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肉のはなし

毎月29日は「肉の日」だそうです。
語呂合せで,29をニクと読んで肉の日になったということです。

ご存知のように,といえば,西牛東豚が,もう常識になっていますね。
肉ジャガにもカレーライスにも,関西では当然牛肉なのに,関東では豚肉を使うそうです。

関西では551蓬莱の「豚まん」なのに,関東では井村屋の「肉まん」で,〇〇家の「牛どん」がでたときに,関西では「肉どん」というのに,と違和感を持ちました。

そういえば,最後の将軍・第15代徳川慶喜(1837-1913)は薩摩の豚肉が好みで,「豚一(ぶたいち)様」と呼ばれたそうです。「一」は一橋家の出の意味です。
この人,維新の志士たちや幕臣たちのほとんどが早逝しているのに,76歳,大正期まで生きてのびています。

ちなみに,徳川御三家とは尾張・紀州・水戸であり,8代将軍吉宗(紀州家の出)以降に御三卿すなわち,田安・一橋・清水ができました。
慶喜水戸藩主・徳川斉昭の子ですが,一橋家に養子に入り,将軍家を継承しました。

先日,TV番組で,夫が「今夜,肉が食べたい」と連絡すると,妻はどんな料理を出すか,というような他愛のないことをやっていました。

結果,豚肉のしょうが炒め,トリのから揚げ,トンカツなど,ほとんど牛肉料理以外で,1軒だけすき焼きで,その夫は大喜びしていました。
これは妻の確信犯的行動で,健康のため,経済のため,分っていて作ったようです。現代の妻たちも頭が良いですね。

ここで,牛肉豚肉鶏肉の特徴を比較してみましょうか。

牛肉タンパク質脂質,ビタミンB2を多く含んでいます。赤身には鉄や亜鉛,リンなどのミネラルが豊富です。タンパク質は筋肉や血液をつくったり,体内の組織を再生したりするはたらきを持っていますが,体内に摂り入れるだけではなかなかエネルギーに変わりません。そこで活躍するのがビタミンBとミネラルで,代謝を促し,効率良くエネルギーに変えてくれます。太りやすくなるのは動物性脂肪が体内で固まりやすいことが原因です。

豚肉ビタミンB群牛肉の約5倍も含まれています。特に多く含まれるビタミンB1は,脳や中枢神経の働きを活性化させるはたらきがあるため,集中力や記憶力を高め,イライラを抑える効果があります。必須アミノ酸をバランス良く含んでいることも大きな特徴です。そのほか血管を拡張するはたらきもあり,動脈硬化や高血圧の予防に効果的とされるコリンも多く含まれていたりと,何かと健康効果が期待できるのが豚肉です。

鶏肉脂肪が少なく,消化が良いことが利点です。脂肪分が皮の部分だけなので,皮を取り除けば,脂質やコレステロールを抑えられるため,肥満防止に効果があります。必須アミノ酸のひとつであるメチオニンも多く,肝機能の強化や肝臓に脂肪が溜まる脂肪肝の予防効果があります。ビタミンA,ビタミンB6,ナイアシンを多く含んでおり,眼精疲労の緩和,精神安定などの効果が期待されます。また,皮や骨まわりの部位はコラーゲンが豊富で,肌の新陳代謝を促進します。

相撲取りは牛肉豚肉は食べず,鶏肉を食べます。
それは四足は負けを意味するので,二足で立つ鶏を好むのです。

また,かつての陸上競技短距離の王者カール・ルイスは鶏肉しか食べないことで有名でしたが,それはダイエットのためだったようです。

欧米人は肉食中心で進化してきており,腸の長さは肉食動物並みの4mになってきています。大腸ガン潰瘍性大腸炎になりやすく,肉食大国アメリカでは大腸ガンは死亡率の第2位です。

日本人も戦後の欧米化によって肉食中心の生活になりましたが,もともとは野菜や穀類で進化してきたため,欧米人に比べ長めの腸(7m)ですので,日本人が肉食すると,腸が長い分だけ腐敗便を作りやすく,悪玉菌増殖の危険性,増加した動物性脂肪の影響などで大腸ガン潰瘍性大腸炎その他の成人病を引き起こす可能性は他の民族に比べて大きいことになります。

日本は農耕民族で穀物を主食とし,300年前まで玄米菜食でした。675年天武天皇により肉食禁止令が出されて以来,7世紀から19世紀(江戸末期)までの間,原則として肉食は禁止されていました。しかし体が温まるなど薬膳として,あるいは猟師などが密かに食べてはいました。

人間の歯は動物を取ってしとめるキバはなく,草食に適した臼歯があります。

人類が進化する過程で,肉食するようになって,脳細胞が飛躍的に増大して,絶大な思考力を得るようになったという説があります。
しかし,現在,肉食を増やしても,残念ながら脳が増大することはありません。

