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花のはなし

春はの季節です。

たんにといえば,昔は梅の花をいい,平安後期からは桜の花のことをさしました。

の開花日は花見の予定のためか,気象情報でも毎年予測されていますが,600度の法則というものがあります。
これは,2月1日から毎日の日最高気温を積算していくと,600℃になる頃に開花する,というものです。

また,美しいこと,盛りであること,栄えることの例えとして用いられ,「の都」「今が人生の」「相手にを持たせる」などと使われます。

それ以外でも,いろいろの例えがあり,

に風 「月に叢雲(むらくも)は花に風」の略
:世の中の好事には,とかく障害が多いこと

が咲く
:盛んになる。努力が実って成功する

も恥じらう
:花も引け目を感ずるほどの若い女性の美しさの形容

も実も有る
:外観も美しく,内容も充実していること

より団子
:風流を解さないこと。名よりも実利を尊ぶこと

花を読んだ和歌もいろいろとあります。

人はいさ 心も知らず ふるさとは ぞ昔の 香ににほひける
紀貫之

あなたは昔のままの心なのでしょうか。わかりませんね。
でも,故郷には,昔のままに花の香りが匂っていますね。

久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく の散るらむ
紀友則

こんなにも日の光が降りそそいでいるのどかな春の日であるというのに,どうして落着いた心もなく,花は散っていくのでしょうか。

世の中に たえてのなかりせば 春の心はのどけからまし
在原業平

世の中に桜というものがなかったなら,春になっても,咲くのを待ちどおしがったり,散るのを惜しんだりすることもなく,のんびりした気持ちでいられるだろうに。

3月は卒業のシーズン,別れの季節でもあります。
今回は『故郷を離るる歌』にしましょうか。

故郷を離るる歌
吉丸一昌・作詞 ドイツ民謡(1913.7)新作唱歌(五)

園の小百合 撫子 垣根の千草
今日は汝をながむる最後の日なり
おもえば涙膝をひたす さらば故郷
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば

つくし摘みし岡辺よ 社の森よ
小鮒釣りし小川よ 柳の土手よ
別るる我を憐と見よ されば故郷
さらば故郷 されば故郷 故郷されば

此処に立ちて さらばと 別れを告げん
山の蔭の故郷 静かに眠れ
夕日は落ちて たそがれたり されば故郷
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば

吉丸一昌(1873-1916)大分県出身,作詞家・文学者・教育者。東京帝大国文科卒,中学校・教諭,東京音楽学校・教授。
代表作は「早春賦」など。

ドイツ民謡でありながら,この曲は,とくに1,2番の歌詞が心にしみます。名曲ですね。作詞家の力でしょう。

私には残念ながら故郷がありません。現在でも生れ育った土地に住んでいます。
決して田舎ではありませんが,子供のころは,近くの川辺では蛍が見られましたし,家の近くに小規模の古墳がありましたから,かっこうの遊び場で,カブトムシやクワガタが取れました。

しいて言えば,母の実家が山里の大きな旧家だったので,それが絵で見るような故郷の光景かもしれません。

春本番です。
しかし,油断は禁物。このころに菜種梅雨という,菜の花が盛りのころに降り続く雨があり,雨が降れば気温も下がりますので,気をつける必要があります。
元気での季節を楽しんでください。

うまず たゆまず

倦(う)むとは「飽きる,嫌になる,退屈する」という意味です。
弛(たゆ)むとは「ゆるむ,おこたる,油断する」という意味です。

ですから,倦まず弛まずとは,飽きることなく緩むことなくコツコツとやること,の意味で使います。

現代は「コスパ」とかいって,効率化ばかりがもてはやされて,地道にコツコツと努力を積み重ねることが,ともすればなおざりにされているような気がします。
ここでコスパとはコスト・パフォーマンスcost performance)の略で「投入する費用に対する成果の割合」のことです。

トーマス・エジソン(1847-1931)は「あなたは発明の天才ですね」と言われて,「私を天才というのなら,天才genius)とは1%の霊感inspiration)と99%の発汗persupirarion)です」と答えた,という伝説めいた話があります。

実際,エジソンは試験体をたくさん用意して,片っ端から実験して,良いものを選び出す,といういわゆる試行錯誤trail and error)を繰り返して,より良いものを選択した,と言われています。

よく知られている白熱電球の発明は,実はジョセフ・スワンという人でしたが,エジソンは京都の竹をフィラメントに使って改良し,電灯の事業化に成功しました。

ノーベル賞級の研究でも,1つの結果が出るには99回の失敗程度では済まない,たくさんの時間と努力を継続した,愚直ともいえる繰り返しの試行が必ずあるのです。

例えば「錬金術」のように成功しなかった研究も,その試行の過程で,硫酸・硝酸・塩酸などの化学薬品の多くが発見され,実験用具も発明され,その成果は現代の化学に引き継がれています。
ここで錬金術とは,化学的手段を用いて卑金属から貴金属(特に金)を精錬する試みのことです。

女子フィギュア・スケートの宮原知子(1998-)さんのようにコーチからも「努力の天才」と呼ばれているような選手はきっと大成するはずです。みんなで応援してあげましょう。

なにごとによらず,倦まず弛まず努力を継続することで,きっと素晴らしい結果が生まれるものです。

よしんば,具体的な成果につながらなかったとしても,努力を継続したという逞しい経験が,その後の人生で宝物になるはずです。

ところで,先日オペラに行ってきました。
出し物はプッチーニの『蝶々夫人』。
歌手もオーケストラも日本人の公演でしたので,安心してみることができました。というのも,スタッフに振付・所作指導という人もいましたから,着物の着付けや所作に違和感が少なかったようです。

しかし,イタリア人のプッチーニは日本を訪れたことはなく,在ミラノ日本総領事夫人から日本の音楽の資料を得て作曲したので,耳馴染の旋律が何カ所も聞くことができますが,しょせん西欧目線の日本観で,違和感は隠せません。
想像の国・日本の明治時代の長崎を舞台に,アメリカの海軍士官・ピンカートンと没落藩士の娘・蝶々さんが出会い,夫婦となり,,そして悲劇的な最後になります。

じつは,オペラには3大失敗と呼ばれるものがあり,

1.ヴェルディの『椿姫』初演1853年
2.ビゼーの『カルメン』初演1875年
3.プッチーニの『蝶々夫人』初演1904年

現代では有名な3作品の初演がことごとく不評でした。

椿姫は,イタリア人のヴェルディが作曲,フランスのパリを舞台に,高級娼婦・ヴィオレッタと青年貴族・アルフレードとの恋の悲劇です。

カルメンは,フランス人のビゼーが作曲,スペインのセビリアを舞台に,自由奔放なジプシー女・カルメン,衛兵伍長・ドン・ホセ,闘牛士・エスカミーリヨの織りなす恋の悲劇です。

