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話せる英語

いまや話せる英語,使える英語への要求が半端ないですね。学校教育でも英会話に力を入れていて,基礎となる文法は大丈夫?とつい思ってしまいます。

話せる英語の極端は,車夫英語でしょうか。
明治の文明開化の世になって,いきなり外国人に接する機会が増え,人力車の車夫たちはお客の英語を耳で聞いて,そのまま発音しました。

たとえば,

魬(ハマチ)       How much?   いくら?
赤飯(セキハン)     Shake hand.   握手して
知らんぷり(シランプリ) Sit down, please. 座って下さい
掘った芋(ホッタイモ)  What time?   何時?
揚げ豆腐(アゲトウフ)  I’ll get off.    降ります 
お仕舞いか(オシマイカ) Wash may car.  車を洗って

これが意外に通じるのです。
本を読んで綴り字から学んだのが書生,これを書生英語といってあまり通じなかったのです。

たとえば,
人名で ”Hepburn” では,「ヘボン」といえばヘボン式ローマ字,「ヘップバーン」と発音すると女優のオードリ-・ヘップバーンを指し,前者を車夫英語,後者を書生英語と言ってもいいと思いますが,もちろん,前者の方が通じます。

幕末から明治維新にかけて活躍したジョン万次郎中浜万次郎,1827-98)は,土佐の漁師で,14歳のとき,出漁中に難破して漂流,米国の捕鯨船に助けられ,本土に渡り,船長ホイットフィールドの養子となり,米国で学び,10年後に帰国,薩摩藩や土佐藩,さらに幕府に仕え,のち開成学校(現東京大学)教授となりました。
口語の通訳としては有能でしたが,日本語の学習経験がなかったため,英語の文章を日本語(文語)に訳すのは不得意だったそうです。

万次郎の編纂した英語辞書の発音にも,

こーる   cool
わら    water
さんれぃ  Sunday
にゅうよぅ  New York

などがあるのですが,不思議なことにこれがまたチャンと通じるのです。

さらに,グッとくだけて,深夜番組『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)で,タモリの「誰が言ったか知らないが、言われてみれば確かに聞こえる〈空耳アワー〉のお時間がやってまいりました。」で始まる,まことにふざけたコーナーがあります。
2018.5.12(00:20-00:50)放送,レイ・チャールズの「愛さずにはいられない(I can’t stop loving you)」を流して,映像は
バスタオルをまとって,お風呂から出てきた女性,そのバスタオルをとって,Tシャツを着ると,スマホに非通知の着信が,「拝見したわ,美乳」,ハイケンシタワビニュウ(アイキャンストップラビングユー),だと!
こじつけにも程がある,というものです。

今回の歌は,そのレイ・チャールズに敬意を表して,「わが心のジョージア(Georgia On My Mind)1960」にしましょうか。

Georgia, Georgia
The whole day through
Just an old sweet song
Keeps Georgia on my mind
I’m say Georgia, Georgia
A song of you
Comes as sweet and clear
As moonlight through the pines
Other arms reach out to me
Other eyes smile tenderly
Still in peaceful dreams I see
The road leads back to you
I said Georgia
Oh Georgia, no peace I find
Just an old sweet song
Keeps Georgia on my mind
Other arms reach out to me
Other eyes smile tenderly
Still in
 
レイ・チャールズ(Ray Charles Robinson,1930-2004)は,アメリカ・ジョージア州出身の盲目の黒人歌手・ピアニスト,バック・コーラスを背にピアノを弾きながら熱唱するのがスタイルでした。
20年近く麻薬を常用していましたが,1965年に更生施設に入所し,ヘロインを断つことに成功しました。
1979年にその「わが心のジョージア」が洲歌に定められました。2004年に伝記映画「レイ(Ray)」が公開されましたが,それを見ることなく,その年に肝臓癌で死去しました。
 
長い猛暑の夏もようやく終わりを告げ,
 
 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる
                  藤原敏行(古今和歌集)
 
というような季節になってきました。
こういうとき,夏の疲れが出やすいものです。しっかり食事して,しっかり休養をとって,夏バテした体力を回復させるときでもあります。
気温の急変には気をつけて,元気にお過ごしください。
 

新聞を読んで

新聞の発行部数が激減しているそうです。PCやスマホで無料かつ素早く見られるということで,やむをえない面もあります。
以前は,朝刊に目を通しながら朝食を食べる,夕刊に目を通しながら夕食を食べる,というのが一般的な家庭の光景のように思っていました。
通勤電車で新聞を広げている光景も見なくなりましたね。ほとんどスマホをですね。しかし彼らはニュースを見ているのではなさそうです。ゲームでしょうか,LINEのチェックでしょうか。

新聞を定期購読しないような家庭では,TVやスマホのニュースもあまり見てないようです。そのような人たちはどうやって社会の動きをとらえているのでしょうか。そういうことにまったく関心なく過ごしていては恐ろしいことになりかねません。

ここで,一つの新聞記事を紹介します。毎日新聞2018年7月10日夕刊の小国綾子あした元気になあれ』というコラムの「星野君の二塁打」という記事です。

 小学6年の「道徳」の教科書に載っている教材「星野君の二塁打」が議論を呼んでいる。野球チームで監督から犠打を命じられた星野君,それに背いて二塁打を放つ。その結果,チームは勝利するが,星野君は監督から「チームの約束を破り,輪を乱した」ことを理由に,次の大会で出場停止を言い渡されてしまう,という話。
 でも,星野君のしたことは本当に悪いこと? ふと,約10年前に米国で体験した少年野球を思い出した。現地のチームで野球をしていた息子が,毎打席のようにバントサインを出されたことがある。「自分の打撃がダメだから」と落ち込む息子を見かねて,家族で監督に理由を聞きに行った。ところが,監督は「えーっ! 君はバントが好きと勘違いしてたよ。だって,バントサインに『ノー!』と言わなかったじゃないか」。
 日本では監督の指示に黙々と従うのが美徳なんです,と説明したら,監督は息子にこう諭したのだった。「この国では,打ちたいなら打ちたいと意思表示しなきゃ。言わなきゃ何も伝わらないよ」
   ―― 後略 ――

この記事を読んで,こんなことが道徳の教材になっているのか,と驚きました。これで何を教えたいんですか。これを題材にしてディベートで議論させるなら,それはそれなりに教育効果はあるでしょう。しかし出場停止にするなんて,明らかにパワハラです。昨今の日大アメフトのやり方と何の変わりもありません。

