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競うこと

「人生は競争だ」という台詞(せりふ)はよく聞きますね。そうではない,と否定する人もいますが,競争にさらされているのは事実です。
競うことで成長するということも確かにあるでしょう。

そのせいか,テレビでも,競い合いを見せる番組が大流行です。
プレバト!!」(これはプレッシャー・バトルの略?,精神的な圧迫の中で競争させる,意か),いろいろの競争対象がある中,「俳句の才能査定ランキング」というのが面白いんです。選者というか批評家というか,夏井いつき(1957-)という先生が,名前を伏せた人たちの作った俳句を査定してランキングするんですが,その辛口というか,毒舌というか,辛辣というか,なにしろその表現が半端ないんです。よくぞあれだけボロクソに言えるな,というくらい上手にケナスんです。まあ,それが売り物で,番組も好調で,著作本も売れ,「俳句の普及に貢献した」ということで表彰もされているそうです。

THEカラオケ☆バトル」というカラオケマシンで歌唱を採点する番組も人気です。この機械は第一興商(DAM)の製品ですが,音程正確率・表現力・リズムなど多項目で評価しているようです。
このマシンのだす評価がけっこう的確で,私個人の思う評価と近いので,採点結果に納得してしまうのです。 

人間が評価するとき,客観は無理で,主観的にならざるを得ません。つまり好き嫌いが必ず結果に反映されるということです。
コンクールなどで,審査員達の評価が併記されていたりしますが,個々で評価が全く違ったりしています。これでは採点される方はたまったものではありません。参加者の皆さんは納得されているんでしょうかね。
これがコンクールに対する基本的な不信感です。芸術に簡単に優劣がつけられるのか,という本質的な疑問です。

同じような番組ですが「関ジャニの仕分け∞」の中で,ピアノ演奏を競うものがあります。これは,ミスタッチの数を数えて少ない方が勝ち,という単純なものです。
しかし,これは明らかに邪道です。

もちろん,ミスタッチはないに越したことはありませんが,実際のピアノ演奏会では,奏者のミスタッチは必ずといっていいほど発生しますが,それだけで演奏の出来を評価できません。少々のミスがあっても,感動を与える良い演奏というものはあるわけで,それが生の魅力でもあるのです。
ミスのない演奏を聴きたいなら,CDを聴けばよいのです。

さらに,「芸能人格付けチェック」という,番組名からして変なのもあります。味覚・視覚・聴覚などの判断を求めるもので,結果によって,一流・二流・三流などと勝手に格付けされるというおかしな内容です。
面白くもない似たような番組が並ぶ正月に,よく放映されていて,しかたなく見ていましたが,この秋に,音楽に特化してやっていました。

楽器演奏をして,楽器の値段が高い方を当てる,というものがあり,市場価格18億円のストラディバリウスと20万円のバイオリンでは,さすがに音色に差がでました。

しかし,プロフェッショナルとアマチュアとの演奏比べには,大いに疑問が残りました。
ニューヨークの名門音楽大学などで学び,数々の賞を受賞している世界的なソプラノ歌手と称する人と,アマチュアの歌手がオペラのアリアを歌い比べました。
すると,全員(6人でしたか)がこれこそプロと判断した人が,実はアマチュア歌手の方だったのです。私も聴いていて,プロという人は,あきらかに音程がぶら下がり(その音に達してない,低い)聴きづらかったのです。
アマの人の方が上手いと全員が判断したので,その結果は正しいのです。
司会者は,みなさん全員,耳鼻科に行ってください,と笑ってごまかしましたが,これは明らかに制作側のミスです。その程度の歌手を,肩書だけで連れてきたのが失敗でした。

スポーツの世界で,時間や距離で結果を判定する競技には,誰もが納得して,勝者を称賛します。
しかし,技術点と芸術点で審判員が採点する競技は,いつも疑問が残ります。

フィギュアスケート,体操,シンクロナイズドスイミングなど,いやこれは最近アーティスティックスイミングと名称を変えました。これは芸術的な面を強調することで,余計に判定評価を難しくしたのではありませんかね。