必要なたんぱく質を摂取するために,肉食は必要ですが,控えめにして,牛肉よりも豚肉や鶏肉を中心にする方が健康維持には良いでしょう。

さて,
寒い冬の歌はこの曲にしましょうか。

ペチカ北原白秋・詞 山田耕筰・曲(1925)「子供の村」

雪のふる夜は たのしいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
むかしむかしよ 燃えろよペチカ

雪のふる夜は たのしいペチカ
ペチカ燃えろよ おもては寒い
栗や栗やと 呼びますペチカ

雪のふる夜は たのしいペチカ
ペチカ燃えろよ じき春来ます
いまにやなぎも 萌えましょペチカ

雪のふる夜は たのしいペチカ
ペチカ燃えろよ 誰だか来ます
お客さまでしょ うれしいペチカ

雪のふる夜は たのしいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
火の粉ぱちぱち はねろよペチカ 

ペチカпечка,pechka)はロシアの暖炉調理装置です。
煙道がめぐらしてあるレンガなどで造った壁面の輻射熱で部屋を暖めます。

ここで,熱の伝わり方を簡単に説明しますと,伝導・対流・輻射の3つの移動方法があります。

熱伝導とは,物質の移動を伴わずに高温側から低温側へ熱が伝わる移動現象です。鍋の取っ手が熱くなるのは,その一例です。

熱対流とは,流体(液体,気体)内の加熱された部分は膨張し密度が小さくなって上昇し,そこへ周囲の低温の流体が流入して行われる熱移動です。鍋で湯を沸かすと,液体の熱移動が見られます。

熱輻射(ふくしゃ,放射)とは,高温の固体表面から低温の固体表面に,その間の気体の存在に関係なく,直接に電磁波の形で伝わる熱移動をいいます。太陽からの熱の伝わり方がその例です。

輻射型の暖房装置には,中国にかん),朝鮮はオンドル(温突)という伝統的な床暖房がありました。
これは台所のかまどで煮炊きしたときに発生する煙を居住空間の床下に通し,床を暖めることによって部屋全体をも暖める設備です。

日本でこのような本格的な暖房システムが普及しなかったのは,比較的温暖な気候のせいでしょう。

田舎ではいろり(囲炉裏)という調理・暖房器がありました。

温暖地ではせいぜい火鉢という局所暖房器でしょうか。
しかし,火鉢に入れた炭火五徳(ごとく)の上で鉄瓶がチンチンと鳴っている様には風情がありました。
また,五徳に金網をのせて,餅ないしオカキをじっくり焼きあげるのは,味わい深いものがありました。

春までもう少し,インフルエンザなどに罹らず,元気にお過ごしください。

加湿の効果と問題点

先日テレビで加湿器を紹介する番組がありました。
食事中に居間から聞こえてきた音声だけの内容なので詳しくは分りませんが,冬季の加湿の必要性にも言及していたと思います。

一般の聴取者のみなさんが,なるほど冬の加湿は必要なのか,という考慮を欠いた考え方に警告を与えるために,この記事を書いています。

たしかに,乾燥状態が続くと,のどや気管支は防御機能が低下するため,インフルエンザ・ウイルスによる感染が起こりやすくなります。

また,「ゴホン10万,ハクション100万」という言葉があるそうで,風邪をひくと1回の咳(せき)で10万個,1回のくしゃみで100万個のウイルスが空気中にばらまかれるといわれています。このウイルスは,乾燥状態では空気中に漂う時間が長くなりますが,湿度の高い状況では,すぐに地面に落下してしまい,感染の危険性が減るというのです。

しかし,一般の人たちはあまり気づいていないのですが,とても重大な建物側からの問題点があります。

それは「結露」の問題です。

結露といえば,窓につく水滴,ぐらいに思っている方々がいますが,窓ガラスだけで収まってくれれば,それほど大きな問題にはならないのですが,空気中の水分はいろんな場所に流れ込んで,見えないところで害を及ぼすので問題が大きいのです。

空気中や材料の内部に含まれる水分のことを「湿気(しっき,しっけ)」と呼び,液体(水)と気体(水蒸気)の両方の状態をいいます。

湿気の性質は,拡散性が高く防湿がむずかしいことです。
また,空気中に含み得る水分の量は,温度に関係し,高温では多く,低温になるにしたがって少なくなります。
ですから,低温になると,気体の状態でおれなくて,液体にもどり結露を引き起こすのです。

寒い地方では,建物内部で起こった結露のために氷結して,建物が破壊するような重大被害も起こりました。

ですから,寒冷地では壁の断熱を十分にして冷えないように,そして防湿を完全にして建材内部に水分が行かないように,という断熱防湿工法が建物を守るために一般化しました。

北海道などの寒冷地では,室内を常に暖房しておくのが常識で,学生時代,北海道から京都に出てきた学生が,京都は寒いといってパッチ(ズボン下,タイツ)を2枚重ねで着ておりました。

つまり,われわれの住む比較的温暖な地方では,必要な部屋に,必要な時間帯だけ暖房するという,部屋別暖房間欠暖房が,経済的な観点から,ふつうの住み方です。

まず,知っておいていただきたいのは,暖房している部屋では加湿しなくても,湿度はある程度高くなっているのが普通だということです。
それは厨房の調理による水蒸気の流入,風呂場からユゲの流入,観葉植物の水やり,洗濯物ほし,金魚鉢などの水槽,人間の呼気からの水分(静座50g/h)発生,床壁天井・家具からの水分の放湿などがあるからです。

