年の瀬に楽しむ音楽

年末恒例のコンサートといえば,
ベートーヴェン交響曲第9番』(通常『第九』と略)ですね。

この発端は,
戦後の1940年代後半,オーケストラの収入が少なく,楽団員が年末年始の生活に困る状況を改善するため,演奏参加者が多くて,「必ず客が入る曲目」であった『第九』を日本交響楽団(現NHK交響楽団)が年末に演奏するようになり,それが定例となりました。
1956年に群馬交響楽団が行った群馬での成功が,全国に広まったきっかけとされています。

ズブの素人でも,けっこうみなさん合唱に参加されているようですが,そんなに簡単に歌えるような曲ではありません。
音域が広いし,周りの音は聞き取りにくいし,わたしが参加した公演では,隣の人は大きくハモル長音のところでは,なんど注意しても,いつも3度下を歌っておりました。

第4楽章で,すべての音が止まり,二拍おいて,バリトン歌手が ”O Freunde, nicht diese Töne!”「おお友よ,このような音ではない!」と歌い出しますが,学生時代,ボイストレーニングをお願いしていた先生は,「バリトンの名誉です」とおっしゃっていました。

1964年の東京オリンピックに東西ドイツが統一選手団を送ったときに,国家の代わりに『第九』が歌われました。

1998年の長野オリンピックの開会式では,世界5大陸・6カ国・7カ所で連携しての演奏が試みられました。
これは通信による遅れを調整するため,伴奏となる文化会館での演奏を各地に届けて合唱し,その映像が最終的にオリンピック・スタジアムで同期するように再送されました。

また,
通常のCDの録音時間が約74分であるのは,『第九』が1枚のCDに収まるように決められた,という説があります。
初演時の演奏時間は63分とされ,現代では70分前後が主流です。

ヨーロッパでは,
年末年始にオペレッタ(Operatte,喜歌劇)を楽しむ習慣があります。

オペレッタがオペラと違うところは,美男・美女が登場することでしょうか。
たとえば,ヴェルディ椿姫』の初演で歴史的な大失敗(蝶々夫人カルメンと共にオペラ3大失敗といわれる)をきっしますが,その原因の一つが,ヒロインのヴィオレッタが肺結核で死ぬことになっていますが,その歌手が肥満体だっため,「その体で肺結核はないやろ」と非難されたといいます。

年末には,シュトラウスⅡの『こうもり』が,年始にはレハールの『メリー・ウィドウ』が公演されるのが恒例となっています。

ヨハン・シュトラウスⅡ作曲『こうもり』(1874)の内容は,
金持ちの銀行家アイゼンシュタイン男爵は,役人を殴った罪で8日間の禁固刑になり,明朝6時には刑務所に投獄される前夜,友人のファルケ博士に誘われて「仮面舞踏会」に出かけ,そこでハンガリーの伯爵夫人に変装した妻ロザリンデに会い,妻とは気が付かず口説きだします。
ハンガリーの伯爵夫人であることを疑われれたロザリンデはハンガリー民族音楽「チャルダッシュ(csárdas)」を歌います。
刑務所長フランク,舞踏会の主宰者のロシア貴族オルロフスキー公爵,音楽教師でロザリンデの昔の恋人アルフレード,ロザリンデの小間使いアデーレなどが登場して,にぎやかに終わります。

わたしがこの作品に特別な思い入れがあるのは,
指揮の練習曲として「こうもり」序曲と「チャルダッシュ」を振った経験があるからです。

とくに「チャルダッシュ」では,全日本学生音楽コンクール2010年の声楽部門の大学・一般の部で1位になられた林佑子さんにこの歌を歌ってもらいました。
容姿端麗で美声のさんには将来さらに活躍されることを期待しています。

この「こうもり」序曲は,フィギュアスケートの鈴木明子選手がご自身も好きということで,ソチ・オリンピックのフリー・プログラムで使いましたが,途中でウィンナ・ワルツも挟まっていて,同調するのがとても難しい曲です。

そういえば,今年末突然引退を表明した男子フィギュアスケートの町田樹(たつき)選手は『第九』をフリーに使っていました。
これは「こうもり」以上に同調するのが至難の曲です。
そんなところが「氷上の哲学者」と言われる由縁でしょうか。