フィギュアスケートの伊藤みどり(1969-)は1992年のアルベールビルオリンピックで,トリプルアクセル(3回軒半)を世界で初めて飛びましたが,銀メダルに終わりました。身長が145cmしかなく,脚もO脚ぎみという,典型的な昔ながらの日本人体型で,技術点が高くても芸術点が低いという,損な対応を受けました。

また,空手組手という種目があり,では審判が採点します。見ていると選手の気合に圧倒されますが,空手という実践的な武道が,点数化して評価することには違和感があります。

かつて,嘉納治五郎(1860-1938)が明治期に柔道を創設し,それまでの柔術が型を重視していたのを,実践的な乱捕りで練習することで競技力を高め,柔術を駆逐した経緯があります。

たとえば,美人コンテスト(beauty contest)などは,生まれつきの容姿だけで判定されるきらいがあるので,批判の対象となっていましたが,今は逆に,表面的な美醜をことさら言いたてる情けない世の中になってきているようです。

今回の歌は季節がら『故郷の空』にしましょう。

故郷の空
大和田建樹・作詞 スコットランド民謡(1888)明治唱歌(1)

夕空晴れて 秋風吹き
月影落ちて 鈴虫鳴く
思えば遠し 故郷の空
ああ わが父母 いかにおわす

澄みゆく水に 秋萩垂れ
玉なす露は ススキに満つ
思えば似たり 故郷の野辺
ああ わが弟妹 (はらから)  たれと遊ぶ

原曲はスコットランド民謡 ”Comin’ Thro’ the Rye” (ライ麦畑で出逢うとき)で,大和田建樹(1857-1910)が歌詞をつけました。ザ・ドリフターズで有名になった「誰かさんと誰かさんが麦ばたで…」の歌詞は,なかにし礼(1938-)の作詞で,むしろ原曲に近いとされています。

これからは秋本番。ということは冬に向かう寒い日と,「小春日和(こはるびより)」といわれるような暖かい日があったりしますから,気象予報には注意して,風邪など引かないように,元気にお過ごしください。

おおさか弁

NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)はこの10月からは大阪編で,『まんぷく』が始まります。

いわずとしれた日清食品の創業者・安藤百福(ももふく,1910-2007)がモデルです。「ラーメンは健康食」というが安藤の口癖で,「毎日ラーメンを食べているから健康長寿を保っている」と言い,96年の生涯でした。もとは台湾人(呉百福)ですが,1966年に日本国籍を取得しています。
1958年,池田市の自宅敷地内で,妻・仁子(まさこ)とともに,1年あまり失敗を繰返し苦労を重ねて,ついにインスタントラーメン(即席めん)「チキンラーメン」を開発しました。
今もその地に「発明記念館」が建っていて,来場者が自らチキンラーメンを製作して,それを食べることができるようになっています。

チキンラーメンの初体験については,明瞭な記憶があります。恐らく発売して直ぐのころだと思いますが,母が買って来たのを,今のように「丼に入れて湯を注いで3分間待つ」のではなくて,鍋で沸かした湯に乾燥した麺を投入し,ほぐしてもらったおかげで,麺が縮れなく上手に戻って,非常においしく感じ,追加をお願いした経験がありました。
しかし,いま食べてもそれほどおいしいとは思いません。なぜでしょうかね。

朝ドラですが,主人公は3女の今井福子安藤サクラ),長姉は内田有紀)ですが,内田はいま同時期に大河ドラマ『西郷どん』で大久保一蔵の愛人・芸妓「ゆう」役で出ています。大阪ことば(大阪弁)と京ことば(京都弁と言ってはなりません)を同時期に使い分けるのは,至難の業でしょうね。

