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年の瀬に楽しむ音楽

年末恒例のコンサートといえば,
ベートーヴェン交響曲第9番』(通常『第九』と略)ですね。

この発端は,
戦後の1940年代後半,オーケストラの収入が少なく,楽団員が年末年始の生活に困る状況を改善するため,演奏参加者が多くて,「必ず客が入る曲目」であった『第九』を日本交響楽団(現NHK交響楽団)が年末に演奏するようになり,それが定例となりました。
1956年に群馬交響楽団が行った群馬での成功が,全国に広まったきっかけとされています。

ズブの素人でも,けっこうみなさん合唱に参加されているようですが,そんなに簡単に歌えるような曲ではありません。
音域が広いし,周りの音は聞き取りにくいし,わたしが参加した公演では,隣の人は大きくハモル長音のところでは,なんど注意しても,いつも3度下を歌っておりました。

第4楽章で,すべての音が止まり,二拍おいて,バリトン歌手が ”O Freunde, nicht diese Töne!”「おお友よ,このような音ではない!」と歌い出しますが,学生時代,ボイストレーニングをお願いしていた先生は,「バリトンの名誉です」とおっしゃっていました。

1964年の東京オリンピックに東西ドイツが統一選手団を送ったときに,国家の代わりに『第九』が歌われました。

1998年の長野オリンピックの開会式では,世界5大陸・6カ国・7カ所で連携しての演奏が試みられました。
これは通信による遅れを調整するため,伴奏となる文化会館での演奏を各地に届けて合唱し,その映像が最終的にオリンピック・スタジアムで同期するように再送されました。

また,
通常のCDの録音時間が約74分であるのは,『第九』が1枚のCDに収まるように決められた,という説があります。
初演時の演奏時間は63分とされ,現代では70分前後が主流です。

ヨーロッパでは,
年末年始にオペレッタ(Operatte,喜歌劇)を楽しむ習慣があります。

オペレッタがオペラと違うところは,美男・美女が登場することでしょうか。
たとえば,ヴェルディ椿姫』の初演で歴史的な大失敗(蝶々夫人カルメンと共にオペラ3大失敗といわれる)をきっしますが,その原因の一つが,ヒロインのヴィオレッタが肺結核で死ぬことになっていますが,その歌手が肥満体だっため,「その体で肺結核はないやろ」と非難されたといいます。

年末には,シュトラウスⅡの『こうもり』が,年始にはレハールの『メリー・ウィドウ』が公演されるのが恒例となっています。

ヨハン・シュトラウスⅡ作曲『こうもり』(1874)の内容は,
金持ちの銀行家アイゼンシュタイン男爵は,役人を殴った罪で8日間の禁固刑になり,明朝6時には刑務所に投獄される前夜,友人のファルケ博士に誘われて「仮面舞踏会」に出かけ,そこでハンガリーの伯爵夫人に変装した妻ロザリンデに会い,妻とは気が付かず口説きだします。
ハンガリーの伯爵夫人であることを疑われれたロザリンデはハンガリー民族音楽「チャルダッシュ(csárdas)」を歌います。
刑務所長フランク,舞踏会の主宰者のロシア貴族オルロフスキー公爵,音楽教師でロザリンデの昔の恋人アルフレード,ロザリンデの小間使いアデーレなどが登場して,にぎやかに終わります。

わたしがこの作品に特別な思い入れがあるのは,
指揮の練習曲として「こうもり」序曲と「チャルダッシュ」を振った経験があるからです。

とくに「チャルダッシュ」では,全日本学生音楽コンクール2010年の声楽部門の大学・一般の部で1位になられた林佑子さんにこの歌を歌ってもらいました。
容姿端麗で美声のさんには将来さらに活躍されることを期待しています。

この「こうもり」序曲は,フィギュアスケートの鈴木明子選手がご自身も好きということで,ソチ・オリンピックのフリー・プログラムで使いましたが,途中でウィンナ・ワルツも挟まっていて,同調するのがとても難しい曲です。

そういえば,今年末突然引退を表明した男子フィギュアスケートの町田樹(たつき)選手は『第九』をフリーに使っていました。
これは「こうもり」以上に同調するのが至難の曲です。
そんなところが「氷上の哲学者」と言われる由縁でしょうか。

年始には,フランツ・レハール作曲『メリー・ウィドウ』原題 “Die lustige Witwe”「陽気な未亡人」(1905)ですが,
舞台はパリ,ポンテヴェドロ(仮想の小国)公使館では,公使のツェータ男爵が悩みを抱えていました。それは,老富豪と結婚後わずか8日で未亡人となったハンナが,パリに居住を移したことで,もしハンナがパリの男と結婚したら,莫大な遺産が母国ポンテヴェドロから失われることとなり,国の存亡に関わるのです。
公使館の書記官ダニロを彼女と結婚させて,遺産が他国に流出するのを食い止めようとします。
実はダニロは,ハンナと過去に愛し合っていた仲でしたが,身分の違いから,結婚できなかったという経緯がありました。彼は,大金持ちとなったハンナに,いまさら結婚したいと言い出せませんし,ハンナとしても意地があるわけで,素直になることはできません。
もちろん,いろいろな恋の駆け引きがあって,最後はめでたしめでたし,となるのですが,なにしろにぎやかで,途中にオッフェンバックの「天国と地獄」 が出てきたり,「ヴィリアの歌」とか「メリー・ウィドウ・ワルツ」の馴染みのある美しいメロディーで終わります。

さらに,大みそかには,
ジルベスター・コンサート」が開催されます。ジルベスターとはドイツ語で大晦日(Silvester,「聖ジルベスターの日」)の意味です。

日本でも生放送されていて,12月31日から演奏を開始して,1月1日の午前0時0分0秒ちょうどに演奏を完了するのを見世物にしています。

これは指揮者としての職人芸の腕を見せつける瞬間で,0時0分0秒ピッタリに曲を終了させて,同時に花火が打ちあがり,紙吹雪が舞って「新年,明けましておめでとうございます」となるのです。

2011-12年は,ラヴェルの「ボレロ」でした。
指揮者は大阪出身で女優と結婚歴(06-10)のある若手でしたが約5秒前に曲は終了してしまい,無音の恐怖の静寂状態がつづくなか,年マタギのときに,紙吹雪のみが虚しく舞いました。

2012,2013年は見事無事にすんで司会の女子アナは感涙にむせびました。
さて,今年は何が起こるのか,お楽しみにご覧ください。
曲目はシベリウスの『フィンランディア』です。

今年最後の曲は,『メリー・ウィドウ・ワルツ』にしましょうか。

(Danilo)
Lippen schweigen, ‘sflüstern Geigen: Hab’ mich lieb!
All’ die Schritte sagen bitte, hab’ mich lieb!
Jeder Druck der Hände deutlich mir’s beschrieb
Er sagt klar, ‘sist wahr, ‘sist wahr, du hast mich lieb!

(Hanna)
Bei jedem Walzerschritt Tanzt auch die Seele mit
Da hüpft das Herzchen klein es klopft und pocht:
Sei mein! Sei mein!
Und der Mund er spricht kein Wort,
doch tönt es fort und immerfort:
Ich hab dich ja so lieb, Ich hab dich lieb!

(Danilo, Hanna)
Jeder Druck der Hände deutlich mir’s beschrieb
Er sagt klar: ‘sist wahr, ‘sist wahr, du hast mich lieb!

(ダニロ)
唇はとざされて ヴァイオリンはささやく
「私を愛して」 と
ワルツのステップよ 言っておくれ
「私を愛して」 と
手を握りあうたび はっきりわかる
あなたの手は告げている
ほんとうに ほんとうに あなたは私を愛している

(ハンナ)
ステップを踏むたび 心も踊る
鼓動が高鳴る
「私のものになって 私のものになって」 と
唇は何も言わないけれど 耳には響く
「本当にあなたを愛している あなたを愛してる」

(ふたりで)
手を握りあうたび はっきりわかる
あなたの手は告げている
ほんとうに ほんとうに あなたは私を愛している

来年こそ良い年になりますように願っています。
お元気で良いお年をお迎えください。

落語とわたしと

まず,
桂米朝さんの著書『落語と私』ポプラ社(75)文春文庫(86)とは全くの別物なのでお間違いなく。

米朝さんのこの本は,中学生・高校生を対象にして,若い人向きに,といいながら,落語の歴史から,落語の基本,寄席にいたるまで,ていねいに解説されている名著です。

わたしの落語との出会いは,ラジオで,なぜかお気に入りは,三遊亭金馬(1894-1964)で,現在の金馬はまだ小金馬(1929-)と名のり,NHKの公開バラエティコメディ番組『お笑い三人組』ラジオ(55-60)TV(56-66)で江戸家猫八(1921-2001),一龍齋貞鳳(1926-)らと共演していた頃です。