ここで,日本を舞台にしているからといって,日本オペラと言わないように,作曲者の国籍や書かれている言語によって,イタリア・オペラやフランス・オペラと呼ばれます。

今回は,『蝶々夫人』の第2幕で,ピンカートンを待ちながら,再会を想像しながら蝶々さんが歌う,余りにも有名な『ある晴れた日に』を聴きましょう。マリア・カラスが歌っています。

ある晴れた日
海の彼方にひとすじの煙が上がるのが見えるでしょう。
やがて船が姿を見せます。
その真っ白い船は港に入り 礼砲を轟かせます。
見える? あの人がいらしたわ!
でも私は迎えには行かないわ。行かないの。
あそこの丘の端に立って待つわ 長い時間。
長い時間待ってもなんともないわ。
すると・・・人々の群れから離れ
小さな点のように見えるひとりの人が
丘に向かって来るわ。

誰でしょう 誰かしら。
どんなふうにして着いたのかしら。
なんと言うでしょう。なんて言うかしら。
遠くから 「蝶々さん」 と呼ぶでしょう。
でも私は返事をしないで 隠れているわ。
それはちょっとはいたずらでもあるし
久しぶりに会うので喜びに死んでしまわないためでもあるのよ。
それであの人は少しばかり心を傷めて呼ぶでしょう。呼ぶわ。
「かわいい妻よ 美女桜の香りよ」
これはあの人が来た時私につけてくれた名前なの。
(スズキに)
すっかりこのとおりになるのよ 約束するわ。
あなたは心配していればいいわ。
私はかたく信じて あの人を待ってます。

やはり,恋愛は誠心誠意,真面目に対応しなければ,こんな悲劇を生むことにもなりかねません。

時は春,桜のシーズンとなりました。
しかし「月に叢雲(むらくも)花に風」のたとえにもあるように,好事にはとかく障害の多いもので,「花冷え」という言葉もあり,夜桜見物ではかなり冷えることもありますので,注意して,この良きシーズンをお楽しみください。

おはぎの季節

秋の彼岸の季節になるとなぜか,おはぎを思い出します。
米でできたの外側にあずきの餡(あん)をまぶすもので,日本の伝統的な家庭で作るお菓子です。

おはぎに似たものにぼたもちがありますが,それらの違いについて,諸説あります。

● もち米を主とするものがぼたもちで,うるち米を主とするものがおはぎ

● あずき餡を用いたのがぼたもちで,きな粉を用いたのがおはぎ

● こし餡を使ったのがぼたもちで,つぶ餡を使ったのがおはぎ

● 米を餅の状態までついたのがぼたもちで,粒の状態が残っているものがおはぎ

● 二口ほどで食べられる小さいのがおはぎで,それ以上の大きいものをぼたもち

しかし,一番有力なのが,
牡丹の花が咲く季節,すなわち春の彼岸のころに作るのが,牡丹餅(ぼたもち)で,の花が咲く季節,すなわち秋の彼岸のころに作るのが,御萩(おはぎ)というのが,もっともしっくりきます。

いずれも,神仏や先祖への供物とされた小豆(あずき)餡の様子を,牡丹の花や萩の花に見立てたことから,歴史的な伝統をかんじます。

ことわざもあって,

棚から牡丹餅

努力することなしに予期しない幸運が舞い込んでくること。「たなぼた」と省略することもあります。
この場合,お萩ではダメなようです。

漫才師に,メガネをかけた「おぎやはぎ」というのがいて,長く「おぎ」や「はぎ」と思っていました。
は間違えやすい漢字ですから,絶妙のコンビ名と思いましたが。

いまTVのCMがおもしろいですね。
日本の昔ばなしに登場する3人の「英雄」(かどうかは分からないけどスポンサー名から推測),すなわち金太郎桃太郎浦島太郎の三太郎を登場させて,いろいろ展開します。
桃太郎かぐや姫を一緒にさせたり,乙姫かぐや姫が姉妹だったりする,荒唐無稽のむちゃくちゃな内容ですが,おもしろいです。
こういうことで,売り上げに影響するんですから,バカになりません。
ライバルは,まえから,しゃべる白犬で,北大路欣也,樋口可南子,若尾文子,上戸彩など大物俳優を登場させていますが,若干おされ気味なようです。

今回は,三太郎にちなんだ誰でも知っている童謡・唱歌にしましょうか。

きんたろう』石原和三郎・作詞 田村虎蔵・作曲(1900)
幼年唱歌(初の上)

まさかりかついで きんたろう
くまにまたがり おうまのけいこ
ハイ シィ ドウドウ ハイ ドウドウ
ハイ シィ ドウドウ ハイ ドウドウ

あしがらやまの やまおくで
けだものあつめて すもうのけいこ
ハッケヨイヨイ ノコッタ
ハッケヨイヨイ ノコッタ

桃太郎』作詞者不詳 岡野貞一・作曲(1911)
尋常小学唱歌(一)

桃太郎さん桃太郎さん
お腰につけた黍(きび)団子
一つわたしに下さいな

やりましょうやりましょう
これから鬼の征伐に
ついて行くならやりましょう

行きましょう行きましょう
あなたについて何処までも
家来になって行きましょう

ここで,よく間違うのが,2番で「やりましょう」を「あげましょう」と間違って歌う人が多いことです。ここでは,家来になるべき者に対してですから,「あげる」ではなくて,「やる」なのです。

浦島太郎』作詞・作曲者不詳(1911)尋常小学唱歌(二)

昔々浦島は 助けた亀に連れられて
竜宮城へ来て見れば 絵にもかけない美しさ

乙姫様の御馳走に 鯛や比目魚(ひらめ)の舞踊(まいおどり)
ただ珍しく面白く 月日のたつのも夢の中(うち)

遊びにあきて気がついて お暇乞(いとまごい)もそこそこに
帰る途中の楽(たのしみ)は 土産に貰った玉手箱

帰って見ればこは如何(いか)に 元(もと)居た家も村も無く
路(みち)に行きあう人々は 顔も知らない者ばかり

心細さに蓋とれば あけて悔しや玉手箱
中からぱっと白烟(けむり) たちまち太郎はお爺さん

浦島太郎は数十年間の楽しみを短期間に凝縮して過ごしたのでしょう。細く長く,楽しみも喜びもほどほどに過ごすのか,普通の人たちの人生なのかもしれません。

いま花といえばですが,むかしはでした。
ところが『万葉集』約4,500首のうち,最も詠まれている花は,で約140首,つぎがの約120首,そしては40余首に過ぎません。

秋の七草』は万葉集で山上憶良(やまのうえのおくら)がつぎの二首で示しています。二首目は旋頭歌(せどうか)で,五七七・五七七と片歌を反復した六句体です。

秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)
かき数ふれば 七種(ななくさ)の花

萩の花 尾花 葛花 撫子(なでしこ)の花
女郎花(おみなえし) また藤袴 朝貌(あさがお)の花

1. おみなえし(女郎花) オミナエシ
2. おばな(尾花)    ススキ
3. ききょう(桔梗)   キキョウ  朝貌の花
4. なでしこ(撫子)   ナデシコ
5. ふじばかま(藤袴)  フジバカマ
6. くず(葛)      クズ
7. はぎ(萩)      ハギ