愛人といえば,貧しさのため薩摩から売られてきた「ふき」(高梨臨)が「およし」と名のり,一橋(徳川)慶喜の側室になりました。
じつはこの「」は実在の人です。薩摩出身ではありませんが慶喜の妾でした。新門辰五郎(1800?-1875)の娘です。辰五郎は江戸の町火消し「を組」の頭で侠客でもあり,慶喜が上洛すると,彼から呼ばれ,子分を連れて二条城の警備にあたり,大政奉還後は,慶喜が謹慎する上野寛永寺の警護,慶喜が水戸・駿府と移り謹慎すると,それぞれ警護を務め,清水次郎長とも知縁があったと伝えられています。

ここで幕末・維新に有名な愛人系の女性を並べてみましょうか。

まず芸妓「幾松」(1843-86)が有名ですね。桂小五郎の恋人です。維新後に桂と結婚,木戸松子となりました。

つぎに「唐人お吉」(1841-90)。初代アメリカ総領事ハリスが体調を崩し,看護婦の派遣を要請したが,日本には看護婦はおらず,なぜか妾と混同して,芸者のお吉に白羽の矢があたり,3ヵ月後にハリスは回復してお吉は返されたが,外人に身を許した女ということで,世間の対応は冷たく,結局,耐え切れず自殺しました。

そして芸妓「うの」(1843-1909)。下関で芸者をしているとき,高杉晋作に出会い妾となり,高杉が長州から逃避行する際,ずっと同行し,高杉の死後は,高杉の名を汚すことのないように,半ば強制的に出家させられ,梅処尼と称し,生涯,高杉の菩提を弔いました。

話はかわりますが,いまテニスの大坂なおみの話題で沸騰しています。
全米オープンで優勝したあくる朝,大新聞の第1面に「100年の夢 大坂V」の大きな見出しがでました。
1916(大正5)年, 熊谷一弥・三神八四郎が全米オープンの前身である全米選手権に出場してから102年後の快挙です。

優勝後,各局からのインタビューに引きまわされ,同じような質問を繰り返され,それでもつたない日本語で本音で答えている姿がけなげでした。これを「大坂弁」と称します。
つまり,どこかの首相のように「謙虚丁寧な取組みを行って参りたい」などと,現実とはかい離した中身のない紋切り型の慇懃無礼な答弁で,論語にある「巧言令色少なし仁」の見本のような態度とは対極にある,正直な受け答えなので,なおみ大坂弁にみんながはまるのです。

サッカーの「大迫半端ない」という有名なシーンがありましたが,そのパロディがあるのを,ご存知ですか?
外国人の女性が泣きながら「大坂半端ない」と言うんです。もちろん日本語しかもベタベタの大阪弁の吹替えですが,場面は同じように進行し,最後に監督が笑いながら「大坂を応援しよう」で終わる,日清食品のCMです。大坂は錦織同様に日清食品の所属ですからね。

日本の秋は「十五夜」にお月見を楽しむことことでした。旧暦の秋(7・8・9月)の最中(もなか)に当るから中秋といいます。また月に芋を供えるので芋名月とも呼ばれます。旧暦8月15日が中秋の名月,今年は9月24日になります。
十五夜の後,だんだん月の出が遅くなるので,月の出を待って呼び名が変って行きます。

16日 十六夜(いざよい)ためらうように出てくる意
17日 立待月(たちまちづき)
18日 居待月(いまちづき)
19日 寝待月,臥待月(ふしまちづき)
20日 更待月(ふけまちづき)

今回の歌は「十五夜お月さん
野口雨情・作詞 本居長世・作曲 『金の船』(1920)