また,ガス・ファンヒータや石油ファンヒータなどの燃焼型の暖房機器を使っている場合は,排気ガスの問題に加えて,多量の水分を発生します。
まさか,ストーブの上にヤカンをのせるという,前時代的な過剰加湿をする家庭は,少ないと思いますが・・・。

暖房しているとき,暖房していない部屋(非暖房室)で結露が起こることがあります。
それは,暖房室からの湿気非暖房室に流れ込み(拡散性が良いため),床壁天井が冷えているため,そこで結露が起こることがあります。
これは,暖房室に接している押入れ防湿がむずかしい)内部で結露が起こるのも同じ原理です。

間欠暖房の部屋で加湿をしたとすると,暖房を停止しているときに室内の床壁天井の温度が下がり,かならず結露が発生します。

室内表面の結露も,窓ガラス面だけなら処理は容易なのですが,家具の裏の壁に発生した結露などは見過ごされて,黴(かび)の発生につながったりします。

このように,建築技術に携わる専門技術者たちは,建物を安全・清潔に保つために種々努力を重ねて来ました。

部屋を加湿すると風邪を引きにくくするというのは,事実でしょうが,加湿することでの問題点も大きいので,よく考えてご利用ください。

暖房加湿を切るときに,部屋の窓を開けて換気すると結露の被害は減少されますが,「ガスファンヒータをご使用のみなさんは,30分に1度,窓を開けて換気してください」というガス会社のテレビ広告と同様に,実行するのがむずかしいことです。

さて,
この時期にふさわしい歌はこの曲にしましょうか。

とうだいもり勝 承夫・作詞 アメリカ民謡(1889)明治唱歌(三)旅泊

こおれる月かげ 空にさえて
ま冬のあら波 よする小島
思えよ とうだいまもる人の
とうときやさしき 愛の心

はげしき雨風 北の海に
山なすあら波 たけりくるう
その夜も とうだいまもる人の
とうとき誠よ 海をてらす

灯台守といえば,
映画『喜びも悲しみも幾年月木下恵介・監督 佐田啓二・高峰秀子・主演(1957)では,海の安全を守るため,日本各地の辺地に点在する灯台を転々としながら,厳しい駐在生活を送る灯台守夫婦の,戦前から戦後に至る25年間を描いた長編ドラマの名作でした。
映画では男声合唱でしたが,のちに若山彰の歌唱による同名の主題歌が大ヒットしました。
作曲家の木下忠司さんは監督の木下恵介さんの弟さんで,いまもご健在です。

喜びも悲しみも幾年月木下忠司・作詞作曲(1957)

おいら岬の 灯台守は
妻と二人で 沖ゆく舟の
無事を祈って 灯をかざす 灯をかざす

冬がきたぞと 海鳥鳴けば
北は雪国 吹雪の夜の
沖に霧笛が 呼び掛ける よびかける

離れ小島に 南の風が
吹けば春くる 花の香だより
遠い故郷 思い出す 思い出す

あしたに夕べに 入船出船
妻よ頑張れ 涙をぬぐえ
燃えてきらめく 夏の海 夏の海

星をかぞえて 波の音きいて
ともにすごした 幾年月の
喜び悲しみ 目にうかぶ 目にうかぶ

しかし,2006年に灯台は無人化され,国内の灯台守は消滅しました。

1989年の思い出

いまの時期は,二十四節気の処暑で,暑さがやみ涼しくなりはじめるころで,季節の替り目といっていいでしょう。

ものごとには節目というものがあり,時代にも特別な転換点ターニングポイント)と思えるような年があります。

その一つが,いまから四半世紀・25年前の1989年ではないでしょうか。

1月7日,昭和天皇が崩御されました。
昭和元年は12月25日からですから,元年と64年は7日づつ,つまり昭和時代は62年と2週間ということになります。

昭和天皇(1901.4.29-1989.1.7)は第124代の天皇で,諱(いみな)は裕仁,まさしく激動の87年の生涯でした。

このたび,宮内庁による『昭和天皇実録』という公式記録が24年かかって完成しました。全60冊,約12,000ページという膨大なものです。9月中旬に公表されるそうです。

誕生日の4月29日は,平成になってから「みどりの日」,2007年からは「昭和の日」に,5月4日が『みどりの日』となりました。

2月10日,オウム真理教による信者殺害事件発生。
教団代表の松本智津夫(麻原彰晃)が主導して,世間的には有能とされるような若い信者を勧誘・洗脳し,松本サリン事件,地下鉄サリン事件などのテロ行為,信者殺害,弁護士一家殺害などを行い,世の中を震撼とさせました。

2月13日,リクルート事件で,リクルート社会長の江副浩正が逮捕。
未公開株を賄賂として,多くの有力政治家たちに贈った戦後最大の贈収賄事件でした。

4月1日,消費税施行。
当初は3%,1997年4月から5%,そして2014年4月から8%となりました。

6月4日,北京で天安門事件発生。
4月の胡耀邦の死をきっかけとして,中国北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し,中国人民解放軍が武力弾圧し,多数の死傷者を出した事件です。
中国当局はいまだに,事件はなかった,という隠蔽工作をつづけています。