また,『萩の寺』として有名なのが東光寺(大阪府豊中市)です。境内はいま萩の花で満ちています。かつては大坂豊崎の里にあり「南の四天王寺,北の東光寺」と並び称された名刹ですが,阪急電車敷設により,1914年に現在地に移転されました。最寄駅は宝塚線曽根駅で,9月中旬から下旬まで萩祭が行われています。

ところで,
消費税増税にあたって,生活必需品の税率を低く抑える軽減税率の導入に,麻生太郎副総理は「複数の税率は面倒くさい」と発言し,与党は新設したマイナンバーカードで買い物ごとに精算時に記録し,後に2%分を還元する案を提出しました,それも還元分に上限を設けて。面倒なことを国民に押し付けるやり方はじつに腹立たしいです。

国民の反対の多い安保法案をゴリ押しして通そうするのは,本当に国民の安全を考えているのか,という思いが強いです。

やはり国民の意志を反映した政府を作らないと,恐ろしいことが起こりそうです。

おかしいことは,おかしいと,飽きずに言い続けましょう。

これから秋は,何をするにも良いシーズンです。夏の疲れを取って,大いに楽しみましょう。

ミュージカルは楽しい

このごろ世間に流行るお笑い芸人といえば,

● クマムシ「あったかいんだからぁ
● どぶろっく「もしかしてだけど」
● テツandトモ「なんでだろう

いずれも歌入りで,それぞれにキャッチフレーズがあり,それにそこそこ音楽性もあるというのが面白いところです。

昔の音曲芸人といえば,独自のテーマソングで始まりました。

横山ホットブラザーズ(アキラ・マコト・セツオ,1936-)
「明るく笑ってリズムショー 楽しく唄ってリズムショー 仲良く陽気に奏でるホットブラザーズ」(初期のもの)

かしまし娘(正司歌江・照江・花江,1948-)
「ウチら陽気なかしまし娘 誰が言ったか知らないが 女三人寄ったら かしましいとは愉快だね。ベリ-グッド ベリ-グッド お笑いお喋りミュージック 明るく歌ってナイトアンドディ ピーチクパーチクかしましい」

いずれも兄弟姉妹でトリオ,というのが面白いですね。
横山さんのところは,最初は父親の東六さんが創めて,紆余曲折を経て,現在の兄弟トリオになっています。

これらの原点はなんといってもオペラミュージカルでしょうね。
ところでオペラとミュージカルの違いはなんでしょうか?

オペラはヨーロッパで発生したクラシック音楽であり,ミュージカルはアメリカで発展したポピュラー音楽です。

オペラでは歌もオーケストラも生ですが,ミュージカルでは音楽は全てマイクを使いPA(Public Address System,拡声装置)を通してスピーカからの音を聴くことになります。

大きな違いは歌唱です。オペラでは歌・歌唱がもっとも重要な要素で,肉声を使うため,ベルカント(美しい歌唱の意)唱法という特別な発声法を訓練する必要があります。

ミュージカルでは舞踊(ダンス)も重要な要素で,歌手が歌いながら踊るのが基本ですが,オペラでは歌手は歌のみで,舞踊が必要な場合はバレエダンサーが踊ります。

ガーシュウィン(98-37)作曲『ポギーとベス』(1935)はアメリカのオペラに分類されていますが,ミュージカルの先駆的な作品でもあります。出演者全員が黒人というのも特別です。
劇中で歌われるヘイワード・詞「サマータイム」はポピュラーソングのスタンダードナンバーになっています。

ミュージカルの名作はそれこそたくさんありますが,独断で挙げる三大ミュージカルは,

●『マイ・フェア・レディ』(1956,映画化64)
●『ウエスト・サイド物語』(1957,映画化61)
●「サウンド・オブ・ミュージック」(1959,映画化65)

いずれも50年代にブロードウェイ公演から,60年代に映画化され,世界的な大ヒット作品となりました。
もちろん映画は全作見ましたし,前2作はアメリカ人公演の舞台を日本で見ましたし,楽譜も全作持っています。
映画を観る前に,楽譜を見て曲を覚えて,映画を観ながら歌を口ずさんだことを覚えています。

今回は『マイ・フェア・レディ(My Fair Lady)』を取り上げます。

原作は英国のジョージ・バーナード・ショー(1856-1950)戯曲『ピグマリオン(Pygmalion)』(1912)ですが,彼はミュージカルには否定的だったため,存命中は上演できませんでした。

しかし,ショーの「ピグマリオン」も,ギリシャ神話のキプロス島の王ピグマリオンが,理想の女性ガラテアを彫刻し,その女像に恋するようになり,女神アフロディテがそれに生命を与えて妻とさせた,という話が元になっています。

ミュージカル化は,作詞・脚本:アラン・ジェイ・ラーナー,作曲:フレデリック・ロウで,ブロードウェイ上演では56.3~62.9の6年6か月のロングランとなりました。
初演ではジュリ・ーアンドリュース(35-)がヒロインを務めました。

映画化(64)ではオードリー・ヘプバーン(29-93)が主演しましたが,歌唱はマーニ・ニクソン(30-)の吹替えです。
ジュリー・アンドリュースに主演させなかったのは残念だ,という人たちが大勢います。
じつは,1965年のアカデミー賞で,『メリー・ポピンズ』のジュリー・アンドリュースが主演女優賞を取り,『マイ・フェア・レディ』で取れなかったオードリー・ヘプバーンが大いに悔しがった,という逸話が残っています。

あらすじは,ロンドン下町の花売り娘イライザを,言語学者ヒギンズ教授とピカリング大佐の賭けで,粗野で下品な言葉をつかう娘を淑女(レディ)に仕立て上げる,という物語です。
もちろん,ヒギンズはキプロス王のように,自分で造り上げたはずの女性イライザのとりこになってしまうのです。

コックニー(Cockney)と呼ばれるロンドン訛りでは,エイ[eɪ]とすべき発音がアイ[aɪ]になり,たとえばデイ day をダイ[daɪ]と発音します。
それを矯正するために” The Rain in Spain “「スペインの雨」では,

The rain in Spain stays mainly in the plain
スペインの雨は主に平野に降ります

という陳腐なセリフを反復練習させ,正しいエイ[eɪ]の発音を覚えさせようとします。

オーストラリア方言でも同じような傾向があり,コックニーの人たちが移民していったのではないか,と想像しています。

また「My Fair Lady」のタイトルは「Mayfair Ladyメイフェア・レディ)」をコックニー訛りで発音して「マイフェア・レディ」とした,という裏話があります。
メイフェアは,昔は閑静な住宅地で,今は高級店舗が並ぶロンドンの地区の名前です。

『マイ・フェア・レディ』では名曲がいろいろあり,

●” Wouldn’t It Be Lovely “「素敵じゃない?
●” With a Little Bit of Luck “「運がよけりゃ」
●” I Could Have Danced All Night “「踊りあかそう
●” On the Street Where You Live”「君住む街角」
●” Get Me to the Church on Time“「時間通りに教会へ

今回は,マイ・フェア・レディの代表曲といっていい,この歌にしましょう。

I Could Have Danced All Night “『踊りあかそう
作詞・アラン・ジェイ・ラーナー(Alan Joy Lerner)
作曲・フレデリック・ロウ(Frederick Loewe)
歌唱・マーニ・ニクソン(Marni Nixon)

Bed! Bed! I couldn’t go to bed!
My head’s too light to try to set it down!
Sleep! Sleep! I couldn’t sleep tonight!
Not for all the jewels in the crown!

