名人上手

3月19日に桂米朝さんがお亡くなりになりました。享年89歳。
翌朝の新聞では,全国紙からスポーツ紙にいたるまで,こぞって1面のトップ記事で伝えました。亡くなってから偉大さがわかる,というものです。
追悼文で「知的でハンサム,上品で博学」と表現した人がいましたが,芸風・人柄・存在感がそのとおりでした。

桜餅 一つ残して 帰りけり    八十八(やそはち)

八十八とは米の字を分解した米朝さんの俳号です。
私のブログでも,
2014年12月20日付「落語とわたしと」
のなかでいろいろと書いておりますので,ご興味のある方はクリックしてみてください。

昔からいろいろな人が亡くなるときに辞世の和歌・俳句を詠んでいます。(米朝さんのは辞世の句ではありません,念のため)

願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ
西行
つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを
在原業平
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢
豊臣秀吉
風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん
浅野長矩(内匠頭)
あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
大石良雄(内蔵助)
此の世をば どりゃお暇に せん香の 煙とともに 灰左様なら
十返舎一九
昨日まで人のことかと思いしが俺が死ぬのかこれはたまらん
太田蜀山人
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
吉田松陰

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる   松尾芭蕉
おもしろきこともなき世をおもしろく 高杉晋作
人魂で行く気散じや夏野原      葛飾北斎
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな     正岡子規
行列の行きつく果ては餓鬼地獄    荻原朔太郎

名人とは,技芸にすぐれて名のある人,ということです。
米朝さんは重要無形文化財保持者(人間国宝)ですから,当然,落語の名人といってよいでしょう。

名人のもともとは,囲碁・将棋から来ています。
名人の最初は,織田信長本因坊算砂(日海)に「そちはまことの名人なり」とほめたことが起源とされます。
ちなみに,本因坊とは囲碁の家系の一つで,昭和になって本因坊秀哉が引退するときに日本棋院に名跡を譲渡し,以後タイトルとなりました。

世襲制・推挙制であった名人位を,大正になって十三世名人関根金次郎が実力制名人戦を提案したことから,名人位はタイトルになりました。
ちなみに,関根金次郎といえば,王将で有名な大阪の坂田三吉と何度も対局したことでも有名です。

囲碁のタイトルは,本因坊・王座・名人・十段・天元・棋聖・碁聖の7つで,井山祐太は2013年に棋聖を除く六冠を取りました。
井山祐太(89.5.24-)は東大阪市の出身,石井邦生九段の門下,ネットを通じて師匠と1000局を超える対局をして実力を高めたことで話題になり,夫人は将棋女流棋士の室田伊緒二段で生年月日が同じです。現在は,棋聖・名人・本因坊・碁聖の4冠。

将棋のタイトルは,名人・棋聖・王位・王座・竜王・王将・棋王の7つです。
羽生義治(70.9.27-)は現在,名人・王位・王座・棋聖の4冠を達成しています。
1995-96に7冠独占を達成し,維持したのは167日間でした。
すでに,永世の称号を6つも持っており,十九世名人・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世棋聖・永世王将で,いずれも引退後に襲名することになっています。

ところで,名人のことを英語ではマスター(master),ドイツ語でマイスター(Meister),イタリア語でマエストロ(maestro)といいます。

マスターというと,喫茶店の店主のようで軽く聞こえますが,学位の修士はマスター(Master)といいます。

マイスターといえば,いかにも熟達した職人の感じがして,ドイツ人の技を大切にする伝統が生き続けています。
マイスタージンガー(Meistersinger,職匠歌手)という言葉を聞かれたことはありますか? ワーグナー作曲の楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は有名です。
ドイツでは大学へは無料で行けますが,誰もが行くわけではなくて,一方ではマイスターを目指す若者も多いのです。

指揮者のことを万国共通で,マエストロと呼びますが,カール・ベームという著名なドイツ人の指揮者が来日したとき,「マエストロ」と呼びかけたところ,「ドクターと呼んでください,若い頃,頑張って取得したのですから」と言いました。グラーツ大学で法学博士の称号を得ています。
ドクター(Doctor,Dr)とは学位の最高位で「博士」を指します。
ちなみに,学士バッチェラー(Bachelor)と言います。じつは「独身の男子」のことも,bachelor というのです。