11月10日,ベルリンの壁崩壊。
ベルリンの壁とは,冷戦の真っ只中にあった1961.8.13に東ドイツによって建設された西ベルリンを包囲する壁です。
1990.10.3に東西ドイツが統一されるまで,この壁はドイツ分断や冷戦の象徴となっていました。

12月3日,米のジョージ・H・W・ブッシュ大統領とソ連のミハイル・ゴルバチョフ最高会議議長がマルタ島で会談し,冷戦の終結を宣言しました。
その後もソ連のペレストロイカ(再構築)路線は行き詰まり,東欧各国の独立や連邦からの離脱が進み,ついに1991.12.25にソ連は消滅します。

ここに,冷戦とは,第二次世界大戦後の世界を二分した,アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と,ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造です。

12月29日,東証の大納会で,日経平均株価が38,957円(史上最高値)を記録し,翌1990年の大発会から株価は下落へ転じ,バブル景気は崩壊に向かいます。

この年には,多くの著名人が亡くなっています。

2月4日,手塚治虫さん死去(60)
手塚治虫(1928.11.3)は漫画家・アニメータ・医学博士であり,生存中から「マンガの神様」と称されました。
豊中市で生まれ,宝塚市で育ち,大阪帝国大学医学専門部在学中に漫画家としてデビューし,『新宝島』がベストセラーとなり,大阪に「赤本」ブームを作りだします。
1950年より漫画雑誌に登場,『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』などを大ヒットさせます。
1963年から鉄腕アトムをTVアニメーションとして製作します。
1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』を創り,晩年には『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』などの青年漫画をも創り出しました。
デビューから亡くなるまで第一線を走り続け,夢を与え続けた60年の生涯でした。

藤子不二夫,石ノ森章太郎,赤塚不二夫,横山光輝など多くの人たちが手塚さんの影響を受け,漫画家を志しました。

漫画家たちばかりではなく,ロボット開発に携わる技術者たちが「アトムのようなロボットを作りたい」と言うほど後々まで社会に影響をあたえました。

手塚作品は海外にも影響を与えており,アメリカ映画『ミクロ決死圏』(1966)は,『吸血魔団』(1948)の,ディズニーの『ライオンキング』映画(1994)舞台(1997)は『ジャングル大帝』マンガ(1950-54)アニメ(1965-66)の明らかに盗作と言ってよい作品です。

じつは,少年のころ,貸本屋で「赤本」と呼ばれた手塚作品を見つけ出して,読み漁りました。まったく他の作者とは一線を画した胸躍るような内容に魅了され,雑誌「少年」に連載された『鉄腕アトム』も発売日の前から,貸本屋で予約し,誰よりも先に読むことを小学校の卒業まで続けました。
手塚さんの影響で,自分でも漫画を描いていたのが,クラスでも有名で,「マンガの先生」というありがたいアダナを頂戴していました。
もし,いまのように自由で余裕のある時代だったら,漫画家を目指していたかもしれません。

4月27日,松下幸之助さんが死去(94)
松下幸之助(1984.11.27)は松下電器(現パナソニック)を一代で築き上げた経営者で,経営の神様と称されています。
和歌山の出身で,尋常小学校を中退して丁稚奉公から会社を立ち上げ成功し,長者番付1位を長年続け,のちにPHP研究所を設立し倫理教育に乗り出し,晩年には松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも力をそそぎました。死亡時の遺産総額は約2,450億といわれ日本最高です。

松下さんは大阪の経営者らしく,大社長になってからも,言葉づかいは誰に対しても丁寧で,面長で耳が大きく,仏様のような感じの人でした。

6月24日,美空ひばりさんが死去(52)
美空ひばり(1937.5.29)は横浜市の出身,幼少のころから才能を発揮し,母親の支援で成功し,昭和の歌謡界を代表する歌手といわれています。
山口組三代目・田岡一雄が父親代わりで,日活の人気スター・小林旭と結婚(1962-64)するも入籍せずに離婚,実弟の不祥事や暴力団とのつながりを指摘されるも,人気は不動でしたが,身内はみんな早逝し,本人も晩年は病魔に苦しみます。
代表曲は, 『リンゴ追分』(1952),『』(1964),『悲しい酒』(1966),『川の流れのように』(89)など多数。
同い年の江利チエミ(1937-82),雪村いづみ(1937-)と東宝映画『ジャンケン娘』(1955)で共演,元祖三人娘を結成しますが,実際は,圧倒的に美空の存在が大きかったようです。

個人的には江利チエミが贔屓だったのですが,東映の高倉健と結婚(1959-71)しますがやむなく離婚,明るい表情とは裏腹に,不幸が付きまとった45年の短い人生でした。

7月16日,ヘルベルト・フォン・カラヤン死去(81)
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908.4.5)はオーストリア・ザルツブルグ出身の指揮者,ベルリン・フィルハ-モニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督をつとめ,暗譜で眼を閉じて指揮することでも有名で,一時期,クラシック音楽界の主要ポストを独占し,楽壇の帝王とも称されていました。
当時のソニー社長・大賀典雄と親交があり,大賀がカラヤンの自宅を訪ねているときに倒れ,大賀の胸に抱かれて絶命しました。