I could have danced all night
I could have danced all night
And still have begged for more
I could have spread my wings
And done a thousand things
I’ve never done before

I’ll never know what made it so exciting
Why all at once my heart took flight

I only know when he began to dance with me
I could have danced, danced, danced, All night!

ベッド!ベッド!ベッドになんて行けないわ!
頭が冴えすぎているわ
このまま落ち着けようなんて無理なの!
寝る!寝る!今夜は眠れないわ!
この冠の宝石たちのせいじゃないのよ!

一晩中だって踊れたわ
一晩中だって踊れたのよ
さらにそれ以上をお願いできるぐらいだったの
翼を広げることすらできたかもね
そして1000の事をやっていたかも
今までやったことのない事を

決して知りえないでしょうね
何がこれほど興奮させるのかなんて
どうして全てが突然に 私の心は飛び立ったの

分かることは,彼が私とダンスを始めた時だけ
踊れるわ 踊る,踊る 一晩中だってね!

前述の「スペインの雨」を真夜中3時までヘトヘトニなるまで練習して,やっと「エイ」が発音できるようになって,喜んだ3人(イライザ,ヒギンズ,ピカリング)が興奮して踊り出すシーンがあって後にこの歌になります。
一晩中でも踊っていたい,という高揚感は,聴いているこちらもウキウキしますね。

この作品の登場人物で,イライザの父で飲んだくれのドゥーリトルを舞台と映画の両方で演じたスタンリー・ホロウェイが,歌も踊りも演技も出色でした。「運がよけりゃ」や「時間通りに教会へ」など,観ていて聴いていて,こちらもつられて踊り出しそうになります。

時は新緑あふれる5月,何をするにも良い季節です。
7月に勝るとも劣らない強力な紫外線による日焼けには気を付けて,大いに楽しんでください。

青春とは

むかし,「青春とはなんだ」というTVの学園ドラマ(65-66)がありました。
夏木陽介の主演,石原慎太郎の原作,主題歌・挿入歌は岩谷時子・詞,いずみたく・曲,布施明・歌で,ラグビーを通じて心の交流や人間教育を実現してゆくという,よくあるパターンのドラマでした。これは,その後「これが青春だ」「でっかい太陽」「燃えろ!太陽」とシリーズ化してゆきます。

このような場合,ラグビーという競技はまことに都合がよく,泥んこになって乱闘するという,極めて分りやすいシーンが展開できますから。

ラグビーの精神として

One for all,  All for one
(一人は皆のために,皆は一人のために)

がよく言われていますが,それは日本だけのことで,
もともとはアレキサンドル・デュマ(大デュマ)の『三銃士』(1844)のなかで三銃士が剣をあわせて誓う言葉として登場しました。(原典 un pour tous, tous pour un“)

ところで,四季と方位には四神と色が割り当てられており,

春  東  青竜  青
夏  南  朱雀  朱(赤)
秋  西  白虎  白
冬  北  玄武  玄(黒)

つまり,青春朱夏白秋玄冬というわけです。

さて,日本の三大青春文学,純愛小説というべき作品は

伊藤佐千夫野菊の墓』(1906)
15歳の少年・斎藤政夫と2歳年上の従姉・民子との淡い恋を描きます。夏目漱石より「自然で,淡泊で,可哀想で,美しくて,野趣があって(中略)あんな小説ならば何百編よんでもよろしい」との評価を受けます。
民さんは野菊のような人だ。僕は野菊が大好き」という政夫のセリフは絶妙です。

川端康成伊豆の踊子』(1926)
19歳の川端が伊豆に旅した時の実体験を元にしている短編です。孤独や憂鬱な気分から逃れるために伊豆へ一人旅に出た青年が,旅芸人一座と道連れとなり,踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。孤児根性に歪んでいた青年の自我の悩みや感傷が,素朴で清純無垢な踊子の心によって解きほぐされていく過程と,彼女との悲しい別れまでが描かれています。

三島由紀夫潮騒』(1954)
伊勢湾に浮かぶ歌島(神島)を舞台に,若く純朴な漁夫・久保新治と海女・初江が,いくつもの障害や困難を乗り越え,恋愛が成就するまでを描いた物語。
雨の降る休漁日に初江と待ち合わせの約束をした新治は,先に到着し,初江を待っていたが,焚き火に暖められるうちに眠ってしまう。ふと目が覚めて気が付くと,初江が肌着を脱いで乾かしているのが見えた。裸を見られた初江は,新治にも裸になるように言う。裸になった新治に,さらに「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」と言った。火を飛び越した新治と初江は裸のまま抱き合うが,初江の「今はいかん。私,あんたの嫁さんになることに決めたもの」という誓いと,新治の道徳に対する敬虔さから二人は衝動を抑えた。
よく登場するシーンですが,今はこういう風にはいきません。

いま読み返しても,甘酸っぱい青春時代の思い出がよみがえるようです。
これらは,それぞれの時代のアイドルたちによって何度も映画化されています。

4月1日は入学式の日です。
今回の歌はこの楽しい曲にしましょうか。

一ねんせいになったらまどみちお・作詞 山本直純・作曲

一ねんせいに なったら
一ねんせいに なったら
ともだち ひゃくにん できるかな
ひゃくにんで たべたいな
ふじさんのうえで おにぎりを
ぱっくん ぱっくん ぱっくんと

一ねんせいに なったら
一ねんせいに なったら
ともだち ひゃくにん できるかな
ひゃくにんで かけたいな
にっぽんじゅうを ひとまわり
どっしん どっしん どっしんと

一ねんせいに なったら
一ねんせいに なったら
 ともだち ひゃくにん できるかな
ひゃくにんで わらいたい
せかいじゅうを ふるわせて
わっはは わっはは わっはっは

まどさんについては,下記に詳しく述べています。
2014年5月29日付「まどさんを偲ぶ」
をクリックしてみてください。

どうです,春にふさわしい,とても楽しい歌でしょう。
やはり入学式は桜のしたで,春にかぎります。

名人上手

3月19日に桂米朝さんがお亡くなりになりました。享年89歳。
翌朝の新聞では,全国紙からスポーツ紙にいたるまで,こぞって1面のトップ記事で伝えました。亡くなってから偉大さがわかる,というものです。
追悼文で「知的でハンサム,上品で博学」と表現した人がいましたが,芸風・人柄・存在感がそのとおりでした。