十五夜お月さん
ご機嫌さん
婆やは お暇 とりました

十五夜お月さん
妹は
田舎へ 貰られて ゆきました

十五夜お月さん
母 (かか) さんに
も一度 わたしは 逢いたいな

今年は猛暑の影響で,台風がひっきりなしに日本列島を直撃して,被害も相当です。
久しぶりに停電の経験をしました。現代社会では,電気がないと何もできないことに改めて気づきました。
天災は忘れた頃にやってくる」は寺田寅彦(1878-1935)の言葉と言われていますが,いまは「忘れぬうちにやってくる」状態です。
備えあれば憂いなし」ですので,「自分は大丈夫」的な根拠のない思い込みは止めて,出来る範囲の準備をしましょう。

話せる英語

いまや話せる英語,使える英語への要求が半端ないですね。学校教育でも英会話に力を入れていて,基礎となる文法は大丈夫?とつい思ってしまいます。

話せる英語の極端は,車夫英語でしょうか。
明治の文明開化の世になって,いきなり外国人に接する機会が増え,人力車の車夫たちはお客の英語を耳で聞いて,そのまま発音しました。

たとえば,

魬(ハマチ)       How much?   いくら?
赤飯(セキハン)     Shake hand.   握手して
知らんぷり(シランプリ) Sit down, please. 座って下さい
掘った芋(ホッタイモ)  What time?   何時?
揚げ豆腐(アゲトウフ)  I’ll get off.    降ります 
お仕舞いか(オシマイカ) Wash may car.  車を洗って

これが意外に通じるのです。
本を読んで綴り字から学んだのが書生,これを書生英語といってあまり通じなかったのです。

たとえば,
人名で ”Hepburn” では,「ヘボン」といえばヘボン式ローマ字,「ヘップバーン」と発音すると女優のオードリ-・ヘップバーンを指し,前者を車夫英語,後者を書生英語と言ってもいいと思いますが,もちろん,前者の方が通じます。

幕末から明治維新にかけて活躍したジョン万次郎中浜万次郎,1827-98)は,土佐の漁師で,14歳のとき,出漁中に難破して漂流,米国の捕鯨船に助けられ,本土に渡り,船長ホイットフィールドの養子となり,米国で学び,10年後に帰国,薩摩藩や土佐藩,さらに幕府に仕え,のち開成学校(現東京大学)教授となりました。
口語の通訳としては有能でしたが,日本語の学習経験がなかったため,英語の文章を日本語(文語)に訳すのは不得意だったそうです。

万次郎の編纂した英語辞書の発音にも,

こーる   cool
わら    water
さんれぃ  Sunday
にゅうよぅ  New York

などがあるのですが,不思議なことにこれがまたチャンと通じるのです。

さらに,グッとくだけて,深夜番組『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)で,タモリの「誰が言ったか知らないが、言われてみれば確かに聞こえる〈空耳アワー〉のお時間がやってまいりました。」で始まる,まことにふざけたコーナーがあります。
2018.5.12(00:20-00:50)放送,レイ・チャールズの「愛さずにはいられない(I can’t stop loving you)」を流して,映像は
バスタオルをまとって,お風呂から出てきた女性,そのバスタオルをとって,Tシャツを着ると,スマホに非通知の着信が,「拝見したわ,美乳」,ハイケンシタワビニュウ(アイキャンストップラビングユー),だと!
こじつけにも程がある,というものです。

今回の歌は,そのレイ・チャールズに敬意を表して,「わが心のジョージア(Georgia On My Mind)1960」にしましょうか。

Georgia, Georgia
The whole day through
Just an old sweet song
Keeps Georgia on my mind
I’m say Georgia, Georgia
A song of you
Comes as sweet and clear
As moonlight through the pines
Other arms reach out to me
Other eyes smile tenderly
Still in peaceful dreams I see
The road leads back to you
I said Georgia
Oh Georgia, no peace I find
Just an old sweet song
Keeps Georgia on my mind
Other arms reach out to me
Other eyes smile tenderly
Still in
 
