉兵衛を主人公にした小説です。

嘉兵衛(1769-1827)は淡路島の貧家に生まれ,半農半漁をすて,兵庫にでて船乗りになり,苦労して船もちの廻船商人にまでなり,蝦夷・函館まで進出します。ゴローニン事件に巻き込まれ,カムチャツカに連行されますが,町人身分ながら日露交渉の間に立ち,事件解決へ導きました。
鎖国時代に外国へ行ったことは国禁を犯したことになるのですが,そのことは「お構いなし」を申し渡され,難しい国際問題の解決への「骨折り」に対して,幕府から「おほめ」があり,「ほうび」として金5両がさげわたされました。すべて異例のことです。

ゴローニン事件(ゴロヴニン事件とも表記)とは,1811年にロシアの軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン Головнин, Golovnin)が日本に抑留された事件です。
じつはこの前段階で,1807年にフヴォストロフが択捉(エトロフ)や樺太に上陸し,略奪や放火などの襲撃事件を起こしていたのです。

その後,測量目的で千島を訪れていたゴローニンが罪もないのに日本に捕えられたというわけです。

副艦長のリコルドが報復処置として,国後(クナシリ)沖で日本船の観世丸を拿捕(だほ)し,乗っていた高田屋嘉兵衛ゴローニンとの捕虜交換を画策します。

嘉兵衛カムチャツカに連行されてリコルドと同居するうちに,ロシア語も理解するようになり,信頼を得て友人としてもてなされ,ディアナ号で日本に向かう時には,船員たちからもタイショウ(大将)と敬意をもって呼ばれるようになります。

やがてディアナ号は湾口にでたとき,風の中で鳴るようにして帆を開いた。そのとき,リコルド以下すべての乗組員が甲板上に整列し,曳綱(ひきづな)を解いて離れてゆく嘉兵衛に向かい,

ウラァ,タイショウ

と,三度,叫んだ。嘉兵衛は不覚にも顔中が涙でくしゃくしゃになった。
(中略)
臨終のとき,まわりの者に,

ドウカ,タノム。ミンナデ,タイショウ,ウラァ
と喚(おら)んでくれ。

と小さな声でいった。まわりの者は何のことかわからず,不覚にも沈黙で酬(むく)いてしまった。

この小説を読んで以来,この「ウラァ」を生で聴いてみたい,とながらく思っていました。

その思いが実現したのは,
旧・ソ連のある共和国に赴任していたときのこと,あるレストランに入ったとき,10人ほどの団体が壮行会だったのでしょうか,車座で着席していました。
ほどなく,全員が立ち上がり,

ウッラー 〇〇

と三唱したのです。
その叫びは,はらわたの底に沁み渡るような声量と迫力でした。

本場ロシアの合唱を聴いたときに,とても人間の声とは思えないような音域・音量が聞こえることがありますが,声帯の違いとしか言いようのない,地鳴りするような大音声でした。

じつは,わたしの通っているスポーツジムに司馬さんの後輩たちがアルバイトでスタッフとして勤務しています。
「2月12日は何の日?」「さあ,しりません
「菜の花忌ですやん」「ナノハナキて何ですか?」
偉大な大先輩のことをもう少し知ってほしいな,と思いました。
ちなみに,この後輩たちは,ハンガリー語学科,蒙古語学科,デンマーク語学科,ペルシャ語学科の学生たちです。

昭和は遠くなりにけり
20世紀も遠くなりにけり

この季節にピッタリのあまりにも日本的なこの歌はどうでしょうか。

早春賦吉丸一昌・作詞 中田 章・作曲(1913)新作唱歌(三)

春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か

吉丸一昌(1873-1916)作詞家・文学者・教育者,東大卒,東京音楽学校(現・東京藝術大学)教授,大分県出身。

中田 章(1886-1931)作曲家・オルガニスト,東京音楽学校卒,東京音楽学校・教授,東京都出身,中田喜直は三男。

まだ寒い日が続きますが,まちがいなく春はそこまで来ていますから,もう少しの辛抱です。
風邪などひかないように注意して元気にお過ごしください。