年始には,フランツ・レハール作曲『メリー・ウィドウ』原題 “Die lustige Witwe”「陽気な未亡人」(1905)ですが,
舞台はパリ,ポンテヴェドロ(仮想の小国)公使館では,公使のツェータ男爵が悩みを抱えていました。それは,老富豪と結婚後わずか8日で未亡人となったハンナが,パリに居住を移したことで,もしハンナがパリの男と結婚したら,莫大な遺産が母国ポンテヴェドロから失われることとなり,国の存亡に関わるのです。
公使館の書記官ダニロを彼女と結婚させて,遺産が他国に流出するのを食い止めようとします。
実はダニロは,ハンナと過去に愛し合っていた仲でしたが,身分の違いから,結婚できなかったという経緯がありました。彼は,大金持ちとなったハンナに,いまさら結婚したいと言い出せませんし,ハンナとしても意地があるわけで,素直になることはできません。
もちろん,いろいろな恋の駆け引きがあって,最後はめでたしめでたし,となるのですが,なにしろにぎやかで,途中にオッフェンバックの「天国と地獄」 が出てきたり,「ヴィリアの歌」とか「メリー・ウィドウ・ワルツ」の馴染みのある美しいメロディーで終わります。

さらに,大みそかには,
ジルベスター・コンサート」が開催されます。ジルベスターとはドイツ語で大晦日(Silvester,「聖ジルベスターの日」)の意味です。

日本でも生放送されていて,12月31日から演奏を開始して,1月1日の午前0時0分0秒ちょうどに演奏を完了するのを見世物にしています。

これは指揮者としての職人芸の腕を見せつける瞬間で,0時0分0秒ピッタリに曲を終了させて,同時に花火が打ちあがり,紙吹雪が舞って「新年,明けましておめでとうございます」となるのです。

2011-12年は,ラヴェルの「ボレロ」でした。
指揮者は大阪出身で女優と結婚歴(06-10)のある若手でしたが約5秒前に曲は終了してしまい,無音の恐怖の静寂状態がつづくなか,年マタギのときに,紙吹雪のみが虚しく舞いました。

2012,2013年は見事無事にすんで司会の女子アナは感涙にむせびました。
さて,今年は何が起こるのか,お楽しみにご覧ください。
曲目はシベリウスの『フィンランディア』です。

今年最後の曲は,『メリー・ウィドウ・ワルツ』にしましょうか。

(Danilo)
Lippen schweigen, ‘sflüstern Geigen: Hab’ mich lieb!
All’ die Schritte sagen bitte, hab’ mich lieb!
Jeder Druck der Hände deutlich mir’s beschrieb
Er sagt klar, ‘sist wahr, ‘sist wahr, du hast mich lieb!

(Hanna)
Bei jedem Walzerschritt Tanzt auch die Seele mit
Da hüpft das Herzchen klein es klopft und pocht:
Sei mein! Sei mein!
Und der Mund er spricht kein Wort,
doch tönt es fort und immerfort:
Ich hab dich ja so lieb, Ich hab dich lieb!

(Danilo, Hanna)
Jeder Druck der Hände deutlich mir’s beschrieb
Er sagt klar: ‘sist wahr, ‘sist wahr, du hast mich lieb!

(ダニロ)
唇はとざされて ヴァイオリンはささやく
「私を愛して」 と
ワルツのステップよ 言っておくれ
「私を愛して」 と
手を握りあうたび はっきりわかる
あなたの手は告げている
ほんとうに ほんとうに あなたは私を愛している

(ハンナ)
ステップを踏むたび 心も踊る
鼓動が高鳴る
「私のものになって 私のものになって」 と
唇は何も言わないけれど 耳には響く
「本当にあなたを愛している あなたを愛してる」

(ふたりで)
手を握りあうたび はっきりわかる
あなたの手は告げている
ほんとうに ほんとうに あなたは私を愛している

来年こそ良い年になりますように願っています。
お元気で良いお年をお迎えください。

落語とわたしと

まず,
桂米朝さんの著書『落語と私』ポプラ社(75)文春文庫(86)とは全くの別物なのでお間違いなく。

米朝さんのこの本は,中学生・高校生を対象にして,若い人向きに,といいながら,落語の歴史から,落語の基本,寄席にいたるまで,ていねいに解説されている名著です。

わたしの落語との出会いは,ラジオで,なぜかお気に入りは,三遊亭金馬(1894-1964)で,現在の金馬はまだ小金馬(1929-)と名のり,NHKの公開バラエティコメディ番組『お笑い三人組』ラジオ(55-60)TV(56-66)で江戸家猫八(1921-2001),一龍齋貞鳳(1926-)らと共演していた頃です。