金馬さんをヒイキにした理由は,野太い「熊五郎」から艶のある「おかみさん」そしてけなげな「こども」にいたるまで,声づかいが明瞭で子供ごころにも分りやすかったから,と思います。
のちに,金馬さんが禿頭で乱杭歯なのを知り,びっくりしたのを覚えています。

わたしが桂米朝さんを知ったのは最初ラジオで朝日放送の専属(1958-)だったころだと思います

大阪の演芸場・千日劇場からの中継録画による演芸番組『お笑いとんち袋』(65-67)では大喜利の司会をされていました。
小咄・謎かけ・川柳などを,複数の回答者が即興で回答するというもので,そこで異才をはなっていたのが,当時の小米(のちの枝雀)でした。いつも大ボケをして罰として顔に墨を塗られていました。

TVのワイドショー・トーク番組『ハイ!土曜日です』(66-82)では,共演者のSF作家・小松左京,西洋史の京大・会田雄次,薬師寺住職・高田好胤などを相手に,打打発止の司会をつとめました。

じつは,わたしが生の落語を聞いたのはそれほど古いことではありません。
池田市民文化会館の創立5周年記念として,大ホールで『米朝・圓楽二人会』が1980年4月に開催されました。
そのとき,米朝さんいわく「場所柄『池田の猪買い(ししかい)』をやってくれと言われまして」と。
噺の内容は,大阪の丼池(どぶいけ)から猪(しし)の肉を求めて池田の山猟師の六太夫さんを訪ねて行く,というものですが,とても面白かったです。
共演者の先代・圓楽さんは「星の王子さま」と名のっていた人ですが,何を公演したのか,まったく記憶にありません。

それ以降,落語にいささかはまりました。
当時,落語の定席はありませんでしたから,米朝さんがはじめられたいわゆる「ホール落語」を求めて,いろんな地方の公立の会館での公演をさがし,遠くは,大阪から70km以上離れた兵庫県加古川市まで足をのばしたりしました。

もっとも良い会場は朝日生命ホールで,御堂筋ぞいの淀屋橋と本町の間にありますが,席数が400名足らずなので,肉声で落語が聴けることです。いまでも落語の聖地とされているようです。

1972年からは毎年,正月と夏にサンケイホールで独演会をやるのが恒例になっていて,よく聴きに行きました。

わたしの好きなネタは,『百年目』『はてなの茶碗』『持参金』などたくさんありますが,掘起し再構築した長編『地獄八景亡者戯れ』,自作の『一文笛』など,面白いネタにことかきません。

いまさらですが,
米朝(1925.11.6-)さんの歴史を振返ると,本名は中川清,満洲の大連で生まれ,姫路市の出身,大東文化学院に進学中,正岡容(いるる,04-58)に入門,弟弟子に小沢昭一加藤武などがいます。
師・正岡の「伝統ある上方落語は消滅の危機にある,復興に命をかけろ」との言葉を受け,1947年に桂米團治に入門し,「3代目桂米朝」を名のりますが,1951年に米團治は55歳で死去してしまいます。

それ以後,衰微をきたしていた上方落語を,上方落語四天王といわれた6代目笑福亭松鶴,3代目桂小文枝(後の5代目文枝),3代目桂春団治らと共に復興に尽力しました。

とくに米朝さんの功績は,一度滅んだ噺を文献から発掘したり,落語界の古老から聴き取り調査をして多数復活させていことです。

その成果は,つぎの2冊の著書にくわしいです。
米朝落語全集』単行本,全7巻,創元社,1980.1-1982.1
上方落語 桂米朝コレクション』文庫,全8巻,筑摩書房,2002.9-2003.7

1995年に柳家小さん(1915-2002)が,いきなり重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され,周辺も本人も「なぜ?」と,文楽,志ん生,円生などの名人上手と言われた人たちでも認定されなかったのに,とざわめきました。

翌1996年に,米朝さんが人間国宝に認定され,いかにも日本の役所らしいやり方をみんなが納得しました。

2009年には,演芸人としては初の文化勲章を受章されました。

このように名実ともに落語家として最大級の評価を受けた米朝さんですが,唯一の無念があるとしたら,後継を託すべき,有能な弟子を二人まで,亡くしてしまったことではないでしょうか。

その第一は桂枝雀(1939-1999)です。
本名は前田達(とおる)で,神戸市で生まれ,伊丹市の出身,父の死去により家庭は貧しく,神戸大学文学部に入学後1年で退学して,1961年に米朝に入門,小米(こよね)を名のり,1973年に枝雀を襲名します。
枝雀襲名後,芸風を大幅に変え,オーバーアクションで大爆笑をとり,独演会はいつも満席になりました。

TVのバラエティ番組『浪花なんでも三枝と枝雀』(82.4-85.12)というのがありまして,その縁で『枝雀・三枝二人会』を開催しました。
当時の三枝(現6代文枝)は,まだ古典をやっていたのですが,マクラではTVのような笑いがとれるのに,本ネタになると,ピタッと笑いが消えるのです。
芸の力というものは,残酷なものですね。誰にでもわかるんです,良し悪しが。
三枝本人が一番それに気づいたのでしょう。
その時以来,古典はキッパリとあきらめ,「創作落語」と称する「新作落語」の道に進むのです。

枝雀の演じるわたしの好きなネタは,『宿替え』『高津の富』『不動坊』など,それこそたくさんあります。

朝日生命ホールでの独演会など,演者と客席が一つになり,同じ呼吸をして,演者につられて,客の体が前後に動くような一体感がありました。

わがまち池田でも,市民文化会館小ホールで,枝雀寄席が1月の恒例となり,1981から1998まで続きました。

ほとんど最後のほうと思われる公演を聴きましたが,体調不良とは聞いていましたが,余りにも生気がなかったのを心配しましたが,直後,自殺で亡くなるという訃報を聞いて驚きました。
享年59歳でした。
とても残念でした。

そのつぎは桂吉朝(1954-2005)です。
1974年に米朝に入門し,本格的な正統の上方落語を継承するものとして期待されましたが,胃がんでわずか50歳で死去しました。
時うどん』を,江戸の『時そば』風に粋に話していたのが,思い出されます。

今はその弟子の桂吉弥(1971-)が大活躍中ですが,もう少し仕事量を整理した方が良いのでは,と心配します。

上方落語協会としての不幸は,6代目松鶴が1986年に亡くなった後,米朝さんに会長を任せなかったことです。
当然,会長職は米朝さんが引き継ぐものと思われていたのに,松鶴一門の猛反対で,実現しませんでした。
その後,小文枝春団治も会長を歴任していますから,一番の功労者を会長に据えなかったのは全く不可解で,協会の汚点といってもいいでしょう。

その影響もあって,枝雀一門はいまだに協会を脱退したままです。

上方落語協会としては長年の悲願であった落語の定席「天満天神繁昌亭」(2006年開席)を設立しましたが,枝雀一門は孫弟子までも出演できません。

時節がら,誰もが知っているこの歌『Holy Night(聖夜,きよしこの夜)』にしましょうか。

Holy Nightきよしこの夜)』
・作詞:Josef Mohr,作曲:Franz Gruber(1818)
(讃美歌 第109番)

Silent night, Holy night
All is calm, all is bright
Round you virgin mother and Child
Holy Infant, so tender and mild,
Sleep in heavenly peace,
Sleep in heavenly peace.

きよし このよる
ほしは ひかり
すくいの みこは
まぶねの なかに
ねむり たもう
いと やすく

 いかがですか,心が洗われる思いがするでしょう。
クリスマスとはキリストの降誕祭です。
1年に1度くらいは神聖な気持ちで過ごすのもよいのではありませんか。

また落語に話を戻して,いささか蛇足ぎみに,
たった1人で行なう,この伝統芸能は,かなり難しく,枝雀さんのようにネタクリと呼ばれる稽古を怠らないようにしないと,滑らかに口がまわりません。
たとえば,寿限無などの長セリフを「立て板に水」のように息もつかないで言い切らないと,臨場感が出ません。

あの米朝さんでさえ,2002年,東京・歌舞伎座での『百年目』の公演を最後に,人前で落語をやっていません。
あのとき,旦那が長々と番頭相手に語り掛けるセリフの1部が抜けました,なんとか元へ戻って,話の終結は付けましたが,「一生の不覚,大恥をかいた」とご本人もへこみました。

息子の小米朝が2008年に5代目桂米團治を襲名するとき,その襲名披露公演で,大胆にもこの大ネタ『百年目』をやりました。
不思議なものですね,おなじセリフをしゃべっているのに,旦那にも大番頭にも見えないんですね。
思わずツッコミを入れました,「キミには百年早い!」と。

最近,落語家たちも,趣味の多い人たちが増えてきて,サックスを吹いたり,クラッシク音楽の司会をしたり,飛行機を操縦したりする人たちがいます。
芸というものは正直なものですね。
昔から,「練習はウソをつかない」と言いますが,稽古量の差が出るんです。
「天才」と言われた枝雀さんでさえ,趣味が落語というくらい,落語一筋でした。
「凡人」のその他の芸人たちが追いつけるはずがありません。