大賀典雄(1930-2011)は日本の実業家・指揮者・声楽家です。
東京藝術大学音楽学部卒業・同専攻科修了後ドイツに留学,テープレコーダーの図面を東京通信工業(現ソニー)に送ったりした縁で,留学後,井深大に誘われて入社(1959)します。
最初は歌手と実業家の2足の草鞋を履いていましたが,そのご実業に専念し,CBSソニーレコードやソニー商事の社長を経てソニーの社長に就任(1982),会長等を経て退職,退職慰労金の16億円を全額軽井沢町に寄付し,軽井沢大賀ホールを建てました。

大賀さんの歌うフィガロをFM放送で聴いたことがあります。
良いバリトンでした。
もし,人生をやり直す機会があるとすれば,音楽家になりたかった,と本人も言われていました。

12月9日,開高健さんが死去(58)
開高健(1930.12.30)は大阪市天王寺区の出身,天王寺中学(現天王寺高校)卒,大阪市立大学文学部卒,在学中に牧羊子と結婚(1951),壽屋(現サントリー)宣伝部に入社(1954),数々の名キャッチコピーを創作,朝日新聞の臨時特派員としてベトナム戦争に従軍(1964)命をはって取材,帰国後に小田実らとともにベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に参加します。
裸の王様』で芥川賞受賞(1958),食と釣りを楽しみ,エッセイも多数。
開高さんの作品は海外でも評判が高く,もし,もう少し長生きしておれば,大江健三郎(1935-)ではなくて,開高さんがノーベル文学賞を受賞していたかもしれません。

盟友・谷沢栄一は『回想 開高健』(PHP研究所,1999)のなかで,「七つ年上の女につかまり,しだいに事態の意味するところに気づき,見る見る不機嫌となった」と書き,稀代の悪妻とまで言い切っています。開高さんが海外にまで釣りに出かけたのは,妻から逃げるためだった,とも言っています。

編集者・菊谷匡祐も『開高健のいる風景』(集英社,2002)で,開高の葬儀のとき,牧羊子(1923-2000)が郷土の先輩・司馬遼太郎(1923-1996)に弔辞を依頼しますが,「開高さんは口にこそ出しませんでしたが,司馬さんの作品を認めていなかった」と証言しています。さほどに,食い違った夫婦であったようです。
しかし,悪妻が故に,夫がいい仕事をした実例は,古今東西いろいろとありますからね。

この1989年という年は,個人的にも特別な年でした。
この年の9月から12月までの3か月余り,フランスに滞在する機会を得ました。
それまで学校や仕事には生まれた自宅から通っていましたから,初めて自宅を離れるのが,海外,しかも伝統あるフランスのパリということで,期待と少々の不安がありました。
居住地は,地下鉄1号線の,凱旋門の直下のシャルル・ド・ゴール・エトワール駅(通称エトワール)から乗って終点のヴァンセンヌにあるホテル兼アパートでした。
じつはヴァンセンヌは市で,パリ市の隣町ですが,フランス人によるとほとんどパリと言ってよいそうです。
パリの西にブローニュ―の森があり,東にヴァンセンヌの森があります。しかしブローニュ―の森はパリではないそうです。
勤務先が高速地下鉄RERとバスを乗り継いて15km東の新興都市シャンスルマルヌにあるCSTB(建築科学技術研究所)でしたので,パリの東が適当であろうと,フランス人(日本で私の研究室で研修した人)が思って確保してくれたのだと思います。
それと夜のジョギングをするのに,ヴァンセンヌの森が適切ではないかとも言っていました。
しかし,フランスの道は犬のフンだらけで,踏まずに歩くことはできません。フンを踏みながら走るのはなかなか慣れませんでした。

フランスの思い出はいろいろありますが,また別の機会にゆっくりとお話ししましょう。

この季節の歌は『誰もいいない梅』にしましょうか。

山口洋子・作詞 内藤法美・作曲 越路吹雪・歌(1970)

今はもう秋 誰もいない海
知らん顔して 人がゆきすぎても
わたしは忘れない
海に約束したから
つらくても つらくても
死にはしないと

今はもう秋 誰もいない海
たった一つの夢が 破れても
わたしは忘れない
砂に約束したから
淋しくても 淋しくても
死にはしないと

今はもう秋 誰もいない海
いとしい面影 帰らなくても
わたしは忘れない
空に約束したから
ひとりでも ひとりでも
死にはしないと

作曲者・内藤法美(1929-88)は,歌手・越路吹雪(1924-80)の夫です。
長らくヒット曲がなかった夫にやっとヒットが出たということで妻は非常に喜んだということです。
ですからここはトア・エ・モアではなくて越路吹雪にしました。
作詞者・山口洋子(1933-)は詩人で,「横浜たそがれ」の同名の作詞者とは別人です。

昼間はまだ残暑がありますが,夜は虫の音が聞こえる秋になりました。
本格的な秋にはもう少しですが,季節の替り目には体調を壊すことがありますので,夏の疲れがでませんように,すこやかにお過ごしください。