いよいよ桜の季節です。
ある気象予報士のデータによると,2月からの1日の平均気温の積算値が400℃を超える頃に桜が開花するそうです。
今年は短い周期で暖かい日と寒い日が大きく変動する春でしたが,今週末には桜の開花が見られそうです。

桜の歌はたくさんありますが,なんといってもこの曲に尽きるでしょう。


』 武島羽衣・作詞 滝廉太郎・作曲(1900)

春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂(かひ)のしづくも 花と散る
ながめを何に たとふべき

見ずやあけぼの 露浴びて
われにもの言ふ 桜木を
見ずや夕ぐれ 手をのべて
われさしまねく 青柳(あおやぎ)を

錦おりなす 長堤(ちょうてい)に
くるればのぼる おぼろ月
げに一刻も 千金の
ながめを何に たとふべき

武島羽衣(72-67)は東京出身の詩人・作詞家・国文学者,「美しき天然」(田中穂積・曲)など,享年94歳。

滝廉太郎(79-03)は東京出身の作曲家,東京音楽学校卒,ライプツィヒ音楽院に留学するも結核発症のため1年で帰国,代表作は「荒城の月」(土井晩翠・詞),「箱根八里」(鳥居忱(まこと)・詞)など,享年23歳。

』は日本最初の合唱曲で,ピアノ伴奏付きの女声二部合唱か女声二重唱で歌われます。
滝さんは早逝されましたが,すばらしい楽曲を残されました。

たんに「花」といえば桜をさし,ソメイヨシノ・ヤマザクラ・サトザクラ・ヒガンザクラなど種類も多く,日本の国花です。

桜が咲けば,本格的な春です。
夜桜の下で深酒して風邪などひかぬ程度に楽しんでください。

先生というもの

夜の盛り場で,道行く人たちに客引きが呼びかけるときに,

「社長!」か「先生!」

と言っとけば,客は嫌な顔をしない,ということを聞いたことがあります。

私が初めて「先生」と呼ばれたのは,大学に入って,家庭教師として生徒のお宅へ出向いたときでした。
なんとなく,偉くなったような気がしたのは,まさに若気の至りとでも申しましょうか。

先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし

と川柳にもあるように,先生と呼ばれていい気になっていても呼んだ方は特別に尊敬しているわけでもないし,乗せられて得意になるものではない,というような意味です。

先生」と呼ばれる人には,真に尊敬に値する先生と呼ばれるにふさわしい人と,とりあえず先生と呼んでいるだけ(本人は呼ばれて嬉しがっているが)の人,の2種類があります。

後者は代議士,弁護士,小説家など,そして最近増えてきた各種の指導者たちです。

いずれにしても,日本人,とくに女性は簡単に「先生」を連発する傾向にあります。

弟子を見るとその先生が素晴らしかったかどうかが分ります。

まずは,江戸末期の緒方洪庵(1810-1863)は大坂に適々斎塾(適塾)を開き,もともと蘭学塾でしたが,

福澤諭吉(1835-1901)慶応義塾の創設,学問のすゝめ・著

大村益次郎(村田蔵六,1824-1869)長州の医師,兵学者

などの維新で活躍する多くの人材を育てました。

明治政府のいわゆる「お雇い外国人」として W. S. クラーク(26-86)は札幌農学校の教頭として1877年に赴任,1年足らずの滞在でしたが,帰国後も影響力は生き残り,

新島襄(43-90)米アマースト大学で受講,同志社の創設

内村鑑三(61-30)農学校2期生,クラークと入違い,宗教家

新渡戸稲造(62-33)内村と同級生,教育家,5千円札の肖像

その後の日本に大きな影響を与える人材を輩出しました。

” Boys, be anbitious like this old man. “

という言葉を残したことでも有名ですが,「この老人(自分)のように,あなたたち若い人も野心的であれ」というような意味です。

明治期にたくさんの外国人が教師として雇われましたが,彼らはほとんどみんな良い印象をもって帰ったと言われています。
それは日本人の若者たちはみな礼儀正しく,勉強熱心で,教師を尊敬し,日本の発展に役に立ちたいという志を持っていましたから,必然的に教師たちも熱心にならざるを得なかったし,「今は遅れているが将来発展するのは間違いない」,日本を馬鹿にはできない,特別に優秀な民族である,と感じて帰ったといわれています。
日本が他の後進国のように植民地にならなかったのは,これら外国人の帰国後の発言が影響したとも言われています。