落語は奥が深いのです。
最近は落語を聴きに行かなくなりました。

笑うかどには

笑う門(かど)には福来(きた)る」とは言い古された言葉ですが,じっさい,笑うことが健康に寄与することは実証されています。

がん細胞やウイルスなど,体に悪影響を及ぼす物質を退治しているのがナチュラル・キラー(NK)細胞です。その働きが活発だとがんや感染症にかかりにくくなると言われています。

笑うと,免疫のコントロール機能をつかさどっている間脳に興奮が伝わり,神経ペプチドが活発に生産され,NK細胞を活性化し,病気のもとを次々に攻撃するので,免疫力が高まるというわけです。

笑いによって免疫力が向上するだけでなく,脳の活性化血行促進自律神経のバランスが整い,筋力がアップし,幸福感をもたらし,モルヒネの数倍の鎮痛作用で痛みを軽減します。

このように万能の特効薬のような「笑い」を積極的に活用しない手はありません。

お笑いは,落語,漫才,そして喜劇(コメディ)に分類されるのでしょうか。

しかし,最近のTVのお笑い番組はひどいですね。
ひな壇というのですか,出演者がズラーッと席を並べて,司会者が話を振って,それぞれが適当にしゃべる,というほとんど似かよった画一的な番組ばかりじゃないですか。
その場しのぎに小手先の機転をきかせてくすぐるだけなので,爆笑はありませんし,「すべる」と称する場違いな応対を「受けない」と嘲笑して終わる,というような低レベルの笑いを薄利多売しています。

こんな番組に重宝されるのは小器用な才気ばしったタレントで,アジのある芸人は登場しませんし,そこから面白い芸人は育ちません。
けっきょく,次々に芸人を使い捨てするだけなんでしょうね。

パンクブーブー」という2009年にM-1グランプリを取ったコンビは「しゃべってみて受けたネタだけをつなげていけばいいんですから,漫才は楽です」と言っていましたが,それこそがネタを練り上げて上質化していく方法なんです。
彼らは上記のようなトーク番組にはあまり出ません。

ブラックマヨネーズ」「チュートリアル」「フットボールアワー」「銀シャリ」など才能を期待された若手の漫才師たちも,本業を磨かずに,器用さだけを求められて,大きく成長できていません。
だいたい,いま彼らはまじめに漫才をやっているんですか。

そして具合の悪いことに,これらの中途半端な芸人でも,人気だけが先行して出てしまうことです。

昔は厳然として存在した,舞台役者・映画俳優・歌手そして芸人の間にあった仕切りが低くなってきました。
ハッキリ言うとお笑い芸人が非常にモテるらしいのです。
それが目的で,芸人になりたい若者たちが急増してきています。

かれら若手お笑い芸人(50歳以下)に望みたいことが二つあります。

一つは,外と内を区別してもらいたい,ということです。
「外」とは,舞台上であり客前ということで,「内」とは楽屋や交友関係の内ということです。

大した経験もない若手が,少し後輩というだけの相手に,偉そうに大きな口をきかれると,そんな話は楽屋でしてくれ,という気になります。
「弱い犬ほどよく吠える」といいますが,相当の経験者でも,楽屋での優劣関係を,客前で見せられるほど,興ざめのものはありません。

もう一つは,「ツッコミ」と称して相手の頭を叩くことです。
これだけは何としても止めてもらいたいです。

いつ頃からでしょうか,相方を叩くようになったのは。

私の記憶では,
捨丸・春代(23-71)の萬歳で,ボケた砂川捨丸(1890-1971)の頭を中村春代(1897-1975)がツッコミとしてハリセン(紙を蛇腹状に折った扇子のようなもの)で叩いて落とす,という古い形がありました。

チャンバラトリオ〈かしら〉南方英二,〈リーダー〉山根伸介,伊吹太郎<結成時メンバー>〕(1963-)は大きなハリセンで,顔面を直撃することを「落ち」にしていました。

漫才ブーム(1980-1982)のころ,
やすし・きよし(66-89)の漫才で,ボケた横山やすし(44-96)を西川きよし(1946-)が何度も激しく叩く,のが気になっていました。
普段はアウトローの乱暴者で知られるやすしが,舞台上では逆に常識人のきよしから叩かれるのに違和感がありました。

ダウンタウン(82-)では,浜田雅功(1963-)は相方の松本人志(1963-)のみならず,出演者まで叩いたり,タメ口でどなったりするのが習わしになっています。

そもそも,現在のような「しゃべくり漫才」を確立したのは,
エンタツ・アチャコ(30-34)ですが,
横山エンタツ(1896-1971)を吉本興業が引き抜く際,エンタツ側から,当時すでに他の人とコンビを組んで人気が出ていた花菱アチャコ(1897-1974)と組むことを求められてコンビが実現しましたが,実際の活動は戦前で,しかも期間は4年と短いです。
背広を着てネクタイを締めて,「きみ」と「ぼく」という丁寧な言葉づかいで,歴史に残る「早慶戦」などを生み出しました。

戦後,アチャコはラジオ番組「アチャコ青春手帖」「お父さんはお人好し」で人気をはくし,大らかな性格から,東西を問わず,後輩たちから慕われました。

いっぽう,エンタツは気難しいところもあって晩年は不遇でした。
1963年にNHKの生番組で久しぶりに共演し,たまたまその番組を見ていたのですが,お互いにこやかに穏やかな雰囲気で談笑していたのですが,じつは番組終了後,長年の確執や行き違いを超えて,手を取り合って,二人とも号泣して再会を喜んだ,といいます。

これが,本物のプロ同士の外と内の使い分けなのです。
現在なら,人前で涙を見せて同情をさそう,ようなことを平気でやるんではないですか。

その「しゃべくり漫才」を完成させたのが,
ダイマル・ラケット(41-82)の兄弟コンビです。
中田ダイマル(13-82)の絶妙なボケと中田ラケット(20-97)の落ち着いたツッコミで,常に爆笑をとり爆笑王と言われました。
コメディ出演も多く,TV番組「ダイラケのびっくり捕り物帖」(57-60)では,藤田まこと(1933-2010)のデビュー作となり,森光子(1920-2012)の出世作ともなりました。
つづく「スチャラカ社員」(61-67)では,社長役でミヤコ蝶々(1920-2000)も出演しています。

ダイラケとほぼ同時期に同じ兄弟コンビとして活躍したのが,
いとし・こいし(1937-2003)です。
子供時代からコンビを組み,戦後,漫才作家の秋田實(05-77)に師事し,夢路いとし(1925-2003)喜味こいし(1927-2011)として長年,上質な笑いを提供し続けました。

古いものを打ちこわし,新しいものを創成するのが芸術家の仕事ですが,大先輩にもタメ口で接するのが手っ取り早く親しくなるコツかもしれませんが,浜田クンよ,そろそろ,もう少しやり方を考えた方が良いのではありませんか。

落語と喜劇の話は別の機会にしましょうか。

さて,
ウォルトディズニー(Walt Disney,01-66)は長編アニメーションの第1作「白雪姫」(1937)で大当たりをとり,第2作として「ピノキオ」(1940)を創ります。
時計職人のゼペット爺さんは人形ピノキオを作りますが,「自分の子供だったら」と星に願いをかけます。


星に願いをWhen You Wish upon a Star(1940)
ネッド・ワシントン(Ned Washington)作詞
リー・ハーライン(Leigh Harline)作曲

When you wish upon a star
Makes no diff’rence who you are
Anything your heart desires
Will come to you

If your heart is in your dream
No request is too extreme
When you wish upon a star
As dreamers do

Fate is kind
She brings to those who love
The sweet fulfillment of
Their secret longing

Like a bolt out of the blue
Fate steps in and sees you thru 
When you wish upon a star
Your dream comes true

星に願いをかけるとき
誰であろうと違いはないのです
心からの願いなら
何でもかなえられるでしょう

心に夢があるのなら
大きすぎる願いなどないのです
星に願いをかけるとき
夢みる人がするように

運命の女神は情け深く
愛する心を持つ人には
やさしくかなえてくれるのです
その心に秘めた願いを

晴天の霹靂(へきれき)のように
運命の女神は立ち現われて 助けてくれるのです
星に願いをかけるとき
あなたの夢はかなうのです

わたしにもささやかで大きな願いがあります。
平和で,自由にものが言えて,安心して暮らせる世の中になってほしい,と心から思います。

選挙は国民に与えられた大きな権利です。
将来のことをよく考えて有効に行使しましょう。

食通の時代?