桜餅 一つ残して 帰りけり    八十八(やそはち)

八十八とは米の字を分解した米朝さんの俳号です。
私のブログでも,
2014年12月20日付「落語とわたしと」
のなかでいろいろと書いておりますので,ご興味のある方はクリックしてみてください。

昔からいろいろな人が亡くなるときに辞世の和歌・俳句を詠んでいます。(米朝さんのは辞世の句ではありません,念のため)

願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ
西行
つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを
在原業平
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢
豊臣秀吉
風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん
浅野長矩(内匠頭)
あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
大石良雄(内蔵助)
此の世をば どりゃお暇に せん香の 煙とともに 灰左様なら
十返舎一九
昨日まで人のことかと思いしが俺が死ぬのかこれはたまらん
太田蜀山人
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
吉田松陰

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる   松尾芭蕉
おもしろきこともなき世をおもしろく 高杉晋作
人魂で行く気散じや夏野原      葛飾北斎
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな     正岡子規
行列の行きつく果ては餓鬼地獄    荻原朔太郎

名人とは,技芸にすぐれて名のある人,ということです。
米朝さんは重要無形文化財保持者(人間国宝)ですから,当然,落語の名人といってよいでしょう。

名人のもともとは,囲碁・将棋から来ています。
名人の最初は,織田信長本因坊算砂(日海)に「そちはまことの名人なり」とほめたことが起源とされます。
ちなみに,本因坊とは囲碁の家系の一つで,昭和になって本因坊秀哉が引退するときに日本棋院に名跡を譲渡し,以後タイトルとなりました。

世襲制・推挙制であった名人位を,大正になって十三世名人関根金次郎が実力制名人戦を提案したことから,名人位はタイトルになりました。
ちなみに,関根金次郎といえば,王将で有名な大阪の坂田三吉と何度も対局したことでも有名です。

囲碁のタイトルは,本因坊・王座・名人・十段・天元・棋聖・碁聖の7つで,井山祐太は2013年に棋聖を除く六冠を取りました。
井山祐太(89.5.24-)は東大阪市の出身,石井邦生九段の門下,ネットを通じて師匠と1000局を超える対局をして実力を高めたことで話題になり,夫人は将棋女流棋士の室田伊緒二段で生年月日が同じです。現在は,棋聖・名人・本因坊・碁聖の4冠。

将棋のタイトルは,名人・棋聖・王位・王座・竜王・王将・棋王の7つです。
羽生義治(70.9.27-)は現在,名人・王位・王座・棋聖の4冠を達成しています。
1995-96に7冠独占を達成し,維持したのは167日間でした。
すでに,永世の称号を6つも持っており,十九世名人・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世棋聖・永世王将で,いずれも引退後に襲名することになっています。

ところで,名人のことを英語ではマスター(master),ドイツ語でマイスター(Meister),イタリア語でマエストロ(maestro)といいます。

マスターというと,喫茶店の店主のようで軽く聞こえますが,学位の修士はマスター(Master)といいます。

マイスターといえば,いかにも熟達した職人の感じがして,ドイツ人の技を大切にする伝統が生き続けています。
マイスタージンガー(Meistersinger,職匠歌手)という言葉を聞かれたことはありますか? ワーグナー作曲の楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は有名です。
ドイツでは大学へは無料で行けますが,誰もが行くわけではなくて,一方ではマイスターを目指す若者も多いのです。

指揮者のことを万国共通で,マエストロと呼びますが,カール・ベームという著名なドイツ人の指揮者が来日したとき,「マエストロ」と呼びかけたところ,「ドクターと呼んでください,若い頃,頑張って取得したのですから」と言いました。グラーツ大学で法学博士の称号を得ています。
ドクター(Doctor,Dr)とは学位の最高位で「博士」を指します。
ちなみに,学士バッチェラー(Bachelor)と言います。じつは「独身の男子」のことも,bachelor というのです。

いよいよ桜の季節です。
ある気象予報士のデータによると,2月からの1日の平均気温の積算値が400℃を超える頃に桜が開花するそうです。
今年は短い周期で暖かい日と寒い日が大きく変動する春でしたが,今週末には桜の開花が見られそうです。

桜の歌はたくさんありますが,なんといってもこの曲に尽きるでしょう。


』 武島羽衣・作詞 滝廉太郎・作曲(1900)

春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂(かひ)のしづくも 花と散る
ながめを何に たとふべき

見ずやあけぼの 露浴びて
われにもの言ふ 桜木を
見ずや夕ぐれ 手をのべて
われさしまねく 青柳(あおやぎ)を

錦おりなす 長堤(ちょうてい)に
くるればのぼる おぼろ月
げに一刻も 千金の
ながめを何に たとふべき

武島羽衣(72-67)は東京出身の詩人・作詞家・国文学者,「美しき天然」(田中穂積・曲)など,享年94歳。

滝廉太郎(79-03)は東京出身の作曲家,東京音楽学校卒,ライプツィヒ音楽院に留学するも結核発症のため1年で帰国,代表作は「荒城の月」(土井晩翠・詞),「箱根八里」(鳥居忱(まこと)・詞)など,享年23歳。

』は日本最初の合唱曲で,ピアノ伴奏付きの女声二部合唱か女声二重唱で歌われます。
滝さんは早逝されましたが,すばらしい楽曲を残されました。

たんに「花」といえば桜をさし,ソメイヨシノ・ヤマザクラ・サトザクラ・ヒガンザクラなど種類も多く,日本の国花です。

桜が咲けば,本格的な春です。
夜桜の下で深酒して風邪などひかぬ程度に楽しんでください。

季節の節目

今日この頃は,まさしく季節のかわり目,気温も天気も短い周期で大きく変動しています。
伝統的な年中行事を行なう季節の節目となる日を,節句といいます。

年間に様々な節句が存在していましたが,江戸時代に幕府が公的な行事を行なう日として,五節句を定めました。

漢名        日付  和名    料理
人日(じんじつ) 1月7日 七草の節句 七草粥
上巳(じょうし) 3月3日 桃の節句  菱餅,白酒
端午(たんご)  5月5日 菖蒲の節句 柏餅,菖蒲湯
七夕(しちせき) 7月7日 たなばた  そうめん
重陽(ちょうよう)9月9日 菊の節句  菊酒

おせち(御節)はもともと五節句の祝儀料理すべてをいっていましたが,のちに最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになりました。

五節句のなかでも桃の節句雛祭りが,もっとも華やかで冬から春へ季節の替り目の感じがひとしおです。

もともとは,5月5日の端午の節句とともに男女の別なく行われていましたが,江戸時代ごろから,豪華な雛人形は女の子に属するものとされ,端午の節句(菖蒲の節句)は「尚武(武事を重んずること)」にかけて男の子の節句とされるようになりました。