夏の虫

よく使うことわざに

飛んで火にいる夏の虫

というのがありますが,
明かりにつられて飛んで来た夏の夜の虫が火に触れて焼け死ぬことから,それと気づかずに,また,自ら進んで危険に飛び込むことのたとえ,として使います。

このことわざのように,
高電圧を用いた電撃タイプの捕虫器があり,虫が自ら光に吸い寄せられて,バリバリと焼けこげるという無残な姿を目にしたものでした。

ところが最近,
新しいタイプの捕虫器がつくられ,上部の「捕虫ランプ」,中部の「ファン」,下部の「捕虫袋」の3つの部位で成立っており,吸込まれた虫は袋の中に溜まるため,袋ごと捨てれば,虫に触れることなく衛生的に処理できるというものです。

家庭用には,
「電気蚊取り器」よりも渦巻き型の昔ながらの「蚊取り線香」が好みです。

家には蚊など一匹もいそうもないようなタレントが,団扇片手に「日本の夏,〇鳥の夏」なんて言うCMがありましたね。

スプレー式の蚊取りを,コメディアンが「ルーチョンキ」などとのたまわりながら,スプレーしまくるようなCMも懐かしいです。

蚊の刺したようにも感じない
というのは少しの痛痒も感じないということですが,実際には,刺されると痒いし,うるさいものです。

世の中に か(蚊)ほどうるさき ものはなし
ブンブ(文武)といひて 夜も寝られず

これは太田南畝(蜀山人,1749-1823)が作った狂歌で,白川藩主であった老中・松平定信(1759-1829)が行った寛政の改革を批判したものとして有名ですね。

ものはついでに,こういうのもありました。

白河の 清きに魚も 住みかねて
もとの濁りの 田沼恋しき

もちろん,
田沼とは,そのまえの老中・田沼意次(1719-88)のことで,重商主義政策を採りました。
ちなみに,
江戸時代には三大幕政改革が行われていますが

享保の改革(1716-45) 徳川吉宗・主導
寛政の改革(1787-93) 松平定信・主導
天保の改革(1841-43) 水野忠邦・主導

いずれも質素倹約・緊縮財政を推し進めたので,経済はよけいに沈滞することになったのです。

さて
金儲けをもくろんだある芸人が,オオクワガタが高額で売買されて儲かると聞き込んで,自宅で飼いだしたのはよかったのですが,クワガタにつられて虫が湧くようになり,それを気にかけた女房がバルサン(燻煙式の殺虫剤)を焚いて,すべてを殺してしまった,という笑い話のような事実があります。

夏の虫というより,いまや年中いますが
ゴキブリは嫌われていますね。
むかしはアブラムシと言っていました。
あのねのね『赤とんぼの唄』(清水國明・詞 原田伸郎・曲)でも
「赤とんぼ 赤とんぼの 羽根を取ったら アブラムシ」
と歌っています。

殺虫スプレーをかけても即死に至りませんから,追い回すことになり,連中が元気な夏は取り逃がすことも少なくありません。

以前はどこの家でもハエタタキがありましたから,現れても,あれで一撃すればたちどころに取り押さえられました。
ただし,虫の内臓が付着するのが嫌ですね。

話は突然それるようですが,
自動販売機で,紙コップが出てきて,濃縮されたものがその場で適切な熱さ(冷たさ)で混合されて注がれるタイプのものは気を付けてください。
注ぎ口周辺は甘くて暖かくて年中,ゴキブリにとって絶好の住みかです。
内容物を交換にくるお兄さんに「ゴキブリの死骸が挟まっていることがよくあります」と聞いて以来,そのようなタイプを選んだことはありません。

夏の虫は,秋の虫と比べて,風情がありませんね。
ホタルが例外でしょうか。

もうすぐ本格的な夏になると,セミがうるさいですね。
わが家のゴンタな猫は,庭に出ると,セミを捕まえて来ます。
近くに田んぼがあったころには,カエルやヘビをお土産に持って帰ってきて往生しましたが,最近は部屋でわれわれが気づかないような小さな虫を追っかけています。

虫をムシできるくらい大らかな生活ができればよいのでしょうけれど・・・。

やむにやまれぬこと

よのなかには
やむにやまれぬ」ということが存在します。
今回は,私にとって,どうしても言っておきたい,言っておかねばならないと思うことを書きます。

環境」という大きなテーマの下で研究をしてきました。

明確に「環境」という言葉を意識したのは,学会主催の講習会で,大阪大学名誉教授・新津靖博士の話を聞いてからです。
新津先生(1905-2005)は長野県佐久のご出身で,長身・痩躯の大音声の持ち主で,話がまことにおもしろく,引き込まれます。
大阪大学に日本で初めて環境という名を付した「環境工学科」(1968)を創設されました。

大阪万博(1970)のころ,公害がすさまじく,企業も防止の努力をすべく,学習会が義務付けられ,そこで「エコロジー(生態学)」という言葉を初めて,大阪市立大学教授・吉良竜夫博士から聞きました。
吉良先生(1919-2011)は大阪市の生まれですが,穏やかな語り口で,「自然界の生態系を乱すのは,神をも冒涜するしわざ」という主旨の鮮烈な言葉を伺いました。