食欲の秋」とは,秋は旬の食材が多く食欲が大いにそそられ,食べる楽しみこそが秋の醍醐味だ,というような言葉で,「味覚の秋」とも言います。 

フランス語のグルメ(gourmet)は「食通」の意味で,グルマン(gourmand)は「健啖家・大食漢」のことです。

最近,テレビでも自称「食通」の人たちが大勢登場して,何が美味しい,だとか,ここがお勧めとか,いささか,それこそ食傷気味です。

ミシュラン(Michelin)はフランスのタイヤ・メーカーで,世界で初めてラジアルタイヤを製品化し,2005年にブリヂストンに抜かれるまで世界最大のタイヤ・メーカーでした。

そのミシュランがタイヤの売り上げを伸ばすために,道路地図旅行ガイドブック(グリーン・ミシュラン)そしてレストラン・ホテルガイドブック(レッド・ミシュラン)をつくり,評価を星の数で格付けして,いまや世界で年間100万部を発行しています。

そのミシュランガイドも近年ヨーロッパでは影響力が低下してきて,新しい市場としてアメリカや日本で積極的に展開してきています。

現在,日本では,「東京・横浜・湘南」編と「関西」編の2種類が発行されています。

三ツ星レストランともなれば,1人で数万円は下らないので,庶民が気軽に行けるような店ではありません。

かたや日本は大阪が生んだ回転寿司は,安くて早くて,それこそ手軽に利用できる庶民の店です。

先日,昼食時にあるチェーン店に入りました。店は混んでいて,私の隣にお腹のせり出した中高年の男性があとから座りました。すると10分もしないうちに,勘定するではありませんか。見るとはなしに見ると,なんと既に11皿が積み上がっているではありませんか!
ちょっとちょっと!あまりに早食いで食い過ぎです!

早食いをすると,満腹中枢が刺激されて食欲にブレーキがかかる前に,食べ過ぎてしまいます。血糖値が急上昇し,インスリンが糖を脂肪に変えるため,それがカラダに蓄積し,肥満を加速させます。

やはり食事は頭でしなければなりません。
人体に必要な栄養源はすべて口から入ります。
バランスの良い食事をするのが健康の基本です。

つぎは食べ方の問題です。

ある日本人が英国に留学していて,親しいイギリス人と食事を共にしているとき,その人は食べやすいようにと,ステーキを先にナイフで刻んで,右手にフォークを持ち替えて食べていました。
すると友人のイギリス人は「そんなアメリカ人のような下品な食べ方はイギリスではやめた方が良い」と忠告してくれた,というのです。

そのイギリス人も一目置くのが,グルメの国フランスです。

そのフランス人たちと数か月間毎日一緒に昼食をする機会がありました
職場のレストランでの昼食とはいえ,かなりたくさんのバリエーションがあり,デザートまで注文できました。
フランス人たちは食事を楽しむんですね。
毎日同じ人と顔を合わせながら,なにをこんなに話すことがあるのだろうと思うくらい,よくしゃべります。
ところが,そんなにしゃべりながら,食事はドンドン片付いていくのです。
しかし,口から,食べ物が見えたりは決してしません。
いつ飲み込んでいるんだろうと不思議に思いました。
なにせ,食事だけに集中している私がいつも食べ遅れるのです。
フォークやナイフの使い方もみんな上手で,格好よかったですね。

一つはっきりしていることは,彼らは料理をかなり細かく切って小片にして口に入れます。だから,早く呑み込めるし,口の周りも汚れないし,第一,食べ方が上品に見えます。

TV番組を見ていても,みなさん切り方が大きいですね。
大きく口をあけてパクリと入れて,長いことモグモグと咀嚼していますね。
うどんやソバの影響で,パスタなど思わず音をたてて吸込んでしまうことがありますが,西洋では完璧なマナー違反です。

日本人なら,まずは箸の持ち方使い方でしょうか。
よくグルメ番組に出てくる中高年のタレントで,押し出しの良い人がいますが,箸の持ち方がへんで,コメントに説得力がなくなります。
日本人の基本的な教養として箸ぐらいはちゃんと使えるようにしましょう。

だいたいが,美味いものばかりを外食していると,健康に良くないことが多いです。
健康食を売り物にしている店を除いて,おいしいものを作るのに,それが身体に良いかどうかなど,考慮の外です。

TV番組などで,料理を評価するのに,「おいしい!」「やわらかい!」「ジューシー!」の三つが,語彙の貧弱なタレントの決まり文句のようです。

がいして,柔らかいものばかりを食べていると,余り噛まないので,唾液が十分に分泌されず,内臓の消化吸収に負担をかけ,また口内に雑菌が増えて虫歯歯肉炎になりやすくなります。

よく噛むことで,脳内に流れる血流量が増え,脳が刺激されます。

日本古来の,雑穀・いも類・根菜類・乾物などの硬い食材をしっかりとって,よく噛んで食事することが健康につながります。

これらこそが,ユネスコ無形文化遺産にも登録された「和食 日本人の伝統的な食文化」の原点です。

食欲の秋には,こんな楽しい歌はどうでしょうか。

おなかのへるうた阪田寛夫・作詞 大中恩・作曲(1964)

どうしておなかがへるのかな
けんかをするとへるのかな
なかよししててもへるもんな
かあちゃん かあちゃん
おなかとせなかがくっつくぞ

どうしておなかがへるのかな
おやつをたべないとへるのかな
いくらたべてもへるもんな
かあちゃん かあちゃん
おなかとせなかかくっつくぞ

阪田寛夫(1925-2005)さんは大阪市生まれの詩人・小説家・児童文学作家,元宝塚歌劇団の花組男役トップスターの大浦みずきは次女,大中恩は従兄弟です。東京帝国大学文学部卒。代表作は,小説『土の器』芥川賞,子供の歌『サッちゃん』など多数。

大中恩(1924-)さんは東京生まれの作曲家,父は『椰子の実』の作曲者の大中寅二です。東京音楽学校(現東京藝術大学)作曲科卒。代表作は「いぬのおまわりさん」「サッちゃん」など子供の歌,合唱曲など多数。

お腹の減ったときに食べる食事が一番おいしい料理となります。
そうすると,料理をおいしく頂くためには,適当な運動をするとその後の食事がおいしくなりますね。
だから「スポーツの秋」は「食欲の秋」につながります。

ただし,食間が空きすぎて,お腹が減りすぎると,身体の免疫力が低下すると言われていますから,あまり長時間空腹でいることは避けましょう。

バランスの良い旬の食材をつかった歯ごたえのある,塩分控えめの日本の伝統的な料理を控えめに取ることが健康に良いですね。

みなさんも良く考えて食欲の秋を満喫してください。

映像芸術の世界

芸術の秋」といいますが,そもそも,芸術とはなんですか?

表現者あるいは表現物と,鑑賞者が相互に作用しあうことなどで,精神的・感覚的な変動をえようとする活動です。

文芸(言語芸術),美術(造形芸術),音楽(音響芸術),演劇・映画(総合芸術)などを指します。

そのなかでも,もっとも大衆的な芸術は,映画といってもいいのではないでしょうか。

古来からの芸術である絵画・彫刻・音楽・文学・舞踏・建築・演劇に肩をならべる新たな芸術として「第八芸術」ないし,舞踏と演劇を区別せずに「第七芸術」とも呼ばれます。
そういえば第七藝術劇場(大阪市淀川区十三)という映画館がありました。

映画は古くは活動写真,戦前はキネマとも呼ばれており,シネマ(cinémaはフランス語で映画の意味ですが,アメリカではアート作品は「シネマ」,娯楽作品は「ムービー」と区別することがあります。

先日,アニメの宮崎駿(はやお,1941-)監督がアカデミー賞名誉賞を受賞しました。

日本人の最初は,1990年の黒澤明(1910-1998)監督でした。
外国でも多くの監督に影響を与え,とくにフランシス・フォード・コッポラ,ジョージ・ルーカス,スティーブン・スピルバーグなどは大いに刺激を受け,映画作りの参考にしました。

黒澤作品はいろいろありますが,代表作はなんといっても『七人の侍』1954年ではないでしょうか。

戦国時代末期(具体的には1586年),野武士の略奪により困窮した百姓に雇われる形で集まった七人の侍が,身分差による不和を乗り越えながら協力して野武士の一団と戦う物語です。

配役は,
智将・勘兵衛         (志村 喬
腕はたつが素性の良くない菊千代三船敏郎
勘兵衛の相棒で補佐役・七郎次 (加東大介
剣の達人・久蔵        (宮口精二
剽軽な薪割り名人・平八    (千秋 実
勘兵衛に惹かれた五郎兵衛   (稲葉義男
村娘とできてしまう若侍・勝四郎木村 功

それぞれの役どころに個性があって魅力的でした。
後に大きな影響力を残すだけあって,西部劇のようなダイナミックなシーンも多く,しかし,それだけではなく,味方同士の武士と農民との葛藤など,心理的な交錯もある,見ごたえのある作品です。
しかし,なにしろ上映時間が3時間半という超大作です。こころして劇場で見ることをお勧めします。