これで思い出したのが,1992年の甲子園の夏の高校野球で,星稜高校(石川)の松井秀喜が,明徳義塾(高知)から5打席連続の敬遠を受けた事件です。なんと無走者の状態でも敬遠しました。前夜,明徳の馬淵監督は,故意に四球を与えているように思われないように,捕手は座ったまま,投手はストライクが入らないと首をかしげる,外野はフェンス際までさがる,など「演技」することさえ指示しました。
勝つためには何でもする,というのはフェアプレー(よく選手宣誓で言います)の精神から逸脱しているのではありませんか。
なにより,やっている選手たちが面白くなかった,と思います。
投手は強打者と勝負したかったのに違いありません。打たれても負けても良い思い出になったことでしょう。

今年は100回の記念大会とかで盛り上がっています。いや盛り上げ過ぎています。真夏の異常な暑さの中で,一堂に会して連日野球をすることに,なにより健康管理の面で,問題があるとは思いませんか。

もう一つの記事があります。
毎日新聞2018年7月13日夕刊の近藤勝重昨今 ことば事情』というコラムの「非常時/国防」です。

 非常時という言葉に人は何を連想するか。国家の重大な危機と,戦争が迫っていることを語釈としている辞書が一般的だ。
 それでは国防という言葉はどうだろうと引いてみたが,外敵から国を守るともっぱら戦争を想定した解釈が多い。
 しかし寺田寅彦は1934(昭和9)年,雑誌で「天災と国防」と題して災害も国を脅かす天然の敵とみて,国防の必要性を訴えた。かつ戦争は避けられるが,天災は「その襲来を中止するわけにはいかない」と書いている。
   ―― 中略 ――
 寅彦は文明の進歩で「日本全体が一つの高等な有機体」になるので,「その影響はたちまち全体に波及する」とも訴え,「文明が進めば進むほど天然の暴威による被害がその激烈の度を増す」と警告している。
   ―― 中略 ――
 増大する一方の防衛費のどのくらいを割けば,堤防の決壊といった事態を防ぎ得るのか。異常気象にも対応した議論がもっとなされなければならないのではないか。

今まさに寺田寅彦の警告が的中しています。地震・大雨の天災によって右往左往しています。起こる前の対策,起ってからの迅速な対応,毎年のように起こっているのに,そのたびに,不手際が目立ちます。本当の意味での国防意識に欠けています。政治家も,この非常時に宴会をしている場合ではない,もっと真剣に取組まねばなりません。

今回は,真夏に真冬の音楽です。
ヨハン・シュトラウスⅡのオペレッタ『こうもり』です。
ウィーン国立歌劇場では,年末に『こうもり』を,年始に『ニューイヤー・コンサート』を,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を各70人前後の二手に分けて上演するのが恒例です。

『こうもり』のあらすじは,役人を殴った罪で,刑務所に入ることになったアイゼンシュタインは明朝6時に収監されるのに,その前夜,仮面舞踏会に出かけるのです。そこで,ハンガリーの伯爵夫人に変装した妻ロザリンデに会い,口説きだすのです。
本当にハンガリー人?,と疑われるので,民族舞踏「チャルダッシュ」を歌うのです。

この曲には個人的な思い出があります。
今から6年前の夏,指揮法の勉強会で,ある新人のソプラノ歌手が,私の稚拙な指揮に付き合って歌ってくれたのです。
その後,どうされているのか,と気にかけていましたが,奨学金を受けてドイツに留学していて,スカラシップのコンサートが,来週,京都で開催されることを新聞で知って,聴きに行くことにしているのです。どんな様子なのか,今から楽しみです。

今夏は,まさしく異常な暑さです。大雨もあったし,逆進行の台風もあったり,異常気象を認めない訳にはいきません。
報道でも,熱中症予防を呼びかけていて,室内では躊躇なくエアコンを使うように,強く勧めています。
私も昨年までは,寝る前にエアコンを数時間つけて,寝るときに止めていましたが,今年はさすがに付けています。ただし,除湿モードで,起床時間の1時間前にタイマーで切れるようにしています。

秋が待ち遠しいですが,ご心配なく,もう数週間後には,間違いなく秋が訪れますから。それまで,給水を怠らず,無事に乗り切りましょう。

私たちはどう生きるか

私たちはどう生きるか」ということは幾つになっても,とても大事な人生の課題です。

子供に読ませたい本として長きに渡って評価され続けているのが,吉野源三郎君たちはどう生きるか』岩波文庫(1937)です。

この1937年(昭和12年)という時代は

1931  満州事変
1937  盧溝橋事変
1939  第二次世界大戦勃発
1941  太平洋戦争勃発

日本の軍部がいよいよアジア大陸に進攻を開始して,国内では軍国主義が日ごとにその勢力を強め,ヨーロッパではムッソリーニ(伊,1883-45)やヒトラー(独,1889-45)が政権をとって,ファシズムが諸国民の脅威となり,第二次世界大戦の危険は暗雲のように全世界を覆っている頃でした。

1935年10月に山本有三心に太陽をもて』が新潮社から出ました。これは山本の編纂による『日本少国民文庫』全16巻の第12巻で第1回の配本でした。だいたい毎月1巻ずつ出して,1937年7月に完結し,それが吉野『君たちはどう生きるか』第5巻で,最後の配本でした。

日本少国民文庫』の刊行は,このような時勢を考えて計画されたものでした。
当時,軍国主義の勃興とともに,すでに言論や出版の自由は著しく制限され,労働運動や社会主義運動は,凶暴といっていいほどの激しい弾圧を受けていました。
その中で,山本・吉野らは少年少女に訴える余地はまだ残っているし,せめてこの人々だけは,時勢の悪い影響から守りたい,今日の少年少女こそ次の時代を背負うべき大切な人たちであり,この人々には,偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた,自由で豊かな文化のあることを,人類の進歩についての信念をいまのうちに養っておかねばならない,と考えて,少国民(年少の国民の意,少年少女のこと)のための双書の刊行を思いたちました。

吉野源三郎(1899-1981)東京生れ,東京帝国大学文学部哲学科卒,編集者・児童文学者・評論家・反戦運動家・ジャーナリスト

山本有三(1887-1974)栃木県生まれ,呉服商の跡取り息子として育ち,東京帝国大学文化大学独文学科選科卒,小説家・劇作家・政治家,代表作「女の一生(32)」・「真実一路(35)」・「路傍の石(37)」,日本芸術院会員,文化勲章受章(65)

『君たちはどう生きるか』の内容は,主人公はコペル君というあだ名の中学二年生です。本名は本田潤一で小柄で成績は優秀ですがいたずら好きの少年で,その友人は「ガッチン」というあだ名の頑固で毅然とした北見君,お金持ちで有力者の息子の水谷君,後に友達になる豆腐屋の浦川君,そして二年前に亡くなった父親代わりで近所に住む叔父さん(お母さんの弟)が登場します。
コペル君のいうあだ名は地動説を唱えたコペルニクスからとって叔父さんが名付けました。
コペル君がいろいろと体験する中で,悩み考えたことを,若い叔父さんが「おじさんのノート」として,極めて的確な助言をするのです。この叔父さんは大学を出て,まだ2,3年という設定ですが,これほど見事なアドバイスができるなんて,普通の人なら,自分にはこれほどのふるまいはとてもできないと,劣等感を持ってしまいます。