レイ・チャールズ(Ray Charles Robinson,1930-2004)は,アメリカ・ジョージア州出身の盲目の黒人歌手・ピアニスト,バック・コーラスを背にピアノを弾きながら熱唱するのがスタイルでした。
20年近く麻薬を常用していましたが,1965年に更生施設に入所し,ヘロインを断つことに成功しました。
1979年にその「わが心のジョージア」が洲歌に定められました。2004年に伝記映画「レイ(Ray)」が公開されましたが,それを見ることなく,その年に肝臓癌で死去しました。
 
長い猛暑の夏もようやく終わりを告げ,
 
 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる
                  藤原敏行(古今和歌集)
 
というような季節になってきました。
こういうとき,夏の疲れが出やすいものです。しっかり食事して,しっかり休養をとって,夏バテした体力を回復させるときでもあります。
気温の急変には気をつけて,元気にお過ごしください。
 

私たちはどう生きるか

私たちはどう生きるか」ということは幾つになっても,とても大事な人生の課題です。

子供に読ませたい本として長きに渡って評価され続けているのが,吉野源三郎君たちはどう生きるか』岩波文庫(1937)です。

この1937年(昭和12年)という時代は

1931  満州事変
1937  盧溝橋事変
1939  第二次世界大戦勃発
1941  太平洋戦争勃発

日本の軍部がいよいよアジア大陸に進攻を開始して,国内では軍国主義が日ごとにその勢力を強め,ヨーロッパではムッソリーニ(伊,1883-45)やヒトラー(独,1889-45)が政権をとって,ファシズムが諸国民の脅威となり,第二次世界大戦の危険は暗雲のように全世界を覆っている頃でした。

1935年10月に山本有三心に太陽をもて』が新潮社から出ました。これは山本の編纂による『日本少国民文庫』全16巻の第12巻で第1回の配本でした。だいたい毎月1巻ずつ出して,1937年7月に完結し,それが吉野『君たちはどう生きるか』第5巻で,最後の配本でした。

日本少国民文庫』の刊行は,このような時勢を考えて計画されたものでした。
当時,軍国主義の勃興とともに,すでに言論や出版の自由は著しく制限され,労働運動や社会主義運動は,凶暴といっていいほどの激しい弾圧を受けていました。
その中で,山本・吉野らは少年少女に訴える余地はまだ残っているし,せめてこの人々だけは,時勢の悪い影響から守りたい,今日の少年少女こそ次の時代を背負うべき大切な人たちであり,この人々には,偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた,自由で豊かな文化のあることを,人類の進歩についての信念をいまのうちに養っておかねばならない,と考えて,少国民(年少の国民の意,少年少女のこと)のための双書の刊行を思いたちました。

吉野源三郎(1899-1981)東京生れ,東京帝国大学文学部哲学科卒,編集者・児童文学者・評論家・反戦運動家・ジャーナリスト

山本有三(1887-1974)栃木県生まれ,呉服商の跡取り息子として育ち,東京帝国大学文化大学独文学科選科卒,小説家・劇作家・政治家,代表作「女の一生(32)」・「真実一路(35)」・「路傍の石(37)」,日本芸術院会員,文化勲章受章(65)

『君たちはどう生きるか』の内容は,主人公はコペル君というあだ名の中学二年生です。本名は本田潤一で小柄で成績は優秀ですがいたずら好きの少年で,その友人は「ガッチン」というあだ名の頑固で毅然とした北見君,お金持ちで有力者の息子の水谷君,後に友達になる豆腐屋の浦川君,そして二年前に亡くなった父親代わりで近所に住む叔父さん(お母さんの弟)が登場します。
コペル君のいうあだ名は地動説を唱えたコペルニクスからとって叔父さんが名付けました。
コペル君がいろいろと体験する中で,悩み考えたことを,若い叔父さんが「おじさんのノート」として,極めて的確な助言をするのです。この叔父さんは大学を出て,まだ2,3年という設定ですが,これほど見事なアドバイスができるなんて,普通の人なら,自分にはこれほどのふるまいはとてもできないと,劣等感を持ってしまいます。