金馬さんをヒイキにした理由は,野太い「熊五郎」から艶のある「おかみさん」そしてけなげな「こども」にいたるまで,声づかいが明瞭で子供ごころにも分りやすかったから,と思います。
のちに,金馬さんが禿頭で乱杭歯なのを知り,びっくりしたのを覚えています。

わたしが桂米朝さんを知ったのは最初ラジオで朝日放送の専属(1958-)だったころだと思います

大阪の演芸場・千日劇場からの中継録画による演芸番組『お笑いとんち袋』(65-67)では大喜利の司会をされていました。
小咄・謎かけ・川柳などを,複数の回答者が即興で回答するというもので,そこで異才をはなっていたのが,当時の小米(のちの枝雀)でした。いつも大ボケをして罰として顔に墨を塗られていました。

TVのワイドショー・トーク番組『ハイ!土曜日です』(66-82)では,共演者のSF作家・小松左京,西洋史の京大・会田雄次,薬師寺住職・高田好胤などを相手に,打打発止の司会をつとめました。

じつは,わたしが生の落語を聞いたのはそれほど古いことではありません。
池田市民文化会館の創立5周年記念として,大ホールで『米朝・圓楽二人会』が1980年4月に開催されました。
そのとき,米朝さんいわく「場所柄『池田の猪買い(ししかい)』をやってくれと言われまして」と。
噺の内容は,大阪の丼池(どぶいけ)から猪(しし)の肉を求めて池田の山猟師の六太夫さんを訪ねて行く,というものですが,とても面白かったです。
共演者の先代・圓楽さんは「星の王子さま」と名のっていた人ですが,何を公演したのか,まったく記憶にありません。

それ以降,落語にいささかはまりました。
当時,落語の定席はありませんでしたから,米朝さんがはじめられたいわゆる「ホール落語」を求めて,いろんな地方の公立の会館での公演をさがし,遠くは,大阪から70km以上離れた兵庫県加古川市まで足をのばしたりしました。

もっとも良い会場は朝日生命ホールで,御堂筋ぞいの淀屋橋と本町の間にありますが,席数が400名足らずなので,肉声で落語が聴けることです。いまでも落語の聖地とされているようです。

1972年からは毎年,正月と夏にサンケイホールで独演会をやるのが恒例になっていて,よく聴きに行きました。

わたしの好きなネタは,『百年目』『はてなの茶碗』『持参金』などたくさんありますが,掘起し再構築した長編『地獄八景亡者戯れ』,自作の『一文笛』など,面白いネタにことかきません。

いまさらですが,
米朝(1925.11.6-)さんの歴史を振返ると,本名は中川清,満洲の大連で生まれ,姫路市の出身,大東文化学院に進学中,正岡容(いるる,04-58)に入門,弟弟子に小沢昭一加藤武などがいます。
師・正岡の「伝統ある上方落語は消滅の危機にある,復興に命をかけろ」との言葉を受け,1947年に桂米團治に入門し,「3代目桂米朝」を名のりますが,1951年に米團治は55歳で死去してしまいます。

それ以後,衰微をきたしていた上方落語を,上方落語四天王といわれた6代目笑福亭松鶴,3代目桂小文枝(後の5代目文枝),3代目桂春団治らと共に復興に尽力しました。

とくに米朝さんの功績は,一度滅んだ噺を文献から発掘したり,落語界の古老から聴き取り調査をして多数復活させていことです。

その成果は,つぎの2冊の著書にくわしいです。
米朝落語全集』単行本,全7巻,創元社,1980.1-1982.1
上方落語 桂米朝コレクション』文庫,全8巻,筑摩書房,2002.9-2003.7

1995年に柳家小さん(1915-2002)が,いきなり重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され,周辺も本人も「なぜ?」と,文楽,志ん生,円生などの名人上手と言われた人たちでも認定されなかったのに,とざわめきました。

翌1996年に,米朝さんが人間国宝に認定され,いかにも日本の役所らしいやり方をみんなが納得しました。

2009年には,演芸人としては初の文化勲章を受章されました。

このように名実ともに落語家として最大級の評価を受けた米朝さんですが,唯一の無念があるとしたら,後継を託すべき,有能な弟子を二人まで,亡くしてしまったことではないでしょうか。