この「七人の侍」をアメリカでリメイクしたのが『荒野の七人』(原題:The Magnificent Seven)1960年です。

舞台を西部開拓時代のメキシコに移して描きました。

配役は,
リーダー格のクリス   ユル・ブリンナー(勘兵衛)
サブリーダー格のヴィン スティーブ・マックイーン(五郎兵衛と七郎次)
最年少のチコ   ホルスト・ブッフホルツ(菊千代と勝四郎)
子供に慕われるベルナルド チャールズ・ブロンソン(平八)
ナイフ投げ達人のブリット ジェームズ・コバーン(久蔵)
山師のハリー     ブラッド・デクスター(一部は七郎次)
凄腕の賞金稼ぎのリー ロバート・ヴォーン(菊千代に近いか)

ユル・ブリンナー(1920-1985)だけは『王様と私』で既に有名な俳優でしたが,ほかの出演者はテレビ俳優といってもよい,まだ売れていない若手の人たちでした。この映画をきっかけに,ほとんどの出演者たちが大スターになっていきました。

スティーブ・マックイーン(1930-1980)はTVドラマ『拳銃無宿』で改造ショットガンをつかう愛嬌のある賞金稼ぎ役でした。
その後,『大脱走』,『ブリット』,『タワーリング・インフェルノ』などに主演しましたが,若くして亡くなりました。

チャールズ・ブロンソン(1921-2003)はTVドラマ『カメラマン・コバック』で肉体派として主演しました。
その後,『レッド・サン』,『さらば友よ』などに男臭い役で主演し,日本の男性化粧品マンダムのCMでも有名になりました。

ロバート・ヴォーン(1932-)はTVドラマ『0011ナポレオン・ソロ』のソロ役で活躍しました。

ジェームズ・コバーン(1928-2002)は長身で痩身でしたが,悪役や個性的なアクション俳優として出演しました。
その後,『電撃フリントGO!GO作戦』などにタフガイ役で主演しました。

ホルスト・ブッフホルツ(1933-2003)はドイツ生まれの国際派俳優でした。

この『荒野の七人』はじつに第4作まで作られました。
しかし,しょせんリメイク作品は,本家の作品には及びませんでした。

秋も深まってきましたが,外国の歌に日本の訳詞で有名なこの曲にしましょうか。

旅愁犬童球渓(いんどう・きゅうけい)・訳詞 オードウェイ(アメリカ)・作曲 「中等教育唱歌集」1907.8
(原曲:Dreaming of Home and Mother)

更け行く秋の夜 旅の空の
わびしき思いに ひとりなやむ
恋しやふるさと なつかし父母
夢路にたどるは 故郷(さと)の家路
更け行く秋の夜 旅の空の
わびしき思いに ひとりなやむ

窓うつ嵐に 夢もやぶれ
遥(はる)けき彼方(かなた)に 心まよう
恋しやふるさと なつかし父母
思いに浮ぶは 杜(もり)のこずえ
窓うつ嵐に 夢もやぶれ
遥けき彼方に 心まよう

 日本語の訳詞で有名な曲はいろいろありますが,昔の詩なので言葉がむずかしいきらいはありますが,歌い続けて残しておきたい名曲です。

閑話休題,
ここにきて安倍内閣は唐突に衆議院を解散しました。
投票日は12月14日,赤穂浪士の討ち入りの日です。

大義名分のない解散といわれています。
支持率の落ちないうちに解散して長期政権への足場固めをしようとする狙いらしいのです。

約束違反は,
国民に消費税を上げるという痛みを与えるのなら,政治家も痛みを分かち合って,国民の権利を平等にする定数是正と,ずさんな使用の多い政治資金の減額を,やると断言しながら,やりませんでした。

忘れてはならないのは,
集団的自衛権の行使」,「特定秘密保護法」,「原発再稼動」の問題は,国として大きな政治的な争点です。

総理当人は,「アベノミクス解散」などと問題点をそらしていますが,選挙で勝ちさえすれば,すべてがチャラになるという,都合のよい「総理救済リセット解散」とでも呼んだ方がピッタリときます。

みなさんも,ごま化されることなく,年末ですが,投票場に足を運んで,しっかりとした判断を示しましょう。
300年余り前,赤穂浪士が決死の覚悟で吉良邸に討ち入ったように,総理官邸に討ち入る覚悟で,投票場に向かいましょう。

灯火親しむの候

秋の夜は涼しく長く,灯火の下で読書するのに適している,そういう時候になりました。
「読書の秋」ともいいますね。

まず古典的な日本文化研究の本を紹介しましょうか。

ルース・ベネディクト著『菊と刀』(原題:The Chrysanthemun and the Sword: Patterns of Japanese Culture)は1946年に出版されました。

ルース・ベネディクト(1887-1948)は米国の女性文化人類学者で,戦時中に,日本へは一度も訪れることなく,日本関連の文献の熟読や日系移民との交流,そして日本映画を見ることのみで,日本文化の研究調査をしたとされています。

もちろん「」は皇室を象徴する花であり,「」は武士の魂として日本人=侍の精神的な支柱とみなされます。

義理などといった日本文化固有の価値を分析し,日本文化を外的な批判を意識する「恥の文化」と決めつけました。

彼女の研究は,戦後の日本に対する占領政策に大いに利用されたと言われています。

先日亡くなった元長崎市長の本島等(92)さんが市長のとき「天皇の戦争責任はあると私は思います」と,自身の軍隊体験なども踏まえ,市議会の答弁で発言されて,賛否の議論をよび,発言に反発した右翼団体幹部に長崎市役所前で銃撃され,重傷を負いましたが,命は取りとめました。

とうぜん,天皇は陸海軍の大元帥として形の上からは日本の最高指導者でしたから,責任がないはずはないのですが,日本国民を統治するために,処分の対象としなかったのは,ベネディクトの研究結果が重要な判断基準になった,と言われています。

しかし,なにをおいても自由な発言を否定するのは,民主主義の基本原理を否定することになります。

つぎは逆に最新の,シンシアリー著『韓国人による沈韓論』扶桑社新書,2014.9.1発行はどうでしょうか。

著者のシンシアリー(SincereLEE,以後「リー氏」)はもちろんペンネームですが,韓国生まれ韓国育ちの生粋の韓国人で,観光以外に外国に行ったことがなく,1970年代の生まれ,というので,40歳前後で,歯科医院をやっているとのことです。
母から日韓併合時代に学んだ日本語を教えられ,子どものころから日本の雑誌やアニメで日本語に親しんで,日本のテレビの録画や雑誌や書籍から,韓国で敵視している日本はどこにも存在しないことを知った,といいます。

英語の ”sincerely” は「誠実に」という意味で,手紙の結びで “Sincerely Yours” あるいは略して “Sincerely” は「敬具」に相当する正式な表現です。

2014年4月16日,韓国フェリー「セウォル(世越)号」が沈没事故を起こしました。
船には,修学旅行の高校生325名,乗組員30人など合計476人が乗っており,事故で,行方不明者を含めて死者が305名という惨事でした。

リー氏は,この事故と韓国社会の構造的問題が酷似している,と言います。
責任感のなさ,法律の機能不全,集団的利己主義などが共通しているそうです。

これは「人災」ではなく「国災」である,と言い切りました。
フェリーには最大積載量の4倍もの貨物が積まれ,過多積載が事故の大きな原因の一つと考えられています。

沈没するセウォル号から真っ先に逃げたのは,船長や航海士など,責任を取るべきに人たちでした。
海運会社の関係者たち,とくにオーナー一族は,召喚に応じず,逃げ出し,姿をくらましまた。

海洋警察や海軍が来ましたが,遅れましたし,対応も下手でした。
もともと韓国では専門家や匠に対する認識が低く,現場には専門知識のある人たち,また現場を指揮できる人がいなかったのです。

すぐに日本の海上保安庁と海上自衛隊が救助を申し入れましたが,韓国は拒否しました。理由は「集団的自衛権の拡大と関連している」と勝手な解釈をしました。

韓国に「責任」という文字がない,誰も責任を取らない社会であるといいます。

セウォル号の違法項目を列挙すると,百貨店サイズになる,といいます。

韓国では,地縁・学縁・血縁が何より大切で,「ウリ(私たち)」と「ナリ(他人)」を鮮明に分けて,区別します。
ウリだけで団結します。

反日」は歴史に根差す問題ではなくて,「反日教」ともいうべき,議論できない感情の人たちで凝り固まっています。

「集団的被害妄想」が蔓延し,「客観性」を受け入れる土壌は培われない,と言います。

リー氏が最も惨憺たる気持ちにおちいったのは,2011年3月11日,日本で東日本大震災が発生したとき,韓国で「韓国バンザイ!」という喜びの叫び声を聞いたのです。
この国は狂っている,と認めざるとえなかった,と述懐しています。

リー氏の「沈韓論」はセウォル号のように韓国は沈没しかけているのにそれを助けるべき船長(指導者)がいないことに,絶望しています。
しかし,彼は逃げ出さずに,沈みゆく船に乗り続けることを選択し,自分のできることを模索しています。