私は子供のころにはこの本に出合わず,十分な大人になってから本屋で見つけ,読んでみて感銘を受け,子供が出来たらぜひ読ませたいと思っていたのですが,最近,読み直そうと本棚を探しても見つからず,また買い直すことにし,当時,岩波新書の棚で見つけた記憶があったのですが,思い違いか,岩波文庫にありました。

一.へんな体験(ものの見方について)
二.勇ましき友(真実の経験について)
三.ニュートンの林檎と粉ミルク(人間の結びつきについて)
四.貧しき友(人間であるからには)
五.ナポレオンと四人の少年(偉大な人間とはどんな人か)
六.雪の日の出来事
七.石段の思い出(人間の悩みと,過ちと,偉大さについて)
八.凱旋
九.水仙の芽とガンダーラの仏像
十.春の朝

以上のように全10章からなります。ちなみに,( )内は「おじさんのノート」の題です。

いまはマンガにもなっているようで,羽賀翔一『漫画 君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)。
しかし,平易な文章で読みやいので,ぜひ普通の本で読んでみてください。

今回は,梅雨時ということで,この歌にしましょう。

城ヶ島の雨北原白秋・作詞 梁田貞・作曲(1913)

雨はふるふる 城ヶ島の磯 (いそ) に
利休鼠 (りきゅうねずみ) の 雨がふる

雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き

舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡 (ぬ) れて帆上げた ぬしの舟

ええ 舟は櫓 (ろ) でやる 櫓は唄でやる
唄は船頭さんの 心意気

雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ

北原白秋(1885-1942)熊本生れ福岡育ち,詩人・歌人,早稲田大学英文科卒,『赤い鳥』に童謡を発表,山田耕筰・中山晋平・小松耕輔などに作曲,三木露風と並び「白露時代」と言われる,代表作:「からたちの花」「ゆりかごのうた」「砂山」「この道」「ペチカ」など。

梁田貞(やなだ ただし,1885-1959)北海道出身,教育者・作曲家,東京音楽学校本科声楽科ピアノ専攻科卒,代表作:「どんぐりころころ」「城ヶ島の雨」など。

今年の梅雨は気温が上がらない,と思っていたら,本日6月18日午前7:58ころ,大阪府北部で,震度6弱の地震が発生しました。当家では,棚から物が落ちる程度で実害がなかったのですが,大揺れで驚きました。
南海トラフ地震の一環ではないと気象庁から発表されましたが,数日は余震に対する注意が必要です。
1995年1月17日5:46に発生した阪神・淡路大震災から23年5ヶ月,天災は忘れたころにやってきました。

みなさんも,備えあれば患えなし,なので,くれぐれも気をつけてお過ごしください。

 

ささやかな気配り

世の中には,大したことではないけれど,ちょっとした気配りをすることで,みんなが快く過ごせることって,ありますよね。

前にも述べた私の通っているスポーツジムで,男子トイレに大便器1つしかない(小便器がない)箇所があります。もともとそのフロアになかった所に,後付けしたので,十分な面積が取れなかったのでしょう。
(これだけで,いかに高級でない施設か分るでしょう)

そこが,常時といっていいほど,ほとんどいつも,床が汚れているのです。
家庭では,汚れるので座ってするように,と同居人からきびしく指導されているお宅も少なくないでしょう。

粗相をしたら,(犬ではないんだから),自分で掃除して出ればよいのに,気づかないのか,いつも汚れたままになっています。

掃除係の人も,トイレ掃除だけに構っていられませんから,ほっておくと,いつまでも不潔な状態のままになります。
ですので,私が入った時には必ず掃除することにしています。
ひとつには,そのままにしておくと,私の直後に入った人が,私がやったと思われても癪だからです。

2010年,兵庫県川西市出身の植村花菜(1983-)が『トイレの神様』という曲を作って

トイレには
それはそれはキレイな女神様がいるんやで
だから毎日キレイにしたら
女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで

という歌詞が一世を風靡 (?) しました。
もちろん,毎日のように(週に6回はジムへ行くので),ほとんど入った回数分だけ,トイレ掃除をしている勘定ですが,いまのところまだその華々しい効果は出ていないようです。

また,
電車は一般的に横長の座席ですが,荷物を置いたり,余分な空間を空けたりして,詰めれば,もう一人二が掛けられるのに,と思うことがあります。
座り方にも,問題がありますよね。浅くかけて脚を前に伸ばしたり,脚を組んだりして,前に立っている人の邪魔になっているのが分らないのか,と思うことがよくあります。

日本の電車には,ほとんどシルバー・シート(優先座席)というものが設置されています。
しかし現状では,座るべき人が優先的に座っているとは,とても思われません。

これは人から聞いた話ですが,
優先座席に,茶髪の若い男性が,年配の人が乗って来たのに,譲らずに座っているのを見て,サラリーマン風の人が注意をして,若者は素直に従ったのですが,脚を引きずっていたといいます。

その若者が脚に障害を持っていたのか,怪我をしていたのかは分りませんが,外見からでは判断できないこともあるので,注意するのも難しいのです。

イスラム教の国に赴任していたことがありますが,そこではもちろん,優先座席などはありませんが,高齢(と思われる)者が乗ってくると,若者は黙って席を立ちます。
席を,これ見よがしに譲る,という感じではなく,出入口に老人風の姿が見えたとたんに,席を立ってどこかへ行きます。

40歳代の日本人男性が,電車で席を譲られて,そんなに自分は年寄りに見えるのか,とショックを受けていました。

しかしもともと,「初老」とは「40歳の異称」ですから,おかしいことではないのです。

今回はご当地ソングの特集です。

まずは,有名な民謡『秋田音頭』。

ヤートセー コラ 秋田音頭です 
ハイ キタカサッサ コイサッサ コイナー 
コラ いずれこれより御免こうむり 
音頭の無駄を言う アーソレソレ 
 お気に障りもあろうけれども サッサと出しかける 
ハイ キタカサッサ コイサッサ コイナー 

秋田名物 八森鰰々 (ハタハタ) 男鹿で男鹿ブリコ 
能代春慶 桧山納豆 大館曲わっぱ

ここで,曲わっぱ (まげわっぱ) とは,スギやヒノキなどの薄板を曲げて作られる円筒形の木製の箱のことで,本体とふたで一組にして,米びつや,弁当箱として使われることが多いです。