建築の分野に,建築環境工学という論理的な分野を確立されたのは,京都大学総長で名誉教授・前田敏男博士でした。
前田先生(1908-1991)は高知県のご出身で,古武士を思わせる風貌と体格で,まわりを圧倒する存在でした。
先生の「徹底的に考える」という風習は弟子の先生方にも連綿として受け継がれており,じつは私も孫弟子の末席を汚すものの一人ですが,その洗礼は充分に受けました。

ところで,これからが本題ですが
関西電力大飯原発3,4号機(福井県おおい町)に,再稼働は危険だ,として福井県の住民ら189人が関西電力を相手取って運転差し止めを求めた訴訟の判決が5月21日,福井地裁でありました。
樋口英明裁判長は「大飯原発の技術や設備は冷却や放射性物質の閉じ込めに欠陥がある脆弱なもの。運転により人格権が侵害される危険がある」と厳しく指摘しました。
原発の運転差し止めを命じた司法判断は福島事故後初のことです。

ここで
原子力発電の問題点を整理しておきましょう。

原発の利点
・安定した電力供給の可能性
・発電時に二酸化炭素を排出しない(地球温暖化の防止)
・燃料が少なくてすむ
・経済性が高い(重大事故を考慮しなければ)

問題点
・重大事故による周辺の被害
・放射性廃棄物を作り出す
・ウラン資源の枯渇問題
・施設建設にコストがかかる(火力発電とくらべて)
・軍事転用による核拡散の可能性(国際的に)
・立地場所が限定される(地質学的に)
・発電施設および廃棄物へのテロの危険性

もともとそんなにすぐれた発電方法ではない,むしろとても危険性をはらんでいるもの,という認識を,当初から私は持っていました。
初期に開発に携わった関係者からも,問題が多すぎて,欠陥が多すぎて,とても商業ベースに乗るような代物ではない,という意見を聞きました。
それらを覆い隠すようにしてこんにちまで来たのではありませんか。

この判決結果に対する各新聞社の社説の見出しは

朝日
判決「無視」は許されぬ
毎日
なし崩し再稼働に警告
読売
不合理な推論が導く否定的判決

と,大新聞といわれる3社で,こうも意見が分かれるのか,という実感です。
よく読んで何が正しいのか,自分自身で判断することが必要です。

ものはついでに
放送マスメディア(大量伝達手段)のNHK籾井勝人会長の問題発言について,商社時代の先輩OBが彼のことを語っています。

「『政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない』という就任会見での発言は籾井君の商社マン人生そのもの。彼は上司から『右向け右』と命じられたら忠実に一晩中でも右を向いているような男だった。上司は絶対。自分の部下にも服従を求めた。彼の辞書に『不偏不党』はない。こういう人物を公共放送のトップに任命した人たちの常識を疑う」

常識を疑われているのは任命した安倍首相です。

「集団的自衛権」の問題も,こじつけのような論理展開で,勝手に決めてしまおう,という姿勢が見えます。
国境線が長大な日本で,外からの攻撃に,軍事力で防衛することは本来,不可能なことを理解すべきです。
海岸線に設置した原発を攻撃されたら,日本はたちまち沈没してします。

だからこそ
少々の摩擦があっても,近隣の国々とは,友好的な外交関係を維持する努力を怠ってはならないのです。
それが最大の安全保障の方法です。

最近はやりの
近隣国へのヘイト・スピーチ(憎悪表現)によって,不安をあおるような言動は避けなければなりません。

いまわが国は,独裁化・軍国化へのノー・リターン・ポイント(帰還不能点)にいる,と本気で心配している人たちが大勢います。

祖父・岸信介を敬愛する安倍晋三首相ですが,なにぶん三代目ともなると

売り家と唐様で書く三代目

と故川柳にもあるように,家どころか,国まで,国民まで,売ってしまいかねない危うさを感じているのは,私だけでしょうか?

緑の切妻屋根の家

いま
NHK連続テレビ小説(通称・朝ドラ)がおもしろいです。
「あまちゃん」,「ごちそうさん」,「花子とアン」と3回続いての大ヒット,これはもうホームランと呼ぶべきです。

ほとんど
1985年4月17日,阪神甲子園球場において,巨人・槙原投手から,バース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発に匹敵する快挙です。

もちろん
「花子とアン」は翻訳家・児童文学者の村岡花子(1893.6.21-1968.10.25)〈誕生:安中はな〉の1代記ですが
代表翻訳「赤毛のアン」の孤児院で育ったアンと花子さんの貧しい生い立ちを重ねて共感を得ています。

カナダの作家L・M・モンゴメリ(1874.11.30-1942.4.24)の小説「赤毛のアン」(1908)の原題は”Anne of Green Gables”で,直訳すると「緑の切妻屋根のアン」となります。
場所はカナダの東海岸,プリンス・エドワード島にその家は今も建っています。

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じつは
私がカナダに留学していたとき,職場のカナダ人の女性に
「プリンス・エドワード島に行ってみたい」と言うと
「なんで?あんな何もない辺鄙なところに」と返されて,驚いたことがありました。
日本ではこんなに有名なのに,カナダではそれほどでもないのか,と思いましたが,彼女が東欧からの移民の人と聞いて,納得しました。