われわれ現代の日本人も140年前の大先輩たちに負けないように誇りをもって毅然として外国人と付き合って行きたいものです。

じつは,
私もある開発途上国へ国際協力の一環として,ある大学に専門教育するために赴任したことがあるのです。
クラークさんは1年足らずでしたが,私は2年間でしたから,少しは役に立てるのでは,と内心期待して赴きました。
しかし,着任早々,完膚なきまでにその思いは裏切られました。
学生たちに全くと言ってよいほど,学習意欲というものがないのです。
ある大学院生に,「私のような日本人に指導を受ける機会は今後もそうないと思うので,もう少しちゃんと出席して学習すればどうですか」と言ってみたのですが,
なんと,その学生は「私には妻や子がいるので,働かなくてはいけない。卒業証書は金で買う」と言ってのけたのです。

その国は独立後15年,独裁政権が続き,カネとコネが優先する社会で,勉強しても良い就職先はないし,教師すら学生からカネを取って単位を与えたり,成績を上げたりするので,若者たちに前向きな意欲というものが生まれないのでした。

また,言い訳に,「まだ独立して15年しか経ちませんから」というセリフをよく耳にしましたが,日本では,黒船が来航して15年で明治維新,敗戦後15年で所得倍増計画が出されました。(実質国民所得は7年で倍増が達成されました)

残念ながら,そういう国では20年,30年たっても発展するのは難しい,と感じました。

さて,
ちょっと意外な先生たちの話をしましょうか。
自分たちのことを「先生」「先生」と呼び合うのです。若くてまだ未熟に見える人に対しても「先生」と呼びかけます。

それは,「社交ダンス」教室の「先生」たちです。
英語では社交ダンスを Social Dance とは言わず,Ballroom Dance と言います。Ballroom(ボールルーム)とは舞踏室のことを指します。

欧米では社交ダンスは教養の一つとなっていて,学校で習うそうです。

ノーベル賞授賞式の晩餐会では,ディナー後の大舞踏会で自由に踊ることができます。確か,江崎玲於奈(1925-)さんは転んで骨折したはずです。

また,テニスのウインブルドン大会後のパーティでは,男女シングルスのチャンピオン同士でペアを組んで踊ることが恒例になっていました。(現在はやらなくなったようです)

ところが,日本では,鹿鳴館時代に外交政策上の必要性から導入されましたが,本格的に一般の人が踊り出すのは第2次世界大戦後に進駐軍向けにダンスホールがたくさん開かれるようになってからです。
しかし問題は,風俗営業法でダンスを規制してきたことです。
最近1998年,改正されましたが,指定された教師がいる場合にのみ法律が適法外になるというおかしなものになっています。

オーストリアのウィーンでは大舞踏会が1月から3月にかけて幾つも開催され,みんな正装して,それこそ夜を徹して踊りあかします。
もっとも有名なのはウィーン国立歌劇場で行なわれる大舞踏会(オーパンバル,Opernball)ですが,デビュタント(debutant,初舞台の人)として,17~24歳の男女150組300人がオーディションで選出され,一生に一度しか出られない特別の舞踏会です。

それで,「先生」の話に戻りますが,日本の「社交ダンス」教室の教師たちは,風営法で規制されるダンスを,もっと世界基準の高尚な芸術の一つという認識に変えてもらうために,自ら「先生」と呼び合って意識を高めているのではないか,と思っています。

日本のこの時期は卒業式のシーズンです。
かずある卒業式で歌われる歌のうち,もっとも伝統的で,感動的なのがこの曲です。
歌詞が難しいので歌われなくなってきたそうですが,名曲です。

仰げば尊し』作詞・作曲者不詳(1884)小学唱歌集(三)

仰げば 尊し 我が師の恩
教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
今こそ 別れめ いざさらば