ひな祭りは,女子のすこやかな成長を祈る節句の年中行事で,ひなあそびとも言いました。
ひな人形を飾り,桃の花を飾って,白酒寿司などの飲食を楽しみ,雛あられ菱餅を供えます。

最初は儀式的なものではなく「雛あそび」の名前の由来がありましたが,川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり,「災厄よけ」に祀られました。
女子の「人形遊び」=「雛あそび」から節句としての「雛祭り」へとかわってゆき,一生の災厄をこの人形に身代わりさせるという祭礼的な意味合いが強くなり,身分の高い女性の嫁入り道具の一つにもなって,自然と華美になり,より贅沢なものになってゆきました。

ひな人形の種類は,

  • 内裏雛(だいりびな)あるいは親王と親王妃(男雛・女雛)。それぞれ天皇・皇后をあらわします。
  • 三人官女(さんにんかんじょ)宮中に仕える女官をあらわします。内1人はお歯黒・眉なしで既婚者(ないし年長者)です。
  • 五人囃子(ごにんばやし)能のお囃子を奏でる5人の楽人をあらわし,向かって右から,謡(うたい),笛(ふえ),小鼓(こつづみ),大鼓(おおつづみ),そして太鼓(たいこ)の順です。
  • 随身(ずいじん,ずいしん)通称右大臣左大臣で,向かって右が左大臣で年配者,向かって左が右大臣で若者で,いずれも武官の姿です。

ここでよく問題になるのが,男雛・女雛の並び方ですが,
現在,男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多く,それが一般的になっており,結婚式の新郎新婦もそれに倣っています。

ところが,日本の伝統では「」が上の位でした。
ですから,男雛も左大臣も左側,つまり向かって右に居るのが正式でした。

京雛では伝統的な並びで,関東雛と男雛と女雛の並ぶ位置は逆となっています。
ちなみに飾り物や紫宸殿(ししんでん,儀式が行われる正殿)の植栽でも,「左近の桜」「右近の橘」は,桜が左側(向かって右)にあります。

明治天皇の時代までは左が高位という伝統があったため帝は左に立ちましたが,文明開化により西欧の並びに合わせて,大正天皇以降は右に立たれています。

祭りの日が終った後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという話は昭和初期に作られた俗説とされており,旧暦の場合,梅雨が間近なので,早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから,というのが理由だとされています。

また,地域によっては「おひな様は春の飾りもの,季節の節できちんと片付ける,というけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」という,躾の意味から言われています。

この時季の歌としては,なんといっても最もなじみのあるのがこの曲です。

うれしいひな祭り山野三郎・作詞 河村光陽・作曲(1936)

あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花を上げましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
今日はたのしい ひな祭り

お内裏様と おひな様
二人ならんで すまし顔
お嫁にいらした 姉(ねえ)様に
よく似た官女の 白い顔

金のびょうぶに うつる灯を
かすかにゆする 春の風
すこし白酒 めされたか
あかいお顔の 右大臣

着物をきかえて 帯しめて
今日はわたしも はれ姿
春のやよいの このよき日
なによりうれしい ひな祭り

サトウハチロー(03-73)は東京出身の詩人・童謡作詞家・作家,山野三郎は数ある変名の一つ,作家の佐藤愛子は異母妹。
愛子さんは若いころは美形で遠藤周作などの憧れの存在だったらしいのですが,乱暴者の兄ハチローを嫌っており,その理由として「やっぱり兄妹どこか似ている」といわれるのが我慢できなかったそうです。
代表作は「リンゴの唄」「長崎の鐘」「お山の杉の子」「かわいいかくれんぼ」「おかあさん」など。

河村光陽(97-46)は福岡出身の作曲家,本名は直則,代表作は「グッドバイ」「かもめの水兵さん」など。

この「うれしいひな祭り」には正しくない表現が含まれており,サトウハチロー本人も気にしていたと言います。具体的には,男雛女雛を「お内裏様とお雛様」と呼ぶのはこの歌から広まった誤用で,また右大臣を「赤い顔」としているのも誤りです。

でも,いいじゃありませんか。こんなにみんなに親しまれ歌われて,やっぱり名曲だからです。
間違いは間違いとして正しく説明すれば,認識が深まってより良く後世に伝わるでしょう。

梅の花がかおると

東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花
主(あるじ)なしとて 春な忘れそ

これは菅原道真が京を去るときに詠んだ,あまりにも有名な和歌です。
最後は「春を忘るな」(拾遺和歌集)が初出ですが,古典の時間に「な・そ」で禁止の意味を強めると習ったことを思い出してその形で記しました。(これは正式には係り結びとは呼ばないそうです)

は,早春,葉に先だって開く花は,5弁で香気が高く,平安時代以降,とくに香をめで,詩歌に詠まれました。
たんに「」といえば「」を指しましたが,平安後期以降は「」を指すことに変っていきました。

菅原道真(845-903)は,平安時代の学者・漢詩人・政治家で,右大臣まで昇りましたが,左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ,他人をおとしいれるため目上の人にありもしないことを告げること)され,大宰府権師(ごんのそち)として左遷され,現地で亡くなりました。
死後,天変地異が多発し,道真の祟りと怖れられ,その怨霊を鎮めるために,京都の北野に北野天満宮が建てられました。
その後,「天神様」として天神信仰が全国に広まり,もともと学者だったことから,「学問の神」として信仰されることになりました。

その梅が,京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅」伝説も有名です。

道真(菅家)の「古今和歌集」の歌は,小倉百人一首の24番にも選ばれています。

このたびは 幣(ぬさ)も取り敢へず 手向山
紅葉の錦 神の随(まにまに)

この度の旅は,あわただしく発ちましたから,幣(ぬさ)の用意もできませんでした。手向山の神よ,このみごとな美しい紅葉の錦を私のささげる幣として,み心のままにお受けください。

ここで,幣(ぬさ)というのは,神主さんがお祓いのとき手にもつ白い紙ですが,この時代のは,色の絹を小さく切ったものだといいます。旅へ行くときはそれを幣袋に入れて,峠でまき,神に無事を祈るのです。

道真は,6月25日に生まれ,2月25日(いずれも旧暦)に亡くなっているので,25日は特別な「天神さん」の日になっています。

2月25日は,京都の北野天満宮梅花祭です。
しかし実際には,梅が咲くにはまだ少し早い時季です。
とくに今年は,気象庁の暖冬という長期予報がヤッパリはずれ,厳しい寒さがつづきましたから,開花は平年よりも遅くなるはずです。(ほんとに長期予報はよく外れますね)

7月25日大阪天満宮天神祭(日本三大祭の一)です。

この道真の失脚事件は,『菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ)として,人形浄瑠璃歌舞伎の演目になっています。
江戸時代の1746年,大坂の竹本座で初演,とくに四段目の『寺子屋』は,子供を殺してその首実検でわが子が身代りになっているのを知る,というなんとも恐ろしげな芝居ですが,独立して上演されることも多く,歌舞伎の代表的な狂言の一つになっています。