その第一は桂枝雀(1939-1999)です。
本名は前田達(とおる)で,神戸市で生まれ,伊丹市の出身,父の死去により家庭は貧しく,神戸大学文学部に入学後1年で退学して,1961年に米朝に入門,小米(こよね)を名のり,1973年に枝雀を襲名します。
枝雀襲名後,芸風を大幅に変え,オーバーアクションで大爆笑をとり,独演会はいつも満席になりました。

TVのバラエティ番組『浪花なんでも三枝と枝雀』(82.4-85.12)というのがありまして,その縁で『枝雀・三枝二人会』を開催しました。
当時の三枝(現6代文枝)は,まだ古典をやっていたのですが,マクラではTVのような笑いがとれるのに,本ネタになると,ピタッと笑いが消えるのです。
芸の力というものは,残酷なものですね。誰にでもわかるんです,良し悪しが。
三枝本人が一番それに気づいたのでしょう。
その時以来,古典はキッパリとあきらめ,「創作落語」と称する「新作落語」の道に進むのです。

枝雀の演じるわたしの好きなネタは,『宿替え』『高津の富』『不動坊』など,それこそたくさんあります。

朝日生命ホールでの独演会など,演者と客席が一つになり,同じ呼吸をして,演者につられて,客の体が前後に動くような一体感がありました。

わがまち池田でも,市民文化会館小ホールで,枝雀寄席が1月の恒例となり,1981から1998まで続きました。

ほとんど最後のほうと思われる公演を聴きましたが,体調不良とは聞いていましたが,余りにも生気がなかったのを心配しましたが,直後,自殺で亡くなるという訃報を聞いて驚きました。
享年59歳でした。
とても残念でした。

そのつぎは桂吉朝(1954-2005)です。
1974年に米朝に入門し,本格的な正統の上方落語を継承するものとして期待されましたが,胃がんでわずか50歳で死去しました。
時うどん』を,江戸の『時そば』風に粋に話していたのが,思い出されます。

今はその弟子の桂吉弥(1971-)が大活躍中ですが,もう少し仕事量を整理した方が良いのでは,と心配します。

上方落語協会としての不幸は,6代目松鶴が1986年に亡くなった後,米朝さんに会長を任せなかったことです。
当然,会長職は米朝さんが引き継ぐものと思われていたのに,松鶴一門の猛反対で,実現しませんでした。
その後,小文枝春団治も会長を歴任していますから,一番の功労者を会長に据えなかったのは全く不可解で,協会の汚点といってもいいでしょう。

その影響もあって,枝雀一門はいまだに協会を脱退したままです。

上方落語協会としては長年の悲願であった落語の定席「天満天神繁昌亭」(2006年開席)を設立しましたが,枝雀一門は孫弟子までも出演できません。

時節がら,誰もが知っているこの歌『Holy Night(聖夜,きよしこの夜)』にしましょうか。

Holy Nightきよしこの夜)』
・作詞:Josef Mohr,作曲:Franz Gruber(1818)
(讃美歌 第109番)

Silent night, Holy night
All is calm, all is bright
Round you virgin mother and Child
Holy Infant, so tender and mild,
Sleep in heavenly peace,
Sleep in heavenly peace.

きよし このよる
ほしは ひかり
すくいの みこは
まぶねの なかに
ねむり たもう
いと やすく

 いかがですか,心が洗われる思いがするでしょう。
クリスマスとはキリストの降誕祭です。
1年に1度くらいは神聖な気持ちで過ごすのもよいのではありませんか。

また落語に話を戻して,いささか蛇足ぎみに,
たった1人で行なう,この伝統芸能は,かなり難しく,枝雀さんのようにネタクリと呼ばれる稽古を怠らないようにしないと,滑らかに口がまわりません。
たとえば,寿限無などの長セリフを「立て板に水」のように息もつかないで言い切らないと,臨場感が出ません。

あの米朝さんでさえ,2002年,東京・歌舞伎座での『百年目』の公演を最後に,人前で落語をやっていません。
あのとき,旦那が長々と番頭相手に語り掛けるセリフの1部が抜けました,なんとか元へ戻って,話の終結は付けましたが,「一生の不覚,大恥をかいた」とご本人もへこみました。

息子の小米朝が2008年に5代目桂米團治を襲名するとき,その襲名披露公演で,大胆にもこの大ネタ『百年目』をやりました。
不思議なものですね,おなじセリフをしゃべっているのに,旦那にも大番頭にも見えないんですね。
思わずツッコミを入れました,「キミには百年早い!」と。