ドラマに登場する「はな」さんの“腹心の友”になる蓮子さんには,実在の人物がいます。

歌人の柳原白蓮(1885.10.15-1967.2.22)本名:燁子(あきこ)です。
じつは
燁子さんの叔母の柳原愛子は大正天皇の生母なのです。
ということは
大正天皇と白蓮さんは従兄妹(いとこ)同士ということになります。
また
彼女は大正三大美人の一人で,非常なる美貌の持ち主です。

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そのせいもあって
不幸な結婚を2度もさせられています。
最初は十代で子爵と,つぎは年の離れた九州の炭鉱王と,政略結婚と言ってもいいでしょう。
しかし
最後は駆落ち(白蓮事件として有名)をします。
相手は宮崎龍介という編集者・弁護士・社会運動家で,彼の父・宮崎滔天(とうてん)は中国革命を支援し,孫文の盟友であった社会運動家でした。
それまでの人たちと比べて,地に着いた生き方の龍介に,きっと白蓮さんは心惹かれたのではないかと思われます。
そして
ついに結婚しますが,そのとき白蓮36歳,龍介29歳でした。

さきの3連発のうち,あとの二つは,どちらも女性の1代記で,明治・大正・昭和そして戦争と,過酷な時代を,けなげに生き抜きます。
そのまえの「カーネーション」(2011.10-2012.3)もそうでした。
驚異的な支持を得た「おしん」(1983.4-1984.3)も同様の展開でしたね。

次回の朝ドラは
ニッカウヰスキーの創業者で「日本のウイスキーの父」と呼ばれた竹鶴政孝(1894.6.20-1979.8.29)の1代記で「マッサン」。
ヒロインは妻のリタ(役名はエリー)さんというイギリス・スコットランドの人です。

上記の考察から推論すると
ヒットする,いやホームランの可能性が高いと思われます。

吉田けんこうの言いのこし

つぎのような文章は,ほとんどの日本人なら目にしたことがあるでしょう。

 春はあけぼの
 やうやうしろくなり行く 山ぎはすこしあかりて
 むらさきだちたる雲の ほそくたなびきたる

平安時代の作家・歌人の清少納言(966頃-1025頃)による枕草子の書きだしです。

 家の作様(つくりやう)は 夏を主(むね)とすべし
 冬はいかなるところも住まる
 暑きころ悪(わろ)き住居(すまい)堪えがたきことなり

これは鎌倉末期の歌人・吉田兼好(1283-1352)の徒然草の第55段の一節です。

日本の三大随筆の二つをわざわざ紹介したのは,高校時代の古文の嫌な時間を思い出させるためではありません。

文人の清少納言が「春はあけぼの(夜明けの空が明るんできた頃)が良い」というのは,あくまで個人的な見解・嗜好として聞き流せますが,兼好法師のように「家は夏向きに作らねばならない」と断定されると,理系の人間としては,いささか引っかかるところであります。

そもそも
「夏に涼しく過ごせる住居」というのは可能なのでしょうか。
もちろん,これはエアコンなどの機械やエネルギを使うことなしに,という前提です。

まず
夏の暑さの最大の原因は強烈な太陽日射ですから,それを断熱性のある屋根でさえぎることです。
屋根に太陽電池パネルや太陽熱温水器を置くと,太陽エネルギを遮る効果とそのエネルギを有効に利用できるという2つの効果が引き出せます。

つぎに
窓からの日射除けには,庇を深くしたり,外側をヨシズやスダレで覆ったりして,日射を直接居室に入れないようにする工夫が必要です。
とくに西側の窓には効果的です。

そして
涼しく過ごすためには,外気を利用した換気や通風によって室温を低くすることです。
しかし
昼間の気温はすでに高温ですから,夜間の比較的低い気温の空気を利用しなければならないので,そこが難しいところです。
本当は,窓を開けっぱなしにして,夜の外気を室内に取り込めれば,かなり涼しく過ごせるのですが,防犯上の問題や,近隣が密接したような住居では,十分な通気・換気を取り込むのは困難になってしまいますよね。

もう一つの有効な方法は
水の蒸発熱を利用することです。
庭や屋根に散水して,温度を下げるのです。
これも日中では,少々散水してもすぐに蒸発してしまいますから,水の消費量もばかにならないし,やはり夕暮れどきの適当な時間に打ち水をしましょう。

さらに
庭のあるお宅では,植樹をすることです。
木の葉は非常に優れた断熱性能をもつので,木陰はとても快適な空間になります。
その木陰を通った空気を室内に取り込めば,かなり快適な換気になります。
西窓の外側に,植物をはわせる工夫も試みられていますが,植物自体もあまり環境のよくない場所では生育しにくいきらいがあるので,なかなか期待通りには行かないようです。

しかしながら
暑さ寒さもエアコンなどに頼ることを少なめにして,できるだけ自然環境と共生して,ある程度のストレス(外的刺激)を受けながら,少し我慢もして,抵抗力を養いながら生活するというのが,病弱の人や高齢者・幼年者を除く,一般の人々にとって,健康的な生き方というものではないでしょうか。

吉田さんも「けんこう」というぐらいですから,「健康」のことも考慮の内だったのでしょうか。