この季節の歌はこれにしましょうか。

春よこい相馬御風・作詞 弘田龍太郎・作曲

春よ来い 早く来い
あるき始めた みいちゃんが
赤いはなおの ジョジョはいて
おんもへ出たいと 待っている

春よ来い 早く来い
おうちの前の 桃の木の
つぼみもみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている

相馬御風(1883-1950)は新潟県出身の詩人・歌人・評論家,早稲田大学卒業,早稲田大学校歌『都の西北』の作詞。

弘田龍太郎(1892-1952)は高知生まれ,小学校は千葉,中学は三重,東京音楽学校(現・東京藝術大学)ピアノ科卒業,「赤い鳥」運動に参加,北原白秋と組んで多くの童謡を作曲,代表作は『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『靴が鳴る』など。

ところで,
2月26日は玉筋魚(いかなご)シンコ(稚魚)漁の解禁日で,阪神地区の家庭の多くでは大きな鍋で炊いて,いわゆるイカナゴ釘煮(くぎに)にして食べます。
これは佃煮の一種で,醤油・みりん・砂糖・生姜などを入れて水分がなくなるまで煮込みます。
炊きあがったイカナゴは茶色く曲がっており,錆びた釘に見えることから「釘煮」と呼ばれるようになりました。

このころは,三寒四温といって,3日寒くなって後4日暖かくなるというような変動を繰り返して春になってゆく季節です。

少し暖かくなったからといって油断せずに,あしたの天気予報をよく聞いて(あしたの予報は当たります)衣装の選択を間違えないようにして,元気で本格的な春をお迎えください。

司馬さんの思い出

2月12日は作家・司馬遼太郎さんの命日『菜の花忌』です。
国民的な歴史小説家であった司馬さんが亡くなって19年が経ちます。

改めて司馬(23-96)さんの略歴を記しますと,
本名は福田定一,大阪市の生まれ,筆名は「司馬遷に遼かに及ばない日本の者(太郎)」から来ています。
旧制・大阪外国語学校(新制・大阪外国語大学,現・大阪大学外国学部)蒙古語学科を仮卒業,学徒出陣で戦車隊に配属,栃木県佐野市で終戦を迎えます。

アメリカ軍(連合国軍)が東京に攻撃に来た場合に,栃木から東京に移動して攻撃を行なうという作戦に,
市民と兵士が混乱します。そういった場合どうすればいいのでしょうか」と,大本営からきた少佐参謀に聞いたところ,
轢(ひ)き殺してゆく」と答えたのをきき,軍隊は国民を守るための存在ではなかったのか,と疑問を持った22歳の司馬さんは,
なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう?」
いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」
昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として
22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐しています。

司馬さんの著作はたくさんあって代表作を選ぶのは難しいですが,なんといっても『龍馬がゆく』は間違いなくその一つです。
世間一般でイメージされる坂本龍馬像はこの小説で確立したといってもいいです。

最初,産経新聞の夕刊に連載(62-66)されました。
岩田専太郎(01-74)の艶のある挿絵もよかったし,毎日,学校帰りに読むのが楽しみの一つでした。
文春文庫(全8巻)になったのを再読しましたが,割愛されている部分も多く,やはり新聞の連載小説は読者の興味をつなぎとめるために,濡れ場などサービス・カットもたくさんあったのだと感じました。

菜の花忌』の由来にもなったのは長編小説『菜の花の沖』です。
江戸時代後期の廻船商人の高田屋嘉兵衛を主人公にした小説です。

嘉兵衛(1769-1827)は淡路島の貧家に生まれ,半農半漁をすて,兵庫にでて船乗りになり,苦労して船もちの廻船商人にまでなり,蝦夷・函館まで進出します。ゴローニン事件に巻き込まれ,カムチャツカに連行されますが,町人身分ながら日露交渉の間に立ち,事件解決へ導きました。
鎖国時代に外国へ行ったことは国禁を犯したことになるのですが,そのことは「お構いなし」を申し渡され,難しい国際問題の解決への「骨折り」に対して,幕府から「おほめ」があり,「ほうび」として金5両がさげわたされました。すべて異例のことです。

ゴローニン事件(ゴロヴニン事件とも表記)とは,1811年にロシアの軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン Головнин, Golovnin)が日本に抑留された事件です。
じつはこの前段階で,1807年にフヴォストロフが択捉(エトロフ)や樺太に上陸し,略奪や放火などの襲撃事件を起こしていたのです。

その後,測量目的で千島を訪れていたゴローニンが罪もないのに日本に捕えられたというわけです。

副艦長のリコルドが報復処置として,国後(クナシリ)沖で日本船の観世丸を拿捕(だほ)し,乗っていた高田屋嘉兵衛ゴローニンとの捕虜交換を画策します。

嘉兵衛カムチャツカに連行されてリコルドと同居するうちに,ロシア語も理解するようになり,信頼を得て友人としてもてなされ,ディアナ号で日本に向かう時には,船員たちからもタイショウ(大将)と敬意をもって呼ばれるようになります。

やがてディアナ号は湾口にでたとき,風の中で鳴るようにして帆を開いた。そのとき,リコルド以下すべての乗組員が甲板上に整列し,曳綱(ひきづな)を解いて離れてゆく嘉兵衛に向かい,

ウラァ,タイショウ

と,三度,叫んだ。嘉兵衛は不覚にも顔中が涙でくしゃくしゃになった。
(中略)
臨終のとき,まわりの者に,

ドウカ,タノム。ミンナデ,タイショウ,ウラァ
と喚(おら)んでくれ。

と小さな声でいった。まわりの者は何のことかわからず,不覚にも沈黙で酬(むく)いてしまった。

この小説を読んで以来,この「ウラァ」を生で聴いてみたい,とながらく思っていました。

その思いが実現したのは,
旧・ソ連のある共和国に赴任していたときのこと,あるレストランに入ったとき,10人ほどの団体が壮行会だったのでしょうか,車座で着席していました。
ほどなく,全員が立ち上がり,

ウッラー 〇〇

と三唱したのです。
その叫びは,はらわたの底に沁み渡るような声量と迫力でした。

本場ロシアの合唱を聴いたときに,とても人間の声とは思えないような音域・音量が聞こえることがありますが,声帯の違いとしか言いようのない,地鳴りするような大音声でした。

じつは,わたしの通っているスポーツジムに司馬さんの後輩たちがアルバイトでスタッフとして勤務しています。
「2月12日は何の日?」「さあ,しりません
「菜の花忌ですやん」「ナノハナキて何ですか?」
偉大な大先輩のことをもう少し知ってほしいな,と思いました。
ちなみに,この後輩たちは,ハンガリー語学科,蒙古語学科,デンマーク語学科,ペルシャ語学科の学生たちです。