私は子供のころにはこの本に出合わず,十分な大人になってから本屋で見つけ,読んでみて感銘を受け,子供が出来たらぜひ読ませたいと思っていたのですが,最近,読み直そうと本棚を探しても見つからず,また買い直すことにし,当時,岩波新書の棚で見つけた記憶があったのですが,思い違いか,岩波文庫にありました。

一.へんな体験(ものの見方について)
二.勇ましき友(真実の経験について)
三.ニュートンの林檎と粉ミルク(人間の結びつきについて)
四.貧しき友(人間であるからには)
五.ナポレオンと四人の少年(偉大な人間とはどんな人か)
六.雪の日の出来事
七.石段の思い出(人間の悩みと,過ちと,偉大さについて)
八.凱旋
九.水仙の芽とガンダーラの仏像
十.春の朝

以上のように全10章からなります。ちなみに,( )内は「おじさんのノート」の題です。

いまはマンガにもなっているようで,羽賀翔一『漫画 君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)。
しかし,平易な文章で読みやいので,ぜひ普通の本で読んでみてください。

今回は,梅雨時ということで,この歌にしましょう。

城ヶ島の雨北原白秋・作詞 梁田貞・作曲(1913)

雨はふるふる 城ヶ島の磯 (いそ) に
利休鼠 (りきゅうねずみ) の 雨がふる

雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き

舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡 (ぬ) れて帆上げた ぬしの舟

ええ 舟は櫓 (ろ) でやる 櫓は唄でやる
唄は船頭さんの 心意気

雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ

北原白秋(1885-1942)熊本生れ福岡育ち,詩人・歌人,早稲田大学英文科卒,『赤い鳥』に童謡を発表,山田耕筰・中山晋平・小松耕輔などに作曲,三木露風と並び「白露時代」と言われる,代表作:「からたちの花」「ゆりかごのうた」「砂山」「この道」「ペチカ」など。

梁田貞(やなだ ただし,1885-1959)北海道出身,教育者・作曲家,東京音楽学校本科声楽科ピアノ専攻科卒,代表作:「どんぐりころころ」「城ヶ島の雨」など。

今年の梅雨は気温が上がらない,と思っていたら,本日6月18日午前7:58ころ,大阪府北部で,震度6弱の地震が発生しました。当家では,棚から物が落ちる程度で実害がなかったのですが,大揺れで驚きました。
南海トラフ地震の一環ではないと気象庁から発表されましたが,数日は余震に対する注意が必要です。
1995年1月17日5:46に発生した阪神・淡路大震災から23年5ヶ月,天災は忘れたころにやってきました。

みなさんも,備えあれば患えなし,なので,くれぐれも気をつけてお過ごしください。

 

吉本とは

現在,NHKの朝の連続テレビ小説(朝ドラ)『わろてんか』は言わずと知れた吉本興業(2007年からよしもとクリエイティブ・エージェンシーというハイカラな名前に変っていますが)の創業者・吉本せいの一代記です。ドラマですから実際と異なるのは当然ですが,どこが違うか,見てみましょうか。

創業は1912年(明治45年),吉本吉兵衛(本名:吉次郎,通称:泰三)・せい夫婦が大阪市天神橋の「第二文芸館」を買収し,寄席経営を始めました。
1915年(大正4年)には傘下の端席のほとんどを「花と咲くか,月と陰るか,全てを賭けて」との思いから『花月』 と改名しました。
夫・吉兵衛(1886-1924)は,山崎豊子の小説『花のれん』などでは経営を妻に任せっきりの道楽亭主のように扱われていますが,実際は実質的な経営の指揮をとっていたようです。しかし1924年に急性心筋梗塞により37歳で亡くなっています。

吉本せい(1889-1950)は明石の生まれ,1910年の20歳の時に,大阪市内本町の「箸吉(はしよし)」の息子吉本吉兵衛と結婚(実際には1907年の18歳のころから事実婚状態でした)。
2男6女をもうけますが,そのほとんどが早逝し,次男・泰典(後に改名し頴右)は歌手・笠置シヅ子と恋仲となりますが,猛反対を受け,1947年23歳で没後,実子・亀井エイ子が生まれています。