最古のラップで,リズミカルに,歌詞もいろいろ自由に作って歌いますが,最初の所だけは定番です。むかし,秋田美人に教わりました。

つぎは,県民なら誰もが知っているけれど,県外では余り知られていない長野県の歌です。

県歌『信濃の国』浅井冽 (きよし)・作詞 北村季晴・作曲

  一.信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
    聳 (そび) ゆる山はいや高く 流るる川はいや通し
    松本・伊那・佐久・善光寺 四つの平は肥沃の地
    海こそなけれ物さわに 万 (よろ) ず足らわぬ事ぞなき

  二.四方 (よも)に聳ゆる山々は 御嶽・乗鞍・駒ヶ岳
    浅間は殊 (こと) に活火山 いずれも国の鎮めなり
    流れ淀まずゆく水は 北に犀川 (さいがわ) 千曲川
    南に木曽川・天竜川 これまた国の固めなり

  三.木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖 (うみ) には魚多し
    民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある
    しかのみならず桑とりて 蚕飼いの業の打ちひらけ
    細きよすがも軽 (かろ) からぬ 国の命を繋ぐなり

ここで,信濃に境連ぬる十州とは,越後・越中・飛騨・美濃・三河・遠江・駿河・甲斐・武蔵・上野です。

ちなみに,大坂(摂河泉,摂津・河内・和泉)は,紀伊・大和・山城・丹波・播磨の五州ですから,ちょうど半分ですね。

頻繁にスキーに行っていたころ,この歌を知りました。長い歌(6番まであります)ですが,長野県人のお国自慢の歌ですね。山も川も人も,信濃の人たちの誇りなんでしょう。
ちょうど,大阪や神戸の人たちの『六甲おろし』のようなもの(?)でしょうか。

いまは新緑の季節,なにをするにも絶好のころです。紫外線だけには気をつけて,外に出かけましょうか。

タダの値段

むかし,無賃乗車(ただ乗り)を薩摩守といいいました。
これは狂言『薩摩守』で,渡し船に乗り,「平家の公達,薩摩守忠度(ただのり)」と言って,船賃を踏み倒そうとする話から来ていますので,由来は相当に古いです。

先月,大阪府寝屋川市のホームセンターで詰め替え用シャンプー3個(約2,000円相当)を万引したとして,府警高槻署の警部補(56)が逮捕されました。「金は持っていたが,払うのがもったいなかった」と容疑を認めています。逮捕時には数万円を所持していたそうです。

以前,定年間近の郵便局員が切手1枚を流用して,懲戒免職となりました。当然,退職金は支払われません。

上記の警察官も,同様に懲戒免職で退職金はもらえなくなるでしょう。

手に入れようとした(得しようとした)微少な金額に比べて,失った(損した)金額はなんと膨大なことでしょう。
まったく割に合いませんね。

私の通っているスポーツジムのパウダー・ルーム(化粧室)にはティッシュペーパーが常備されているのですが,すぐに無くなるのです。
観察していると,1度に多量引き出して,タオル代りに使っている人がいるのです。自分の家庭では決してそんな使い方はしないだろうに,と思うのですが,どうも無料で使えるとなると,無駄な使い方をする人が明らかに存在するのです。

いやしい心根が見え透いていて,私は好きではありません。

そもそも費用がかからないものなんてありません。
当然のこと,ジム側が経費を負担しているのです。
安いものでも積み重なれば大きな費用となります。

それより,有限な資源をできるだけ有効に利用するという観点からも,全てにおいて不必要な無駄使いは避けるべきなのです。
(必要な無駄使いは存在しないので,おかしな表現ですが…)

また,市などの公共の団体が,無料のパソコンやスマホ教室を開催していることがあります。
これも受講者は無料でも,当然,そのための経費は必要で,市民の血税でまかなわれているのです。

だいたい,タダで習いに来るような人たちは,一般的に学習能力が低く,結局,ものにならない,という場合が多いのも事実です。

実際,このようなことのせいで,高度な技術を提供していた良心的なパソコン教室がつぶれました。

公平な社会では,受益者負担の原則というものがあり,そのことによって利益を得る人は,そのための経費を負担するというのが,社会の原則だと思います。

言い換えれば,自分に必要なことには,身銭を切って,学ぼうとする気概がないと,ものにはなりませんよ。

やっぱり,良いものには,正当な対価を支払うべきです。

こんな話もあります。
ある専門的な情報を得たくて,高名 (?) な大学教授のところに,菓子折り1つを携えて,相談に訪れた人がいました。
訪問者が質問をすると,先生はその回答の提供に対する料金を説明したといいます。
訪問者は,大学の研究者が商売をするのか,と腹を立てて帰ったそうです。

この場合,国公立大学であれば,公務員が副収入を得ることは原則禁止されていますから,別の問題が発生しますが,無料で情報を得ようとする側も,なんと虫のいい話ではないでしょうか。

専門的な知識を持つためには,長期間にわたる学習と思考と経費がかかっている場合が多いのです。
具体的な物ではない,形のない情報に,価値を認めない傾向は,まだまだ存在しています。

タダより高いものはない」という格言もあります。
必要なものには相応しい対価を払って,公平で無駄のない生活をしようではありませんか。

こん回の曲は,季節がら,パット・ブーンの『4月の恋』(57)にしましょうか。

パット・ブーン(Pat Boone,1934-)は,フロリダ州ジャクソンビル出身,西部開拓史上の英雄ダニエル・ブーン(1734-1820)の子孫,清潔で折り目正しい唱法で人気を誇りました。代表曲は 『砂に書いたラブレター』(57)など。

彼と対極をなす同世代の歌手は,エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley,1935-77)で,貧困の幼少時代から一気にスーパースターまで登りつめ,ロックンロールの誕生と普及に大きく貢献しました。

最後に,この季節にふさわしい詩を,
ロバート・ブラウニング(1812-89,英)上田敏・訳

春の朝

時は春,
日は朝 (あした) ,
朝 (あした) は七時,
片岡に露みちて,
揚雲雀 (あげひばり) なのりいで,
蝸牛 (かたつむり) 枝に這ひ,
神,そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。

なんと平和な,春らしい,すがすがしい詩でしょうか。やっぱり上田敏(1874-1916)の訳詞はいいですね。海潮音に所蔵されています。

春は寒くもなく,暑くもなく,何をするにも絶好の季節です。
好きなことをして,この良き季節を満喫してください。

冬季オリンピックの思い出

いま韓国の平昌(ピョンチャン)で第23回の冬のオリンピックが2/9~25まで開催されています。

第1回大会は1924年にシャモニー(フランス)で行われました。

日本の初参加は第2回(1928)サンモリッツ(スイス)大会で,ノルディック6選手に監督1人,計7人でした。

第5回(1940)札幌,第6回(1944)コルチナ・ダンペッツォ(イタリア)は第二次世界大戦のために中止されました。

夏季大会でも,第12回(1940)東京,13回(1944)ロンドンが同様に中止になりました。

戦争がなければ,札幌,東京でもっと早くにオリンピックが開催できたのに,残念なことでした。
冬季大会は中止しても開催回数として数えていますが,夏季は飛ばしてカウントしています。