互(たがい)に睦(むつみ)し 日ごろの恩
別(わか)るる後(のち)にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば

朝夕 馴(な)れにし 学びの窓
蛍の灯火(ともしび) 積む白雪(しらゆき)
忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
今こそ 別れめ いざさらば

ここに,「今こそ別れめ」の「め」は,意志・決意を表す古語の助動詞「む」の已然形(いぜんけい),つまり「こそ」と呼応した係り結びで,「今まさに別れよう」というような意味で,決して「別れ目」ではないことに注意してください。

また,ながらく作者不詳となっていましたが,最近2011年,アメリカの楽曲に ” Song for the Close of School ” があり,それが原曲であることが示されました。しかし,歌詞は訳詞ではないので,「仰げば尊し」に至る経緯の詳細はわかりません。

現代では次の曲が卒業シーズンの歌として人気が高いそうです。

卒業写真荒井(松任谷)由実・作詞作曲(1975)

かなしいことがあると 開く革の表紙
卒業写真のあの人は やさしい目をしている
町で見かけたとき 何も言えなかった
卒業写真の面影が そのままだったから
人ごみに流されて 変わって行く私を
あなたはときどき 遠くで叱って

話しかけるように ゆれる柳の下を
通った道さえ今はもう 電車から見えるだけ
あの頃の生き方を あなたは忘れないで
あなたは私の 青春そのもの
人ごみに流されて 変わって行く私を
あなたはときどき 遠くで叱って
あなたは私の 青春そのもの

歌詞にでてくる「あの人」とは誰でしょうか?
昔の彼氏ですか?
いえいえ学校の先生です,しかも女性の美術の高校の先生です。
芸大(東京藝術大学)美術学部を目指して勉強していたユーミン(由美)を厳しく指導したのがこの先生でした。今年がダメでも来年頑張ればいいよ,と言って励ましてくれました。
この美術学部は倍率30~40倍の超難関校で,専門の予備校があり,ある経験者によると,1クラス40名で,ここで断トツで1番にならないと合格できない,と知って愕然とした,と言っていました。
結果は不合格で,親の勧めもあって,浪人はせずに多摩美術大学に入りました。その後,作曲,音楽の道に進みました。

そういう経緯を知って歌詞を見直すと,随所に腑に落ちる箇所があります。

この曲は1975年リリースのアルバム「COBALT HOUR」に収録されており,ハイ・ファイ・セットのデビュー・シングルとしても同時期の1975年に発売されています。

赤い鳥(69-74)が解散してハイ・ファイ・セット紙ふうせん(後藤・平山)になり,ハイ・ファイ・セット(74-94)が解散して,山本(新居)潤子の持ち歌になっています。

3月に卒業して,桜咲く4月に入学するという日本の伝統的な年度行事を,欧米風に9月開講に変更しようという動きがありますが,やはり従来式の方が季節感が馴染んでいて断然よいと思います。

季節の節目

今日この頃は,まさしく季節のかわり目,気温も天気も短い周期で大きく変動しています。
伝統的な年中行事を行なう季節の節目となる日を,節句といいます。

年間に様々な節句が存在していましたが,江戸時代に幕府が公的な行事を行なう日として,五節句を定めました。

漢名        日付  和名    料理
人日(じんじつ) 1月7日 七草の節句 七草粥
上巳(じょうし) 3月3日 桃の節句  菱餅,白酒
端午(たんご)  5月5日 菖蒲の節句 柏餅,菖蒲湯
七夕(しちせき) 7月7日 たなばた  そうめん
重陽(ちょうよう)9月9日 菊の節句  菊酒

おせち(御節)はもともと五節句の祝儀料理すべてをいっていましたが,のちに最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになりました。

五節句のなかでも桃の節句雛祭りが,もっとも華やかで冬から春へ季節の替り目の感じがひとしおです。

もともとは,5月5日の端午の節句とともに男女の別なく行われていましたが,江戸時代ごろから,豪華な雛人形は女の子に属するものとされ,端午の節句(菖蒲の節句)は「尚武(武事を重んずること)」にかけて男の子の節句とされるようになりました。