最近,落語家たちも,趣味の多い人たちが増えてきて,サックスを吹いたり,クラッシク音楽の司会をしたり,飛行機を操縦したりする人たちがいます。
芸というものは正直なものですね。
昔から,「練習はウソをつかない」と言いますが,稽古量の差が出るんです。
「天才」と言われた枝雀さんでさえ,趣味が落語というくらい,落語一筋でした。
「凡人」のその他の芸人たちが追いつけるはずがありません。

落語は奥が深いのです。
最近は落語を聴きに行かなくなりました。

笑うかどには

笑う門(かど)には福来(きた)る」とは言い古された言葉ですが,じっさい,笑うことが健康に寄与することは実証されています。

がん細胞やウイルスなど,体に悪影響を及ぼす物質を退治しているのがナチュラル・キラー(NK)細胞です。その働きが活発だとがんや感染症にかかりにくくなると言われています。

笑うと,免疫のコントロール機能をつかさどっている間脳に興奮が伝わり,神経ペプチドが活発に生産され,NK細胞を活性化し,病気のもとを次々に攻撃するので,免疫力が高まるというわけです。

笑いによって免疫力が向上するだけでなく,脳の活性化血行促進自律神経のバランスが整い,筋力がアップし,幸福感をもたらし,モルヒネの数倍の鎮痛作用で痛みを軽減します。

このように万能の特効薬のような「笑い」を積極的に活用しない手はありません。

お笑いは,落語,漫才,そして喜劇(コメディ)に分類されるのでしょうか。

しかし,最近のTVのお笑い番組はひどいですね。
ひな壇というのですか,出演者がズラーッと席を並べて,司会者が話を振って,それぞれが適当にしゃべる,というほとんど似かよった画一的な番組ばかりじゃないですか。
その場しのぎに小手先の機転をきかせてくすぐるだけなので,爆笑はありませんし,「すべる」と称する場違いな応対を「受けない」と嘲笑して終わる,というような低レベルの笑いを薄利多売しています。

こんな番組に重宝されるのは小器用な才気ばしったタレントで,アジのある芸人は登場しませんし,そこから面白い芸人は育ちません。
けっきょく,次々に芸人を使い捨てするだけなんでしょうね。

パンクブーブー」という2009年にM-1グランプリを取ったコンビは「しゃべってみて受けたネタだけをつなげていけばいいんですから,漫才は楽です」と言っていましたが,それこそがネタを練り上げて上質化していく方法なんです。
彼らは上記のようなトーク番組にはあまり出ません。

ブラックマヨネーズ」「チュートリアル」「フットボールアワー」「銀シャリ」など才能を期待された若手の漫才師たちも,本業を磨かずに,器用さだけを求められて,大きく成長できていません。
だいたい,いま彼らはまじめに漫才をやっているんですか。

そして具合の悪いことに,これらの中途半端な芸人でも,人気だけが先行して出てしまうことです。

昔は厳然として存在した,舞台役者・映画俳優・歌手そして芸人の間にあった仕切りが低くなってきました。
ハッキリ言うとお笑い芸人が非常にモテるらしいのです。
それが目的で,芸人になりたい若者たちが急増してきています。

かれら若手お笑い芸人(50歳以下)に望みたいことが二つあります。

一つは,外と内を区別してもらいたい,ということです。
「外」とは,舞台上であり客前ということで,「内」とは楽屋や交友関係の内ということです。

大した経験もない若手が,少し後輩というだけの相手に,偉そうに大きな口をきかれると,そんな話は楽屋でしてくれ,という気になります。
「弱い犬ほどよく吠える」といいますが,相当の経験者でも,楽屋での優劣関係を,客前で見せられるほど,興ざめのものはありません。

もう一つは,「ツッコミ」と称して相手の頭を叩くことです。
これだけは何としても止めてもらいたいです。

いつ頃からでしょうか,相方を叩くようになったのは。

私の記憶では,
捨丸・春代(23-71)の萬歳で,ボケた砂川捨丸(1890-1971)の頭を中村春代(1897-1975)がツッコミとしてハリセン(紙を蛇腹状に折った扇子のようなもの)で叩いて落とす,という古い形がありました。

チャンバラトリオ〈かしら〉南方英二,〈リーダー〉山根伸介,伊吹太郎<結成時メンバー>〕(1963-)は大きなハリセンで,顔面を直撃することを「落ち」にしていました。

漫才ブーム(1980-1982)のころ,
やすし・きよし(66-89)の漫才で,ボケた横山やすし(44-96)を西川きよし(1946-)が何度も激しく叩く,のが気になっていました。
普段はアウトローの乱暴者で知られるやすしが,舞台上では逆に常識人のきよしから叩かれるのに違和感がありました。