第16回1992年アルベールビル(フランス)までは夏季と同年開催
第17回1994年リレハンメル(ノルウェー)からは夏季の中間年に開催されています。

冬季オリンピックはやはり特別で,まだ南半球では開催されていません。

何といっても,強烈な印象を残したのが,初めての日本人メダルが銀で,しかも人気のアルペンスキーであったのです。

それは,第7回(1956)コルチナ・ダンペッツォ(イタリア)のアルペンの回転種目で,猪谷千春(1931-)が銀メダルを取りました。

千春さんは3歳から,父・六合雄(くにお,1890-1986)から英才教育を受け,といってもお父さん自身24歳でスキーに出会い,指導するための知識や技術がなかったのに,なにしろ結果を残しました。

この時代の人はすごくて,80歳でエベレストに登った三浦雄一郎(1932-)の父・敬三(1904-2006)は山岳写真家でしたが,100歳を過ぎてもスキーを滑りました。

猪谷が銀メダルをとったとき,アルペンスキー三冠(回転・大回転・滑降)を独占したのが,トニー・ザイラー(オーストリア,1935-2009)でした。

さわやかなイケメン(美男子)で映画に出演し,その影響でアマチュア資格に抵触するとされ,次のスコ―バレー五輪(1960)には出場できなくなり,本格的に俳優に転身しました。

白銀は招くよ』(59)で主題歌も歌って大ヒットしました。
銀嶺の王者』(60)では鰐淵晴子(わにぶち,1945-)と共演しました。
白銀に踊る』(61)でイナ・バウアー(独)と共演しました。トリノ(2006)の荒川静香の演技で有名になりましたが,美人選手でしたが,それほどの結果は残していません。

じつは,私は1961年からスキーを始めましたが,当時のゲレンデでは,『黒い稲妻』(58)というザイラー映画の影響か,全身が黒ずくめのウエアの人ばかりでした。

つぎの印象は,第11回(1972)札幌で70m級ジャンプで笠谷幸生(金),金野昭次(銀),青地清二(銅)はメダルを独占し,「日の丸飛行隊」と呼ばれました。

第16回(1992)アルベールビル(フランス)で,ノルディック複合団体(荻原健司・河野孝典・三ヶ田礼二)で金メダルを取りました。

この大会,複合の個人で,世界選手権では優勝を重ね,金メダルを期待された荻原でしたが,ジャンプでの風の影響で,メダルは取れませんでした。
この当時,日本はジャンプで先行し,距離で逃げきるパターンでしたが,日本人のジャンプが他国を圧倒していたため,以後ジャンプの点数が低く押さえられるルール改正につながりました。

複合では,前半のジャンプで瞬発力,後半の距離で持久力を必要とされ,総合的な運動能力が必要な競技なので,この種目の勝者には,ヨーロッパでは King of Ski の称号が与えられるそうです。

この大会,フィギュアスケート女子で伊藤みどり(69-)が,はじめてトリプル・アクセル(3回転半)を飛んで,銀メダルを取りました。
彼女のジャンプは高くて,4回転でも飛べそうでした。

第17回(1994)リレハンメル(ノルウェー)ではノルディック複合の団体(荻原健司・河野孝典・安倍雅司)で連覇しました。
ここでも,荻原は個人でメダルを逃しました。

第18回(1998)長野では,金メダルをとったのは5種目:
スキージャンプ個人ラージヒル 船木和喜
スキージャンプ団体 安倍孝信,斎藤浩哉,原田雅彦,船木和喜
スピードスケート男子500m 清水宏保
ショートトラック男子500m 西谷岳文
フリースタイルスキー女子モーグル 里谷多英

地元開催ということで,日本人も頑張ったんですね。

ちなみに,長野はオリンピック開催地としては最も南に位置する都市(北緯36°39.6′)ですが,大陸からの季節風と日本海と列島中央の高い山脈の影響で,豪雪地帯となっています。
南にあっても,雪を楽しめる(雪に苦しめられる?)土地柄なんです。

今回はやはり懐かしいこの歌『白銀は招くよ』にしましょう。映画の原題は ”12 Mädchen und 1 Mann “(12人の娘と1人の男),歌の原題は ”Ich bin der glücklichste Mensch auf der Welt”  (僕は世界一の幸せ者)です。

トニーザイラーの歌です。

日本語の歌詞は2種類あって

処女雪光る光る 冬山呼ぶよ呼ぶよ

子供向けの

雪の山はともだち 招くよ若い夢を

前者は,最近あまり聴かれなくなりました。NHKの子供番組の影響でしょうか。

この歌を聴いていると,猛烈にスキーに行きたくなってきます。昔は長いスキーをはいていましたが,今はカービング・スキーといって,短くて幅広のスキー板が一般的になりました。
道具一式を揃え替えるとなると,これまた大層ですね。

この季節,二十四節気では,
2月19日は雨水(うすい),冬の氷水が陽気にとけ雨水となって降る,の意。
3月6日は啓蟄(けいちつ),地中で冬眠した虫類が,陽気で地上に這いだす頃,で
いずれにしても,今年は久しぶりに寒い冬でしたが,もう春はそこまで来ています。
気候の変動が大きいこの季節,寒暖の変化に気をつけて,健やかにお過ごしください。

吉本とは

現在,NHKの朝の連続テレビ小説(朝ドラ)『わろてんか』は言わずと知れた吉本興業(2007年からよしもとクリエイティブ・エージェンシーというハイカラな名前に変っていますが)の創業者・吉本せいの一代記です。ドラマですから実際と異なるのは当然ですが,どこが違うか,見てみましょうか。

創業は1912年(明治45年),吉本吉兵衛(本名:吉次郎,通称:泰三)・せい夫婦が大阪市天神橋の「第二文芸館」を買収し,寄席経営を始めました。
1915年(大正4年)には傘下の端席のほとんどを「花と咲くか,月と陰るか,全てを賭けて」との思いから『花月』 と改名しました。
夫・吉兵衛(1886-1924)は,山崎豊子の小説『花のれん』などでは経営を妻に任せっきりの道楽亭主のように扱われていますが,実際は実質的な経営の指揮をとっていたようです。しかし1924年に急性心筋梗塞により37歳で亡くなっています。

吉本せい(1889-1950)は明石の生まれ,1910年の20歳の時に,大阪市内本町の「箸吉(はしよし)」の息子吉本吉兵衛と結婚(実際には1907年の18歳のころから事実婚状態でした)。
2男6女をもうけますが,そのほとんどが早逝し,次男・泰典(後に改名し頴右)は歌手・笠置シヅ子と恋仲となりますが,猛反対を受け,1947年23歳で没後,実子・亀井エイ子が生まれています。