ひな祭りは,女子のすこやかな成長を祈る節句の年中行事で,ひなあそびとも言いました。
ひな人形を飾り,桃の花を飾って,白酒寿司などの飲食を楽しみ,雛あられ菱餅を供えます。

最初は儀式的なものではなく「雛あそび」の名前の由来がありましたが,川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり,「災厄よけ」に祀られました。
女子の「人形遊び」=「雛あそび」から節句としての「雛祭り」へとかわってゆき,一生の災厄をこの人形に身代わりさせるという祭礼的な意味合いが強くなり,身分の高い女性の嫁入り道具の一つにもなって,自然と華美になり,より贅沢なものになってゆきました。

ひな人形の種類は,

  • 内裏雛(だいりびな)あるいは親王と親王妃(男雛・女雛)。それぞれ天皇・皇后をあらわします。
  • 三人官女(さんにんかんじょ)宮中に仕える女官をあらわします。内1人はお歯黒・眉なしで既婚者(ないし年長者)です。
  • 五人囃子(ごにんばやし)能のお囃子を奏でる5人の楽人をあらわし,向かって右から,謡(うたい),笛(ふえ),小鼓(こつづみ),大鼓(おおつづみ),そして太鼓(たいこ)の順です。
  • 随身(ずいじん,ずいしん)通称右大臣左大臣で,向かって右が左大臣で年配者,向かって左が右大臣で若者で,いずれも武官の姿です。

ここでよく問題になるのが,男雛・女雛の並び方ですが,
現在,男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多く,それが一般的になっており,結婚式の新郎新婦もそれに倣っています。

ところが,日本の伝統では「」が上の位でした。
ですから,男雛も左大臣も左側,つまり向かって右に居るのが正式でした。

京雛では伝統的な並びで,関東雛と男雛と女雛の並ぶ位置は逆となっています。
ちなみに飾り物や紫宸殿(ししんでん,儀式が行われる正殿)の植栽でも,「左近の桜」「右近の橘」は,桜が左側(向かって右)にあります。

明治天皇の時代までは左が高位という伝統があったため帝は左に立ちましたが,文明開化により西欧の並びに合わせて,大正天皇以降は右に立たれています。

祭りの日が終った後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという話は昭和初期に作られた俗説とされており,旧暦の場合,梅雨が間近なので,早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから,というのが理由だとされています。

また,地域によっては「おひな様は春の飾りもの,季節の節できちんと片付ける,というけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」という,躾の意味から言われています。

この時季の歌としては,なんといっても最もなじみのあるのがこの曲です。

うれしいひな祭り山野三郎・作詞 河村光陽・作曲(1936)

あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花を上げましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
今日はたのしい ひな祭り

お内裏様と おひな様
二人ならんで すまし顔
お嫁にいらした 姉(ねえ)様に
よく似た官女の 白い顔

金のびょうぶに うつる灯を
かすかにゆする 春の風
すこし白酒 めされたか
あかいお顔の 右大臣

着物をきかえて 帯しめて
今日はわたしも はれ姿
春のやよいの このよき日
なによりうれしい ひな祭り

サトウハチロー(03-73)は東京出身の詩人・童謡作詞家・作家,山野三郎は数ある変名の一つ,作家の佐藤愛子は異母妹。
愛子さんは若いころは美形で遠藤周作などの憧れの存在だったらしいのですが,乱暴者の兄ハチローを嫌っており,その理由として「やっぱり兄妹どこか似ている」といわれるのが我慢できなかったそうです。
代表作は「リンゴの唄」「長崎の鐘」「お山の杉の子」「かわいいかくれんぼ」「おかあさん」など。

河村光陽(97-46)は福岡出身の作曲家,本名は直則,代表作は「グッドバイ」「かもめの水兵さん」など。

この「うれしいひな祭り」には正しくない表現が含まれており,サトウハチロー本人も気にしていたと言います。具体的には,男雛女雛を「お内裏様とお雛様」と呼ぶのはこの歌から広まった誤用で,また右大臣を「赤い顔」としているのも誤りです。

でも,いいじゃありませんか。こんなにみんなに親しまれ歌われて,やっぱり名曲だからです。
間違いは間違いとして正しく説明すれば,認識が深まってより良く後世に伝わるでしょう。