昭和は遠くなりにけり
20世紀も遠くなりにけり

この季節にピッタリのあまりにも日本的なこの歌はどうでしょうか。

早春賦吉丸一昌・作詞 中田 章・作曲(1913)新作唱歌(三)

春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か

吉丸一昌(1873-1916)作詞家・文学者・教育者,東大卒,東京音楽学校(現・東京藝術大学)教授,大分県出身。

中田 章(1886-1931)作曲家・オルガニスト,東京音楽学校卒,東京音楽学校・教授,東京都出身,中田喜直は三男。

まだ寒い日が続きますが,まちがいなく春はそこまで来ていますから,もう少しの辛抱です。
風邪などひかないように注意して元気にお過ごしください。

灯火親しむの候

秋の夜は涼しく長く,灯火の下で読書するのに適している,そういう時候になりました。
「読書の秋」ともいいますね。

まず古典的な日本文化研究の本を紹介しましょうか。

ルース・ベネディクト著『菊と刀』(原題:The Chrysanthemun and the Sword: Patterns of Japanese Culture)は1946年に出版されました。

ルース・ベネディクト(1887-1948)は米国の女性文化人類学者で,戦時中に,日本へは一度も訪れることなく,日本関連の文献の熟読や日系移民との交流,そして日本映画を見ることのみで,日本文化の研究調査をしたとされています。

もちろん「」は皇室を象徴する花であり,「」は武士の魂として日本人=侍の精神的な支柱とみなされます。

義理などといった日本文化固有の価値を分析し,日本文化を外的な批判を意識する「恥の文化」と決めつけました。

彼女の研究は,戦後の日本に対する占領政策に大いに利用されたと言われています。

先日亡くなった元長崎市長の本島等(92)さんが市長のとき「天皇の戦争責任はあると私は思います」と,自身の軍隊体験なども踏まえ,市議会の答弁で発言されて,賛否の議論をよび,発言に反発した右翼団体幹部に長崎市役所前で銃撃され,重傷を負いましたが,命は取りとめました。

とうぜん,天皇は陸海軍の大元帥として形の上からは日本の最高指導者でしたから,責任がないはずはないのですが,日本国民を統治するために,処分の対象としなかったのは,ベネディクトの研究結果が重要な判断基準になった,と言われています。

しかし,なにをおいても自由な発言を否定するのは,民主主義の基本原理を否定することになります。

つぎは逆に最新の,シンシアリー著『韓国人による沈韓論』扶桑社新書,2014.9.1発行はどうでしょうか。

著者のシンシアリー(SincereLEE,以後「リー氏」)はもちろんペンネームですが,韓国生まれ韓国育ちの生粋の韓国人で,観光以外に外国に行ったことがなく,1970年代の生まれ,というので,40歳前後で,歯科医院をやっているとのことです。
母から日韓併合時代に学んだ日本語を教えられ,子どものころから日本の雑誌やアニメで日本語に親しんで,日本のテレビの録画や雑誌や書籍から,韓国で敵視している日本はどこにも存在しないことを知った,といいます。

英語の ”sincerely” は「誠実に」という意味で,手紙の結びで “Sincerely Yours” あるいは略して “Sincerely” は「敬具」に相当する正式な表現です。

2014年4月16日,韓国フェリー「セウォル(世越)号」が沈没事故を起こしました。
船には,修学旅行の高校生325名,乗組員30人など合計476人が乗っており,事故で,行方不明者を含めて死者が305名という惨事でした。

リー氏は,この事故と韓国社会の構造的問題が酷似している,と言います。
責任感のなさ,法律の機能不全,集団的利己主義などが共通しているそうです。

これは「人災」ではなく「国災」である,と言い切りました。
フェリーには最大積載量の4倍もの貨物が積まれ,過多積載が事故の大きな原因の一つと考えられています。

沈没するセウォル号から真っ先に逃げたのは,船長や航海士など,責任を取るべきに人たちでした。
海運会社の関係者たち,とくにオーナー一族は,召喚に応じず,逃げ出し,姿をくらましまた。

海洋警察や海軍が来ましたが,遅れましたし,対応も下手でした。
もともと韓国では専門家や匠に対する認識が低く,現場には専門知識のある人たち,また現場を指揮できる人がいなかったのです。

すぐに日本の海上保安庁と海上自衛隊が救助を申し入れましたが,韓国は拒否しました。理由は「集団的自衛権の拡大と関連している」と勝手な解釈をしました。

韓国に「責任」という文字がない,誰も責任を取らない社会であるといいます。

セウォル号の違法項目を列挙すると,百貨店サイズになる,といいます。

韓国では,地縁・学縁・血縁が何より大切で,「ウリ(私たち)」と「ナリ(他人)」を鮮明に分けて,区別します。
ウリだけで団結します。

反日」は歴史に根差す問題ではなくて,「反日教」ともいうべき,議論できない感情の人たちで凝り固まっています。

「集団的被害妄想」が蔓延し,「客観性」を受け入れる土壌は培われない,と言います。

リー氏が最も惨憺たる気持ちにおちいったのは,2011年3月11日,日本で東日本大震災が発生したとき,韓国で「韓国バンザイ!」という喜びの叫び声を聞いたのです。
この国は狂っている,と認めざるとえなかった,と述懐しています。

リー氏の「沈韓論」はセウォル号のように韓国は沈没しかけているのにそれを助けるべき船長(指導者)がいないことに,絶望しています。
しかし,彼は逃げ出さずに,沈みゆく船に乗り続けることを選択し,自分のできることを模索しています。

われわれも感情だけのヘイトスピーチ(hate speech,憎悪発言)はやめて,中韓とは主張が異なっても,末永く付き合ってゆかねばなりません。

さて,ここで,松尾芭蕉(1644-1694)の有名な俳句を2句。

物言えば唇寒し秋の風
秋深き隣は何をする人ぞ

つぎは,フランスのヴェルレーヌ(1844-1896)の詩です。
ポール・ヴェルレーヌ落葉上田敏(1874-1916)・訳

秋の日の ヴィオロンの
ためいきの 身にしみて
ひたぶるに うら悲し。

鐘のおとに 胸ふたぎ
色かえて 涙ぐむ
過ぎし日の おもひでや。

げにわれは うらぶれて
こゝかしこ さだめなく
とび散らふ 落葉かな。

日仏の秋の詩を並べてみました。

歌はこの歌にしましょうか。

もずが枯れ木でサトウハチロー・作詞 徳富繁・作曲(1938)

もずが枯れ木で 鳴いている
おいらは藁を たたいてる
綿引き車は おばあさん
コットン 水車も廻ってる

みんな去年と 同じだよ
けんども足んねえ ものがある
あんさの薪割る おとがねえ
バッサリ 薪割るおとがねえ

あんさは満洲へ 行っただよ
鉄砲が涙で 光ってた
もずよ寒いと 泣くがよい
あんさは もっと寒いだろ

とても寂しい歌ですが,戦前につくられました。
このような悲しみは決して今後ないようにしなければなりません。