1917年,せいの実弟・林正之助(1899-1991)が入社し,亡くなるまで吉本を支えます。ドラマの従兄の風太ではなく,実弟の林正之助が大番頭でした。ちなみに吉本家の家業は荒物問屋であり,林家は米穀商です。吉本・林両家の確執が相当あったようです。

1932年,吉本興業合名会社が発足し,せいが社長,2人の弟,林正之助が大阪吉本,林弘高が東京吉本を率いる体制が確立します。
林弘高は欧州を視察し,その影響で,東京ではモダン・ハイカラ路線をとり,レビューやショウを上演して,演芸の大阪に対抗します。ドラマでは息子・隼也の役どころです。

演芸だけでなく,戦前は,巨人軍を他社と共同で設立して草創期のプロ野球界を支え,戦後は日本プロレス協会を立ち上げて力道山をスターにしました。
元々は全国で寄席・劇場・映画館経営を手がける興行会社であり,戦前は松竹・東宝・吉本で三大興行資本と称されました。

ドラマの伊能は小林一三(1973-1957),阪急電鉄,宝塚歌劇団,阪急百貨店,東宝の創業者で関西の大物ですが,残念ながら吉本せいとの恋愛的な接触はありません。しかし,吉本と東宝が提携し,それを松竹が不快に思って芸人を引き抜く,という事件がありましたから,仕事の話はしたははずです。

月の井団吾は明らかに爆笑王といわれた初代桂春団治(1878-1934),無断のラジオ出演で,謹慎処分を受けた事実があります。

ドラマのキースは横山エンタツ(1896-1971)らしいのですが,エンタツが吉本に入ったのは1930年,ですから既に吉兵衛は亡くなっており,花菱アチャコ(1897-1974)と組んで「しゃべくり漫才」をやり,「早慶戦」などで人気をはくしました。

ドラマのリリコはミスワカナ(1910-46),女義太夫師でも映画女優でもなく,根っからの漫才師です。
シローは玉松一郎(1906-63),舞台でアコーディオンを弾きましたが,それほどの腕ではありませんでした。

所属する芸人は,桂春団治,横山エンタツ・花菱アチャコをはじめ,兵隊落語の柳家金語楼,三味線漫談の柳家三亀松,「あきれたぼういず」の川田義雄,ミスワカナ・玉松一郎など東西に多数いました。

戦後の吉本は,1959年(昭和34年),うめだ花月を開場,花菱アチャコ主演の吉本ヴァラエティ「迷月赤城山」を,同時にテレビ放送を開始した毎日放送と提携し,同社に舞台中継させました。1962年に京都花月,1963年になんば花月を開場,吉本ヴァラエティは,1962年に吉本新喜劇と名前を変え,白木みのる,平三平,ルーキー新一,花紀京,岡八郎,原哲夫,桑原和男,財津一郎らを続々と生み出しました。

この時期,じつは私個人は,吉本よりも松竹新喜劇を見ていました。吉本のワンパターンのドタバタよりも,松竹の人情喜劇の方が面白かったのです。
松竹新喜劇の発足は,1948年の中座で,当初は曾我廼家十吾浪花千栄子も参加していましたが,私の見ていたころは,渋谷天外,曾我廼家明蝶,曾我廼家五郎八,酒井光子,藤山寛美,小島秀哉,小島慶四郎,四条栄美など,役者がそろっていました。1965年,天外が倒れてからは,寛美が一枚看板となり徐々に衰退していき,1990年の寛美死去によって急激に衰退しました。

しかし,吉本の花菱アチャコが松竹出の浪花千栄子と夫婦役で組んでラジオで大活躍するのは皮肉なものです。

もっと皮肉なのは,花菱アチャコが戦後も大活躍するのに,横山エンタツはほとんど活躍せずに消えてゆきます。

さて,冬の寒い夜は懐かしいこの歌にしましょうか。

冬の夜』作詞・作曲者不詳「尋常小学唱歌(三)」(1912)

燈火ちかく衣縫う母は
春の遊びの楽しさ語る
居並ぶ子どもは指を折りつつ
日数かぞえて喜び勇む
囲炉裏火はとろとろ外は吹雪

囲炉裏のはたに縄なう父は
過ぎしいくさの手柄を語る
居並ぶ子どもはねむさ忘れて
耳を傾けこぶしを握る
囲炉裏火はとろとろ外は吹雪

今年の冬は久しぶりに寒い冬となりました。
私個人としては,海外で冬に‐15℃を体験しているのですが,暖房が不十分なせいでしょうか,年齢のせいでしょうか,今年はとても寒く感じます。
あちこちで積雪による大変な事態も起きています。
寒さ対策は十分ですか?風邪などは引いていませんか?
この時期,体調を崩すと更に大変になりますので,十二分に気をつけましょう。
こんな時こそ,家にこもってないで,運動をするのが良いのです。胸を張って散歩も良し,スローランニングも良し,もう少しで間違いなく春がやってきますので,頑張りましょう!

日本人のわざ

日本では,手先で物を作る仕事を極める職人を匠(たくみ)と称し,とくに大工の頭を棟梁と呼び,昔から皆から信頼され尊敬されてきました。

ドイツではマイスター(Meister),イタリアではマエストロ(maestro),米英ではマスター(master)と呼ばれていますが,国によって表現の感じが異なっています。

マイスターと言えば,社会的にも確立した親方で,ワーグナーの楽劇『ニュルンベルグのマイスタージンガー(職匠歌人)』で有名です。
マエストロと言えば,本来は巨匠という意味ですが,世界中で,敬意をこめて指揮者に対して用います。
それに比べて,マスターは喫茶店の店主みたいに,軽く使われているようです。

さて,いまTVドラマ『陸王』が話題です。
池井戸潤(1963-)の原作で,半沢直樹,下町ロケット,ルーズベルト・ゲームにつづく人気ドラマになっています。
あらすじは,老舗の足袋製造業者がランニングシューズの開発に挑戦する奮闘を描きますが,じつはこれには有名な実在の人物たちがいます。

日本人が初めてオリンピックに参加したのは1912年の第5回ストックホルム(スウェーデン)大会でした。参加者は選手は三島弥彦(短距離)と金栗四三(マラソン),役員は加納治五郎(団長)と大森兵蔵の計4名でした。

金栗四三(かなぐり  しぞう,1891-1983,92歳没)はその前年,マラソン足袋をはいて世界最高記録を樹立して本番に臨みましたが,レース途中で日射病で意識を失ない,近くの農家で介抱されて,ゴールできませんでした。