ダウンタウン(82-)では,浜田雅功(1963-)は相方の松本人志(1963-)のみならず,出演者まで叩いたり,タメ口でどなったりするのが習わしになっています。

そもそも,現在のような「しゃべくり漫才」を確立したのは,
エンタツ・アチャコ(30-34)ですが,
横山エンタツ(1896-1971)を吉本興業が引き抜く際,エンタツ側から,当時すでに他の人とコンビを組んで人気が出ていた花菱アチャコ(1897-1974)と組むことを求められてコンビが実現しましたが,実際の活動は戦前で,しかも期間は4年と短いです。
背広を着てネクタイを締めて,「きみ」と「ぼく」という丁寧な言葉づかいで,歴史に残る「早慶戦」などを生み出しました。

戦後,アチャコはラジオ番組「アチャコ青春手帖」「お父さんはお人好し」で人気をはくし,大らかな性格から,東西を問わず,後輩たちから慕われました。

いっぽう,エンタツは気難しいところもあって晩年は不遇でした。
1963年にNHKの生番組で久しぶりに共演し,たまたまその番組を見ていたのですが,お互いにこやかに穏やかな雰囲気で談笑していたのですが,じつは番組終了後,長年の確執や行き違いを超えて,手を取り合って,二人とも号泣して再会を喜んだ,といいます。

これが,本物のプロ同士の外と内の使い分けなのです。
現在なら,人前で涙を見せて同情をさそう,ようなことを平気でやるんではないですか。

その「しゃべくり漫才」を完成させたのが,
ダイマル・ラケット(41-82)の兄弟コンビです。
中田ダイマル(13-82)の絶妙なボケと中田ラケット(20-97)の落ち着いたツッコミで,常に爆笑をとり爆笑王と言われました。
コメディ出演も多く,TV番組「ダイラケのびっくり捕り物帖」(57-60)では,藤田まこと(1933-2010)のデビュー作となり,森光子(1920-2012)の出世作ともなりました。
つづく「スチャラカ社員」(61-67)では,社長役でミヤコ蝶々(1920-2000)も出演しています。

ダイラケとほぼ同時期に同じ兄弟コンビとして活躍したのが,
いとし・こいし(1937-2003)です。
子供時代からコンビを組み,戦後,漫才作家の秋田實(05-77)に師事し,夢路いとし(1925-2003)喜味こいし(1927-2011)として長年,上質な笑いを提供し続けました。

古いものを打ちこわし,新しいものを創成するのが芸術家の仕事ですが,大先輩にもタメ口で接するのが手っ取り早く親しくなるコツかもしれませんが,浜田クンよ,そろそろ,もう少しやり方を考えた方が良いのではありませんか。

落語と喜劇の話は別の機会にしましょうか。

さて,
ウォルトディズニー(Walt Disney,01-66)は長編アニメーションの第1作「白雪姫」(1937)で大当たりをとり,第2作として「ピノキオ」(1940)を創ります。
時計職人のゼペット爺さんは人形ピノキオを作りますが,「自分の子供だったら」と星に願いをかけます。


星に願いをWhen You Wish upon a Star(1940)
ネッド・ワシントン(Ned Washington)作詞
リー・ハーライン(Leigh Harline)作曲

When you wish upon a star
Makes no diff’rence who you are
Anything your heart desires
Will come to you

If your heart is in your dream
No request is too extreme
When you wish upon a star
As dreamers do

Fate is kind
She brings to those who love
The sweet fulfillment of
Their secret longing

Like a bolt out of the blue
Fate steps in and sees you thru 
When you wish upon a star
Your dream comes true

星に願いをかけるとき
誰であろうと違いはないのです
心からの願いなら
何でもかなえられるでしょう

心に夢があるのなら
大きすぎる願いなどないのです
星に願いをかけるとき
夢みる人がするように

運命の女神は情け深く
愛する心を持つ人には
やさしくかなえてくれるのです
その心に秘めた願いを

晴天の霹靂(へきれき)のように
運命の女神は立ち現われて 助けてくれるのです
星に願いをかけるとき
あなたの夢はかなうのです

わたしにもささやかで大きな願いがあります。
平和で,自由にものが言えて,安心して暮らせる世の中になってほしい,と心から思います。

選挙は国民に与えられた大きな権利です。
将来のことをよく考えて有効に行使しましょう。