われわれも感情だけのヘイトスピーチ(hate speech,憎悪発言)はやめて,中韓とは主張が異なっても,末永く付き合ってゆかねばなりません。

さて,ここで,松尾芭蕉(1644-1694)の有名な俳句を2句。

物言えば唇寒し秋の風
秋深き隣は何をする人ぞ

つぎは,フランスのヴェルレーヌ(1844-1896)の詩です。
ポール・ヴェルレーヌ落葉上田敏(1874-1916)・訳

秋の日の ヴィオロンの
ためいきの 身にしみて
ひたぶるに うら悲し。

鐘のおとに 胸ふたぎ
色かえて 涙ぐむ
過ぎし日の おもひでや。

げにわれは うらぶれて
こゝかしこ さだめなく
とび散らふ 落葉かな。

日仏の秋の詩を並べてみました。

歌はこの歌にしましょうか。

もずが枯れ木でサトウハチロー・作詞 徳富繁・作曲(1938)

もずが枯れ木で 鳴いている
おいらは藁を たたいてる
綿引き車は おばあさん
コットン 水車も廻ってる

みんな去年と 同じだよ
けんども足んねえ ものがある
あんさの薪割る おとがねえ
バッサリ 薪割るおとがねえ

あんさは満洲へ 行っただよ
鉄砲が涙で 光ってた
もずよ寒いと 泣くがよい
あんさは もっと寒いだろ

とても寂しい歌ですが,戦前につくられました。
このような悲しみは決して今後ないようにしなければなりません。

スポーツの秋です

この時期は秋本番,なにをするにも良い季節です。
秋といえば,スポーツの秋読書の秋芸術の秋食欲の秋などたくさんあります。

まず,スポーツの話題は,
テニス錦織圭(24)選手が,世界ランキングを5位にあげ,ロンドンで11月9日に開幕する年間成績上位8人が争う最終戦,ATPワールドツアー・ファイナルで今季を締めくくります。
1次リーグはB組で,フェデラー(スイス,2位),マリー(英,6位),ラオニッチ(カナダ,8位)と対戦しますが,一抹の不安は,全7選手との対戦成績が17勝14敗と勝ち越しているのに,初戦で対戦するマリーとは0勝3敗で,1度も勝ってないことです。
これも試練ですから,期待して見守りましょう。

ファイナルだけあって,賞金額も破格です。
出場するだけで15万5,000ドル(約1,780万円)が手に入ります。予選リーグは1勝につき同額が稼げます。5戦無敗で優勝すれば207万5,000ドル(2億3,800万円)が手に入る勘定です。

つぎは,フィギュアスケートのGPシリーズの第1戦,スケートアメリカは,米イリノイ州シカゴで10月24日に開幕,男子は町田樹(たつき,24,162cm)が優勝しました。

第2戦のスケートカナダは,ブリティッシュコロンビア州ケロワナで10月31日に開催され,男子は無良崇人(むらたかひと,23,170cm)が優勝,女子は宮原知子(16,145cm)が3位になりました。

第3戦は中国の上海で11月7日から開催され,羽生結弦(ゆづる,19,171cm)が出場します。
第1戦,第2戦と順調に来ているので,良い結果を期待しましょう。

高橋大輔(28)は引退しましたが,男子は後継者がぞくぞく出現してきて頼もしい限りです。
それにひきかえ,女子は村上佳菜子(20,162cm)が伸び悩み,今井遥(21,159cm)や本郷理華(18,166cm)もまだ完成度が低いですから,東京五輪を宮原知子一人に期待するのは荷が重いでしょう。

さて,プロ野球の日本シリーズは,守備妨害で決着するという盛り上がりに欠ける結果となりました。

ドラフト会議(新人選手選択会議)は今年も有力選手をパ・リーグのチームが交渉権を獲得するという皮肉な結果となりました。
ドラフト制度というのは,本来,チームの戦力を均衡化して面白い試合を増やす狙いがあるのに,東京にある1チームだけはドラフト指名を拒否した選手を次年度に獲得するという,野蛮な振る舞いしつづけてチーム力を強化しています。
それをいつまでも許しているという野球機構の組織力のなさが,野球の発展を阻害しています。

セ・パの交流戦も当初,ホーム(地元)3,アウェイ(敵地)3ゲームの6チームで36試合あったのを,ホーム2アウェイ2の24試合に減らし,来年は1チーム3(ホームかアウェイのどちらか)の18試合に減らすそうです。
いつも人気のセ・リーグが大敗するので,ゼロにしますか18にしますか,というような強圧的な二者択一を迫った結果なのです。

嫌になるほどの球団やリーグのエゴ(egoism,利己主義)むき出しに,そうすることで,自分で自分の首を絞めていることに気が付かないのか,と思います。

これは日本だけに限ったことではなくて,本家アメリカのMLBでもよく似た自分勝手をやっていて,これで野球がオリンピックから外されて,世界スポーツになれない大きな理由の一つだと思います。

そして,日本バスケットボール協会も情けないですね。
現在,国内にNBL(12チーム)とbjリーグ(22チーム)の2つのリーグが存在しており,FIBA(国際バスケットボール連盟)から,1国1リーグ制にするように勧告が出されていたのに,期限までに実現できず,ブラジルのリオデジャネイロ・オリンピック予選への出場が危ぶまれています。

情けない残念なことです。

もともと企業チームを中心とするJBL(8チーム)が古くからあり,統一するためにNBLというトップリーグを立ち上げましたが,企業名を残したいJBLからの参加者に対して,bjリーグが反発して,統一が実現できなかった,という経緯があります。

企業名を前面に出したいプロ野球チームと似た古い体質を残していますね。

そういう意味では,サッカーに後れを取っています。

日本のバスケットボール界から,全米のNBAに巣立とうとする若者が出てきているというのに。

それは富樫勇樹(21,167cm)選手ですが,新潟の出身で,中卒後,米国モントロス・クリスチャン高校に進学,帰国してbjリーグの秋田ノーザンハピネッツに入団,来季からダラス・マーベリックス傘下のDリーグのテキサス・レジェンズでプレイすることになっています。

これまでは田臥勇太(34,173cm)選手が2004年にNBAフェニックス・サンズと契約し,日本人として初めてのNBA選手となりましたが,4試合に出場したのみでした。

富樫選手に期待できるところは,高校時代からアメリカのバスケットボールに慣れており,ポイントガードながら,シュート力があることでしょう。

さらに,面白くないのは,女子ゴルフ大相撲ですね。

日本の女子プロゴルフの賞金ランキングは1位から3位までを韓国勢が独占しています。
それほど韓国の人たちに外貨を稼がせてあげる必要はないと思いますが,日本選手が勝てないですね。
せると弱いですね,日本選手は。逆に,とくに日本人相手にせると強いです,韓国は。

もっと面白くないのは大相撲です。
3人のモンゴル横綱に加えて,さらに逸ノ城という怪物が出現しました。
彼を見ると,50年前の東京オリンピックの柔道・無差別級のヘーシング(オランダ)対神永の試合を思い出します。
圧倒的な体力差で,技が通じずに完敗しました。

相撲は日本古来の神事から来ています。その象徴は,横綱のしめるつなは,紙垂(しで)を付けたしめなわが使われます。

神事祭りの催しであったのが,格闘技に成り下がった感があります。
たとえば,勝負がついた後に行なう,一礼が,負けた悔しさのためか,今やほとんどおざなりになってしまっています。

一度,陥ってしまった状況を改善するのは,並大抵のことではないです。
しかし,これでいいんですか,というのは多くの人たちの気持ちで,関係者は猛反省し,地道な対策を考えなければなければならないのです。

この季節の歌は,外国の曲に日本語の訳詞でなつかしい,この歌にしましょうか。

故郷の空大和田建樹・訳詞 スコットランド民謡

夕空晴れて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫なく
おもえば遠し 故郷の空
ああわが父母(ちちはは) いかにおわす