1967年,金栗選手はスウェーデンのオリンピック委員会から,ストックホルム五輪55周年の記念式典に招待され,関係者から促され,競技場でゆっくり走って用意されたゴールテープを切りました。そのとき,場内アナウンスがあり,「日本の金栗,ただいまゴールしました。時間は54年8ヶ月6日32分20秒3,これをもって第5回ストックホルム・オリンピックの全日程を終了します」。
まことに,なんと粋な計らいでしょうか。

このマラソン足袋を開発したのが播磨屋(はりまや)足袋店(後のハリマヤ)の黒坂辛作(しんさく,1880-)でした。金栗と共同して改良をかさね進化させました。

1936年,ベルリン五輪で,このマラソン足袋(金栗足袋)をはいて日本代表の孫基禎(そんきてい,朝鮮籍,1912-2002)がマラソンで金メダルをとりました。

敗戦後の1951年,米・ボストンマラソンで田中茂樹(当時19歳)がマラソン足袋で優勝しました。これは,2年前に設立した鬼塚(オニヅカタイガー,現アシックス)の製品でした。

ドラマでは100年つづく老舗足袋店となっていますが,創業当時すでに実際はマラソン足袋は作られていたのです。

金栗さんは,箱根駅伝の開催に尽力し,日本に高地トレーニングを導入したり,日本のマラソン界の発展に大きく寄与し,「マラソンの父」と呼ばれています。
グリコの1粒300mのモデルとも言われています。

東京オリンピック前年の2019年のNHK大河ドラマ『いだてん』は金栗さんをモデルにした物語だそうです。

今回の歌は,さわやかなこの曲にしましょう。

いずみのほとり
・深尾須磨子 作詞
・橋本國彦 作曲

水よ水よ きれいな水よ
水よ水よ きれいな水よ
青い空や すすきのかげをうつしている
水よ水よ 秋の水よ
水よ水よ 秋の水よ

むかしむかし いずみのほとり
天使たちが 子羊たちと 遊びました
むかしむかし 今は むかし

水よ水よ きれいな水よ
水よ水よ きれいな水よ
青い空や とんぼのかげをうつしている
水よ水よ 秋の水よ
水よ水よ 秋の水よ

深尾須磨子(1888-1974) 兵庫県生れ,詩人・作家・翻訳家。

橋本國彦(1904-1949) 東京生れ,作曲家・ヴァイオリニスト指揮者。

秋も深まってきました。今年は夏から秋もそうでしたが,秋から冬への季節の変わり方が,余りに急なようです。

気候の変化には十分に気をつけて,風邪など引かないように,元気にお過ごしください。

北斎の世界

いま,TVでも葛飾北斎の話題でもちきりです。その原因の一つは,大英博物館  国際プロジェクト  展覧会「北斎  ―  富士を超えて」が大阪のあべのハルカス美術館で開催(10/6-11/19)されています。
つまり,大英博物館の所蔵する北斎の作品展です。
行ってきましたが,すごい人出でした。

1999年に,アメリカ合衆国の『ライフ』誌の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で日本人で唯一,86位にランクインしました。北斎は世界に認知された大芸術家なのです。

たとえば,印象派のゴッホ(蘭,1853-90)やモネ(仏,1840-1926)に影響を与え,作曲家ドビュッシー(仏,1862-1918)は『神奈川沖浪裏』に誘発されて交響詩「海」を作曲しました。

大物らしく,奇妙なエピソードにこと欠かず,
改号すること30回,転居すること93回,飲酒も喫煙もしない,耳が大きく,身長180cmの大柄,六尺の天秤棒を杖代わりに,食事・衣装・金銭に無頓着,不作法で,気位が高く,富や権力でも動かない,数え90歳(卒寿)没と長命でした。

同時代同業の37歳年下の安藤(歌川)広重の来訪を受けた時も,そっけない応対で立腹させ帰らせてしまいました。これは,弟子にしてほしいという申し出に,既に一人前である,と認めていたから,といいます。
実際,『富嶽三十六景』の出版の2年後に,広重の『東海道五十三次』が大評判となったのでした。

葛飾北斎(1760.10.31-1849.5.10)は武蔵国葛飾文書割下水(現東京都墨田区)に貧しい百姓の子として生まれました。
勝川春草の門下となりますが,狩野派や唐絵・西洋画なのどの画法を学び,そのため勝川派を破門されます。

三女お栄(葛飾応為)は絵師に嫁ぐも,その絵を批判し離縁され,その後生涯北斎と起居を共にし,助手を務めました。色彩感覚に優れており,北斎晩年の作は,応為の代筆によるものと考えられています。

主な作品
・『北斎漫画』初編(1814,53歳)

・『富嶽三十六景』(1923-33,62-72歳)10年かけて完結
そのなかでも,有名なのは

・『神奈川沖浪裏』通称:大浪,大波(the Great Wave)
普通の肉眼では波頭はこの絵のようには見えません。1/5000でシャッタを切るとこのように見えました。これまでの機械式のシャッタでは最大でも1/2000までしか撮れませんでした。
北斎の目は電子シャッタの領域の,まさに神の目だったのです。

・『凱風快晴』通称:赤富士(the Red Fuji)
・『山下白雨』通称:黒富士(the Black Fuji)

信濃国高井郡小布施の高井鴻山の招きで晩年の4年間(1844-48)小布施に住み,
・祭屋台の天井絵『怒涛図』などを描きました。

北斎の臨終のときの様子は次のように書き残されています。

翁 死に臨み大息し
天我をして十年の命を長らわしめば 」といい
暫くして更に言いて曰く
天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得(う)べし 」と言吃りて死す

これは,「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間,命長らえることを私に許されたなら』と言い,しばらくしてさらに,『天があと5年の間,命保つことを私に許されたなら,必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」との意味です。

日常の生活を健康的に過ごしたとはとても言い難い北斎が,当時としては異例の90歳まで,なぜそんなに長生きできたのか,不思議に思われていますが,絵に対する飽くことのない探求心・向上心という意欲が長生きの大きな源泉だったのでは,と思います。

辞世の句は,

人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原

その意,「人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか」というものでした。

今回は富嶽三十六景にちなんで,この歌,唱歌『ふじの山』にしましょう。

ふじの山』巖谷小波・作詞 作曲者不詳 尋常小学読本唱歌(1910)

