2月12日は作家・司馬遼太郎さんの命日『菜の花忌』です。
国民的な歴史小説家であった司馬さんが亡くなって19年が経ちます。
改めて司馬(23-96)さんの略歴を記しますと,
本名は福田定一,大阪市の生まれ,筆名は「司馬遷に遼かに及ばない日本の者(太郎)」から来ています。
旧制・大阪外国語学校(新制・大阪外国語大学,現・大阪大学外国学部)蒙古語学科を仮卒業,学徒出陣で戦車隊に配属,栃木県佐野市で終戦を迎えます。
アメリカ軍(連合国軍)が東京に攻撃に来た場合に,栃木から東京に移動して攻撃を行なうという作戦に,
「市民と兵士が混乱します。そういった場合どうすればいいのでしょうか」と,大本営からきた少佐参謀に聞いたところ,
「轢(ひ)き殺してゆく」と答えたのをきき,軍隊は国民を守るための存在ではなかったのか,と疑問を持った22歳の司馬さんは,
「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう?」
「いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」
「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として
「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐しています。
司馬さんの著作はたくさんあって代表作を選ぶのは難しいですが,なんといっても『龍馬がゆく』は間違いなくその一つです。
世間一般でイメージされる坂本龍馬像はこの小説で確立したといってもいいです。
最初,産経新聞の夕刊に連載(62-66)されました。
岩田専太郎(01-74)の艶のある挿絵もよかったし,毎日,学校帰りに読むのが楽しみの一つでした。
文春文庫(全8巻)になったのを再読しましたが,割愛されている部分も多く,やはり新聞の連載小説は読者の興味をつなぎとめるために,濡れ場などサービス・カットもたくさんあったのだと感じました。
『菜の花忌』の由来にもなったのは長編小説『菜の花の沖』です。
江戸時代後期の廻船商人の高田屋嘉兵衛を主人公にした小説です。
嘉兵衛(1769-1827)は淡路島の貧家に生まれ,半農半漁をすて,兵庫にでて船乗りになり,苦労して船もちの廻船商人にまでなり,蝦夷・函館まで進出します。ゴローニン事件に巻き込まれ,カムチャツカに連行されますが,町人身分ながら日露交渉の間に立ち,事件解決へ導きました。
鎖国時代に外国へ行ったことは国禁を犯したことになるのですが,そのことは「お構いなし」を申し渡され,難しい国際問題の解決への「骨折り」に対して,幕府から「おほめ」があり,「ほうび」として金5両がさげわたされました。すべて異例のことです。
ゴローニン事件(ゴロヴニン事件とも表記)とは,1811年にロシアの軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン( Головнин, Golovnin)が日本に抑留された事件です。
じつはこの前段階で,1807年にフヴォストロフが択捉(エトロフ)や樺太に上陸し,略奪や放火などの襲撃事件を起こしていたのです。
その後,測量目的で千島を訪れていたゴローニンが罪もないのに日本に捕えられたというわけです。
副艦長のリコルドが報復処置として,国後(クナシリ)沖で日本船の観世丸を拿捕(だほ)し,乗っていた高田屋嘉兵衛とゴローニンとの捕虜交換を画策します。
嘉兵衛はカムチャツカに連行されてリコルドと同居するうちに,ロシア語も理解するようになり,信頼を得て友人としてもてなされ,ディアナ号で日本に向かう時には,船員たちからもタイショウ(大将)と敬意をもって呼ばれるようになります。
やがてディアナ号は湾口にでたとき,風の中で鳴るようにして帆を開いた。そのとき,リコルド以下すべての乗組員が甲板上に整列し,曳綱(ひきづな)を解いて離れてゆく嘉兵衛に向かい,
ウラァ,タイショウ
と,三度,叫んだ。嘉兵衛は不覚にも顔中が涙でくしゃくしゃになった。
(中略)
臨終のとき,まわりの者に,
ドウカ,タノム。ミンナデ,タイショウ,ウラァ
と喚(おら)んでくれ。
と小さな声でいった。まわりの者は何のことかわからず,不覚にも沈黙で酬(むく)いてしまった。
この小説を読んで以来,この「ウラァ」を生で聴いてみたい,とながらく思っていました。
その思いが実現したのは,
旧・ソ連のある共和国に赴任していたときのこと,あるレストランに入ったとき,10人ほどの団体が壮行会だったのでしょうか,車座で着席していました。
ほどなく,全員が立ち上がり,
ウッラー 〇〇
と三唱したのです。
その叫びは,はらわたの底に沁み渡るような声量と迫力でした。
本場ロシアの合唱を聴いたときに,とても人間の声とは思えないような音域・音量が聞こえることがありますが,声帯の違いとしか言いようのない,地鳴りするような大音声でした。
じつは,わたしの通っているスポーツジムに司馬さんの後輩たちがアルバイトでスタッフとして勤務しています。
「2月12日は何の日?」「さあ,しりません」
「菜の花忌ですやん」「ナノハナキて何ですか?」
偉大な大先輩のことをもう少し知ってほしいな,と思いました。
ちなみに,この後輩たちは,ハンガリー語学科,蒙古語学科,デンマーク語学科,ペルシャ語学科の学生たちです。
「昭和は遠くなりにけり」
「20世紀も遠くなりにけり」
この季節にピッタリのあまりにも日本的なこの歌はどうでしょうか。
『早春賦』吉丸一昌・作詞 中田 章・作曲(1913)新作唱歌(三)
春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず
氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空
春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か
吉丸一昌(1873-1916)作詞家・文学者・教育者,東大卒,東京音楽学校(現・東京藝術大学)教授,大分県出身。
中田 章(1886-1931)作曲家・オルガニスト,東京音楽学校卒,東京音楽学校・教授,東京都出身,中田喜直は三男。
まだ寒い日が続きますが,まちがいなく春はそこまで来ていますから,もう少しの辛抱です。
風邪などひかないように注意して元気にお過ごしください。