すみゆく水に 秋萩(はぎ)たれ
玉なす露は すすきにみつ
おもえば似たり 故郷の野辺
ああわが兄弟(はらから) たれと遊ぶ

原曲はいわずとしれた “Comin Through the Rye” です。

「読書の秋」以降はつぎの機会にしましょう。

今は正しく季節の変り目,天気予報をよく聞いて,気温に合った服装をして,風邪などかからないようにしましょう。

新聞を読んで

最近,新聞でこんな囲み記事がありました。少々長いですが,採録します。

ー 前略 -
あるショッピングセンターで,
ぼくはリンゴや卵などを買い求めてレジに並んだ。すぐ前に少し腰をかがめたおじいさんが立っている。80歳前後のお年か。両手に小さないなりずしが入ったパックを一つ持っている。夕食用なのだろうか。
何気なく目を向けていると,おじいさんは小銭をレジ台に一個一個並べて支払っている。つつましい年金生活者かな,とはこちらの勝手な想像ながら,消費税が10%になったら困るだろうな,と思ったりもした。
番がきてレジ前にいる間,今度は後ろのおじいさんに目がいった。やはり年のころは80前後だろうか,足を運ぶ動作にやや衰えが感じられた。手にしているのは,少々黒ずんだバナナひと房である。レジでは,やはり小さな財布から取り出した小銭を店員に渡している。
「レジ袋はいりますか?」「いりません」「2円お引きします」
そんなやり取りの後,おじいさんはバナナを両手に抱え込むようにして,ぼくの横をゆっくりと通り過ぎていった。
おじいさんはバナナが好きだからとか,おやつに買ったというのではなく,夕食や朝食のために買ったのではなかろうか。
ー 中略 -
たくさんの買物をしている人に文句などあろうはずはない。ないが,おじいさんのささやかな買物との対比からくる感情は,何か理不尽な格差社会を見る思いと絡んで胸の奥にわだかまった。
当然,その感情の向かう先は政治だ。しかし弱者より強者に傾きがちな政治家には,ぼくが目にしたおじいさんの姿など,目の端にも留まらないのではなかろうか。
ー 後略 -

これは毎日新聞2014年10月27日夕刊,客員編集委員・近藤勝重しあわせのトンボ」の一節です。

消費税の増税年金の減額後期高齢者の健康保険料の軽減措置の廃止など,老後の不安はますます募ります。

同じ紙面に,ミステリー作家の森村誠一・編著「迷子の日本国憲法」(徳間書店)を緊急出版したことへの取材記事があります。

森村さん(1933-)は,子供のころ戦争を体験されています。

戦争は生命だけでなく,国土や自然を破壊し,そのうえ基本的人権をことごとく奪います

戦争から学べば,軍事力や軍事同盟の強化は,平和を維持できないどころか,平和と自由と人権を破壊してしまうとわかるはずです

軍隊は国を守るという建前ながら,じっさいは国民を守りません。それは中国での関東軍しかり,沖縄の日本軍もそうでした。

自衛隊は憲法9条を背負う国民を守る用心棒です
自衛隊は,御嶽山噴火災害でも救助活動を担ったように,強制的な徴兵ではなく,自由意思にもとづく戦闘集団で,国民を守る使命感を持った用心棒,だと森村さんは言うのです。

政府が,「特定機密保護法」「国家安全保障会議」「集団的自衛権行使容認」の開戦に向かう3点セットを用意してしまいました。戦争に対する構えは,必ず戦争を誘発する,と警告しています。

だから今こそ,森村さんは声を大にして,人類の天敵である戦争に対して,「ノー!」を突き付けなければならない,と強調しています。

おじいさんと戦争のはなし,まったく違うように思うかもしれませんが,わたしたちにとって,どちらが切実で優先的な問題と捉えるのか,が問われています。

まったく話は変わりますが,
10月31日はハロウィーン(Halloween)と,いつのころからか言うようになりました。
もともとは秋の収穫を祝い,悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事でしたが,とくにアメリカで民間行事として定着しました。
カボチャの中身をくりぬいて「ジャック・オ・ランタン(Jack-o’-lantern)」を作って飾ったり,子供たちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れて,「トリック・オア・トリート(Trick or treat.   お菓子をくれないといたずらするぞ)」と唱えてお菓子をもらったりする風習があります。

ハロウィーンの語源は,カトリック教会で11月1日に祝われる「諸聖人の日(万聖節)」の前夜(イブ,eve)にあたることから,”All Hallows eve” から “Hallows eve” が訛って “Halloween” となったといわれています。

そのむかし,日本は神道と仏教の国なのに,クリスマスだのクリスマス・イブなどキリスト教の行事を祝うのはおかしい,との意見もありましたが,いつのまにか,宗教とは関係なく,一般的なお祭り日のようになりました。

しかし,ハロウィーンが定着するにはもう少し時間がかかることでしょうね。

さて今回は,この時期にふさわしい,まことに日本的なこの歌にしましょうか。

紅葉高野辰之・作詞 岡野貞一・作曲(1911)

秋の夕日に 照る山紅葉
濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓や蔦は
山のふもとの 裾(すそ)模様

渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
波にゆられて 離れて寄って
赤や黄色の 色様々に
水の上にも 織る錦

この歌を聴くと,美しい秋の情景が目に浮かびますね。
ことしはキュッと寒くなりましたから,美しい紅葉が見られそうです。

清潔であること

清潔とは,ひびきの良い言葉ですね。
汚れがなくきれいなこと,衛生的なこと,
また,人格や品行が清くいさぎよいこと,を指します。

関連して,
清廉潔白(心が清くて私欲がなく,後ろ暗いことのまったくないさま)や
品行方正(心や行いが正しく立派なさま)とかの熟語が思い出されます。

しかし,
潔癖は行き過ぎ,潔癖症となればもう立派(?)な病気です。

清潔感のある人,と言えば,衛生的にきれいな服装をしているだけではなく,精神的にすがすがしい人のことを言っているのです。

日本人は世界で最も清潔好きな民族と言われてています。
これは自慢してもよいことで,感染症を減らして,世界最高の長寿国に押し上げた要因の一つかもしれません。

その代表的なものが,シャワートイレ(洗浄便座)でしょうか。
インクで汚れた手を紙で拭いて「お尻だって洗ってほしい」という名キャッチコピーで一世を風靡(?)しました。
たしかに,大便をするのがとても快適になりました。

それどころか,私の通うスポーツジムでは,トイレの入口にオーバーシューズが置いてあり,靴(下足でも上履きでも)のままそれを履いて用を足すことになっています。
さらに大便器の横には,クリーナーが設置されていて,ペーパーに消毒液を吹きかけて便座を拭いてから用を足すことになっています。

ここまでくると,少々やりすぎの感があります。

世の中は抗菌グッズであふれています。
マスクどころか靴下やパンツまで抗菌です。

ある漫才師の一人が,入浴後,全身をマキロン(殺菌消毒液)で拭く,と聞いて,余りの無知さにビックリしました。
皮膚を正常な状態に保つには,皮膚ダニ・細菌・ウイルスなどの微生物と共存する必要があるのです。
あきらかに,清潔であることの意味を取り違えています。

毎日,石鹸やボディソープなどの洗剤で身体を洗うことさえ,体表面の細菌を殺してしまうので,肌を美しく保つには,やりすぎであると皮膚科の医師は言っています。

フランスに行っていたとき,
パン屋で,われわれ外国人がバゲット(長い棒状のフランスパン)を買うと紙袋に入れてくれますが,フランス人は素手で待ちかえります。

その裸のバゲットを床に転がしたまま本屋で本を立ち読みしていた人がいて驚きました。

場末のレストランで,
犬を連れて入ってきた父と子の二人づれ,犬をテーブルの下に横臥させた状態で食事を始め,幼い子がホークをチャリンと床に落としました。
ウエイトレスが急いで代りを持ってゆくと,父親が子供を指さし,拾って使っているので,もう必要ない,という合図をしました。

フランス人の清潔に対する意識はわれわれ日本人とかなり違いますね。

回虫博士として有名な東京医科歯科大学名誉教授・藤田紘一郎さんは,日本で,花粉症・アトピー・喘息などのアレルギー疾患が極端に多くなったのは,体内から寄生虫を排除したせいである,と長年の研究結果から断言されています。

これは,藤田博士の見解だけではなく,
環境が清潔すぎると,アレルギー疾患が増えるという衛生仮説は2004年にドイツを中心とする医科学チームの研究により裏付けられました。

日本人は清潔であり過ぎる結果,アレルギー疾患が多い民族の代表となってしまいました。

パンダコアラの赤ちゃんは,母親の雲古をなめて,を消化したり,ユーカリを無毒化するために,腸内に必要な細菌を取り込んでいます。

最近,こんなニュースがありました。
川で大量の魚が死んで浮き上がりました。
原因をさぐると,近くのプールで殺菌のために投与した塩素のため,オーバーフローした排水が川に流れ込んで,魚を死滅させました。
魚が死ぬような水で泳いで清潔と言えますか,安全と言えますか。
むしろ,雑菌のウヨウヨいるような水で泳いで,お腹をこわす方がよっぼど安全です。

2500年ほど前,孔子は,

過ぎたるは猶及ばざるが如し

と言いましたが,
現代では,

過ぎたるは及ばざるに如(し)かず

と言い替えた方が良いと思っています。
なにごとも過ぎるより,足らない目の方が良いことが多いからです。

過食より小食粗食の方が健康的なのは,周知のとおりですし,過保護で育つより,放任で育てる方がまともな子供になるようです。

今年は10月になってからも大きな台風が毎週のようにやってきて大変でした。
南の島から何かが流れてきても不思議はありません。

ところで,
民俗学者・柳田國男(1875-1962)が学生の1898年の夏,1カ月半ほど伊良湖岬(愛知県渥美半島)に滞在したとき,浜に流れ着いたヤシの実の話を友人の島崎藤村(1872-1943)に語り,藤村がその話を元に1901年,詩を創りました。