あたまを雲の上に出し 四方の山を見下ろして
かみなりさまを下にきく ふじは日本一の山

青ぞら高くそびえたち からだに雪のきものきて
かすみのすそをとおくひく ふじは日本一の山

巖谷小波(いわや  さざなみ,1870-1933)東京出身,明治・大正の作家・児童文学者・俳人。『一寸法師』の作詞も。

今年のノーベル平和賞はICANに決まりました。
ICANとは,核兵器廃絶国際キャンペーン(International Campain to Abolish Nuclear Weapons)の略称で,スイスのジュネーブに本部をおく国際NGO(非政府組織)で,60ヵ国以上の団体が参加しています。
核戦争防止国際医師会議(1985年ノーベル平和賞受賞)のオーストラリアの運動から派生したNGOで,2007年に正式に発足しました。
今年7月に国連で「核兵器禁止条約」が採択されたのですが,常任理事国(米・英・露・仏・中)など核を保有する国々は批准していません。唯一の被爆国である日本も批准していません。アメリカの核の傘に依存する日米安保条約のもとでは賛成できないのでしょうが,国民感情としてはおかしな話です。

世界の軍事力ランキング(Global Power:2017)

1.アメリカ
2.ロシア
3.中国
4.インド
5.フランス
6.イギリス
7.日本
8.トルコ
9.ドイツ
10.イタリア
11.韓国

23.北朝鮮

1位から6位までは核保有国です。非核保有国では日本が最大の軍事力を保持していることになります。

ただし日本憲法9条は以下のとおりです。

第9条  日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。

2   前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。

衆議院選挙が終わりました。自民党の圧勝でした。
安倍政権は,争点として,北朝鮮の脅威,をあげました。この機会に,自衛隊を国軍に昇格させて,軍事力を増強して「普通の国」になりたい思いが頑強にあります。
しかし,軍事費を増大させて,軍事力を強化しても,緊張を増幅させるだけで何の解決にもなりません。

トランプ政権は,安倍政権以上に無茶苦茶な政権ですから,何をやりだすか分りませんが,もし戦争を勃発させても,簡単には問題は解決しません。それはこれまでの幾つも過去の戦争を見てきて分ることです。大勢の人が死に,混乱を増大させて,紛争が泥沼化し,経済は疲弊し,良いことは何一つ起こりません。

衆院選の投票率は全体で53.51%でした。18,19歳では41.51%,19歳に限ると,なんと32.34%しかありませんでした。
大型台風直撃の影響はあったにせよ,非常に残念な結果でした。もっと自分たちのこと,そして社会のことを真剣に考えないと,知らない間に,おかしな方向に進められてしまう,危険性があります。

選挙に行った若者のなかに,「選挙に行かないで国政を批判するのは無責任だ」と発言した人がいました。そのとおりです。世の中が良くなって行かないのは,国民が良くなりたいという意見を発信しないからです。

今年の秋は,台風の影響もあって,長雨が続きましたが,体調はいかがですか。気候が変動すると体調もおかしくなることが多いので,くれぐれも気温変動には気をつけて,元気にお過ごしください。

役に立つ

役に立つ」とは,その事のために十分適している,用をなすに足る,という意味で使われています。「この機械は古いがまだ役に立つ」と物にも使われますが,「世の中の役に立つ」とか「人の役に立つ」などと人に対して使われることが多いです。

 現在放映中のTVドラマ『ごめん,愛してる』は,韓流ドラマの焼き直しらしいのですが,親に捨てられて孤児院で育てられ,韓国ヤクザの世界に身を置いた主人公が,余命3ヶ月の宣告を受け,最後に母に会いたいと,日本に戻ってきます。
子を捨てるぐらいだから,母は経済的に困っているはずと,大金を手に戻るのですが,弟がいて,アイドルピアニストとして売り出し中で,豊かな暮らしをしているのでした。
このあたりは,長谷川伸(1884-1963)の『瞼の母』に設定が似てますね。
主人公の思いは一つ,人の「役に立つ」ことでした。

人間たるもの,生れて来たからには,何かの役に立ちたい,せめて少しでも人の役に立ってから死にたいと思うのは自然です。
特に,先が見えてきたら,そういう思いが強くなるのはよく分ります。

人類が進化してきたのは,二足歩行して,手が自由になり高度な動作が可能となった反面,逆に起立したことによって骨盤に圧迫され産道が狭くなり,出産すら独りではできず,仲間の手助けを必要としました。この共同作業を必要とする生き方が人類を発展させた大きな要素だったのです。
そういう意味では,陸上競技の100m×4リレーで,日本選手が,個々の力では劣るのに,先の世界大会では銀メダル,ユニバーシアード大会ではアメリカを抑えて堂々の金メダルを獲得する快挙をなしとげたのは,まさにこの助け合いの精神が生かされたからでしょう。
共同作業や連帯が得意な日本人が,これからも活躍できる場面は多くありそうですね。

「役に立つ」の反対語は,「役立たず」でしょうか。
これは相当に強い言葉で,もし,こう言われたら,人間としての能力を,全否定されたようで,衝撃です。

以前,カナダで,厳しい語学教育をすることで有名なクィーンズ大学キングストン校で英語教育を受けたことがあります。
ディベート(debate,討論)の時間に,高齢者問題を取り上げたとき,メキシコから来た若い女子が「老人は役立たず(useless)」と発言し,「彼らの経験と知識は役に立つ」などと厳しく反論されておりました。こんなことを高齢社会の日本で発言したら,とんでもないことになりますね。
しかし,若い人の本音なんでしょうか。近い将来,自分もそうなるのにね。

今回の歌は『浜辺の歌』です。

 林古渓(こけい)作詞 成田為三・作曲(1916)

あした浜辺をさまよえば
昔のことぞ忍ばるる
風の音よ 雲のさまよ
寄する波も かいの色も

ゆうべ浜辺をもとおれば
昔の人ぞ忍ばるる
寄する波よ かえす波よ
月の色も 星のかげも

林古渓(1875-1947)は林羅山に連なる学者の家系で,本名は竹次郎,東京・神田出身の歌人・作詞家・漢文学者。

成田為三(1893-1945)は秋田出身の作曲家。秋田師範を卒業後,1年間小学校で教鞭をとった後,東京音楽学校(現東京藝術大学)に入学,山田耕筰に師事,在学中に『はまべ(浜辺の歌)』を作曲,ドイツに4年間留学,多くの管弦楽曲,ピアノ曲を作曲しました。初期に作った童謡が代表作のように扱われて,本格的な作曲技法を見につけたご本人としては不本意だったと思いますが,日本人に広く親しまれていつまでも愛唱される『浜辺の歌』は名曲で,それは名誉なことでしょう。

秋は変化の季節,9月は台風もあり,気象変化には繊細に対応する必要があります。毎日の気温変化には気を付けて,ふさわしい衣服の選択をしましょう。秋雨前線が発達してきて,そこに台風が重なったりすると,大きな災害を引き起こす危険があります。9月は防災の月でもあります。大雨がふったら車や自転車は控え,不急の外出も控えた方が安全でしょう。

この季節は,おいしい食べ物が豊富な食欲の秋,秋空のもとスポーツの秋のシーズンです。
食事と運動は健康のみなもと,食べ過ぎには注意して,適度な運動をして,元気にお過ごしください。