1936年7月,NHK大阪中央放送局(JOBK)で放送中だった『国民歌謡』の担当者がその詩をもって作曲家・大中寅二に作曲を依頼しました。
7月13日から東海林太郎の歌唱で1週間放送されました。

椰子の実』島崎藤村・作詞 大中寅二・作曲

名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ

故郷の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月

旧(もと)の樹は生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる

われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ

実をとりて胸にあつれば
新たなり流離の憂

海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙

思いやる八重の潮々
いずれの日にか国に帰らん

大中寅二(1896-1982)は日本の作曲家・オルガにスト,同志社大卒,作曲を山田耕筰に師事,ドイツ・ベルリンに留学,東京英和女子短大教授,大中恩(作曲家)の父。

日本の代表的な叙情歌です。
東海林太郎の歌ではないと思います。

まったくの蛇足ですが,
NHK大阪放送局JOBKはどこにあるんですか,と尋ねられたら,
ジャパン(J)大阪(O)ばんば町(B)かど(K)にあります,
と答えてください。

我々ももう少し原始社会に回帰して,雑菌たちともうまく共存して,生物としての自然な生活するようにした方が,真の健康的な生き方ができるのではないでしょうか。

50年前のできごと

坂井義則さんが,9月10日にお亡くなりになりました。
1945年8月6日のお生まれでしたから,まだ69歳の若さでした。
広島に原爆が投下された日に広島県三次(みよし)市で出生,400mの陸上選手でした。

1964年10月10日に開催された東京オリンピックの開会式で,若干19歳の坂井さんが聖火リレー最終ランナーとして,国立競技場の聖火台にさっそうと駆け上がっていった雄姿は,いまでも目に浮かびます。

その日のことは,NHKの北出清五郎アナウンサーの名セリフにあります。
世界中の青空を,全部東京に持ってきてしまったような,すばらしい秋日和でございます

そして,ファンファーレとオリンピックマーチで入場行進が始まりました。

ファンファーレ今井光也・作曲
オリンピックマーチ古関祐而・作曲

もう50年,半世紀も前の出来事だったんですね。

1940年に東京で開催予定だったオリンピックが,第2次世界大戦勃発のために中止,24年ぶりに,アジアで初めて,東京で開催されました。

なにしろ戦後最大のイベントでしたから,国を挙げて取り組みました。

1964年10月1日(開会式の9日前)には,東海道新幹線が開通しました。もちろんオリンピックにあわせて建設したのです。

しかし,新幹線建設の現場で210名もの殉職者を出したことはあまり知られていません。
これは,「世紀の難工事」と評された黒部ダムの殉職者数171人と比べれば,その多さを実感できるでしょう。
「1959年着工で5年余で完成したということになっているが,実は用地の買収が難航して2年近くをそのために費やしたので,実際の工事期間は3年半くらいに過ぎない」と当時の技師長は語っています。

つまり,開業9日後に始まる東京五輪に間に合わせるための突貫工事だったのです。
「全職員が夜を日に継いでの捨身の努力の結果,かろうじて所定の期日に間に合わすことができた」と『工事誌』に記されています。

東京五輪という「世紀の祭典」のために,なりふり構わず無茶をしたんですね。おおいに反省すべきところでしょう。

前年の1963年7月16日には,名神高速道路が日本初の都市間高速道路として開通しました。ただし,栗東IC~尼崎IC(71.1km)。

プロ野球もオリンピックを考慮して,前倒しで試合を消化,日本シリーズは阪神タイガース南海ホークスの関西勢の対決となりましたが,10月1日に開始,雨での順延もあり,第7戦は開会式10月10日の夜になってしまい,まったく盛上りませんでした。

このオリンピックで日本選手の獲得した金メダル数は16個,アメリカ,ソ連についで3番目でした。

最も関心を呼んだ種目は,なんといっても女子バレーボールではなかったでしょうか。

東洋の魔女」と呼ばれた女子チームは,決勝戦で宿敵ソ連を3対0のストレートで下し,金メダルを獲得しました。
なにしろそのときのTVの視聴率は66.8%を記録しました。

NHKの鈴木文弥アナウンサーがTV中継で最後のポイントのとき,
金メダルポイント!」と絶叫したことも記憶に残っています。

じつはオリンピック前年に東洋の魔女の主体「日紡貝塚」の練習を見ています。
1963年12月に池田市立体育館の竣工を記念して,練習を公開しました。
というのも,チームの一員である谷田絹子選手が池田市の出身という縁で,実現しました。
彼女は左の宮本,右の谷田といわれたエース・スパイカーでした。

しかし,えげつない練習でしたね。
鬼の大松といわれた大松博文監督のもと,回転レシーブに代表されるように守備の練習が主体で,一人の選手に長時間,何度も何度も取れそうもないようなボールを投げつけて,また逆にお仕置きのように体めがけて何回もボールをぶつけて,まるでいじめか虐待にしか見えないような練習風景でした。
これほどのことをしないと勝てないのか,と愕然としました。
現代では,人前でこんなことをやったら,監督は即刻クビで大きな社会問題になっていたことでしょう。
むかしは勝つためと言って,メチャクチャなことをやっても許されていたんですね。

じつはその谷田選手,1962年11月3日に,なんと池田市の第1回文化功労者に選ばれています。
そのとき同時に,童謡作詞家の東くめさんも文化功労者に選ばれています。こちらの方が文化の香りがしますね。

東くめ(1877-1969)さんは,和歌山県新宮出身,東京音楽学校卒,東京府立高等女学校の音楽教師を8年間務め,日本ではじめて口語による童謡を作詞,東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)教授・東基吉と結婚,夫が大阪府池田師範学校(現大阪教育大学)校長に就任したため池田市に転居,新宮市名誉市民,池田市にて没。
夫の提案により「子供の言葉による,子供が喜ぶ童謡」の作詞を2年後輩の滝廉太郎と組んで創作,滝さんは23歳で早逝しましたが,東くめさんは91歳の長寿をまっとうされました。
代表作は,
鳩ぽっぽ滝廉太郎・作曲(1901.7)幼稚園唱歌

鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ
ポッポ ポッポととんでこい
お寺のやねからおりてこい
豆をやるからみなたべよ
たべてもすぐにかえらずに
ポッポ ポッポとないてあそべ

 ちなみに「ぽっぽっぽ 鳩ぽっぽ」と歌うのは『』です,念のため,童謡の題名はむずかしいのです。

じつは,この年にオリンピックを実際に観戦しているのです。
まず,観戦チケットを手に入れるのが大変でした。何時間も行列しなけれが手に入りません。人気の種目を入手するのは,ほとんど不可能にちかいことでした。
父親と生まれて初めて二人で東京まで出かけました。その後もありませんでしたから,一生一度きりの旅行でした。
もちろんできたばかりの新幹線には乗らず,夜行急行『銀河』で行きました。
横浜の親戚の家に宿泊させてもらい,2つの競技,バレーボールとバスケットボールを観戦しました。もちろんどちらも男子です。
そのどちらかを観戦中に円谷がマラソンで銅をとった,という風の便りを耳にしました。
むかしの思い出です。

2020年に,ふたたび東京でオリンピックが開催されます。

1964年の東京オリンピックでは,敗戦後19年,第2次大戦からの復興と国際社会への参加を旗印に,高速道路や新幹線がつくられ,都市のインフラ(infrastructure,下部構造の意,道路・鉄道など産業基盤の社会資本のこと)が整備され,それなりの成果がありました。

しかし,このつぎに何を期待しますか?
競技用の巨大施設の建設は,必要な経費とその後の利用価値を考えると,否定的になります。
一時的な利用のために巨費を費やす時代ではありません。
競技専用ではなく,むしろ国民の健康のために利用可能な施設に転用できることが条件となるでしょう。

なにより,福島原発事故について,状況はコントロールされている,というオリンピック招致のプレゼン(presentation,口頭発表)での首相の発言で,外向けにはウソでごまかせても,国民はだれも信用していません。
国の政策としての優先順位は,何を置いても,まず事故処理を,住民補償もふくめて,国民の納得のいくような結果を出すことが第一です。オリンピックはその次です。

ところで,第17回アジア大会(仁川)が終了(9.19-10.4)し,日本の金メダル数は47個で,中国151,韓国79,についで3位の定席でした。

第1回(1951)から第8回(1978)までは日本が1位を独占,第9回(1982)に中国に抜かれ,第10回(1986)から韓国にも抜かれ,その後ずっと3位が定位置になってしまっています。

人口13.57億の中国は致し方ないとしても,人口1.27億の日本が,人口5千万に過ぎない韓国の後塵を拝するのは納得がいきません。

つぎのオリンピックではキッチリ,結果を出してもらいましょう。