1917年,せいの実弟・林正之助(1899-1991)が入社し,亡くなるまで吉本を支えます。ドラマの従兄の風太ではなく,実弟の林正之助が大番頭でした。ちなみに吉本家の家業は荒物問屋であり,林家は米穀商です。吉本・林両家の確執が相当あったようです。

1932年,吉本興業合名会社が発足し,せいが社長,2人の弟,林正之助が大阪吉本,林弘高が東京吉本を率いる体制が確立します。
林弘高は欧州を視察し,その影響で,東京ではモダン・ハイカラ路線をとり,レビューやショウを上演して,演芸の大阪に対抗します。ドラマでは息子・隼也の役どころです。

演芸だけでなく,戦前は,巨人軍を他社と共同で設立して草創期のプロ野球界を支え,戦後は日本プロレス協会を立ち上げて力道山をスターにしました。
元々は全国で寄席・劇場・映画館経営を手がける興行会社であり,戦前は松竹・東宝・吉本で三大興行資本と称されました。

ドラマの伊能は小林一三(1973-1957),阪急電鉄,宝塚歌劇団,阪急百貨店,東宝の創業者で関西の大物ですが,残念ながら吉本せいとの恋愛的な接触はありません。しかし,吉本と東宝が提携し,それを松竹が不快に思って芸人を引き抜く,という事件がありましたから,仕事の話はしたははずです。

月の井団吾は明らかに爆笑王といわれた初代桂春団治(1878-1934),無断のラジオ出演で,謹慎処分を受けた事実があります。

ドラマのキースは横山エンタツ(1896-1971)らしいのですが,エンタツが吉本に入ったのは1930年,ですから既に吉兵衛は亡くなっており,花菱アチャコ(1897-1974)と組んで「しゃべくり漫才」をやり,「早慶戦」などで人気をはくしました。

ドラマのリリコはミスワカナ(1910-46),女義太夫師でも映画女優でもなく,根っからの漫才師です。
シローは玉松一郎(1906-63),舞台でアコーディオンを弾きましたが,それほどの腕ではありませんでした。

所属する芸人は,桂春団治,横山エンタツ・花菱アチャコをはじめ,兵隊落語の柳家金語楼,三味線漫談の柳家三亀松,「あきれたぼういず」の川田義雄,ミスワカナ・玉松一郎など東西に多数いました。

戦後の吉本は,1959年(昭和34年),うめだ花月を開場,花菱アチャコ主演の吉本ヴァラエティ「迷月赤城山」を,同時にテレビ放送を開始した毎日放送と提携し,同社に舞台中継させました。1962年に京都花月,1963年になんば花月を開場,吉本ヴァラエティは,1962年に吉本新喜劇と名前を変え,白木みのる,平三平,ルーキー新一,花紀京,岡八郎,原哲夫,桑原和男,財津一郎らを続々と生み出しました。

この時期,じつは私個人は,吉本よりも松竹新喜劇を見ていました。吉本のワンパターンのドタバタよりも,松竹の人情喜劇の方が面白かったのです。
松竹新喜劇の発足は,1948年の中座で,当初は曾我廼家十吾浪花千栄子も参加していましたが,私の見ていたころは,渋谷天外,曾我廼家明蝶,曾我廼家五郎八,酒井光子,藤山寛美,小島秀哉,小島慶四郎,四条栄美など,役者がそろっていました。1965年,天外が倒れてからは,寛美が一枚看板となり徐々に衰退していき,1990年の寛美死去によって急激に衰退しました。

しかし,吉本の花菱アチャコが松竹出の浪花千栄子と夫婦役で組んでラジオで大活躍するのは皮肉なものです。

もっと皮肉なのは,花菱アチャコが戦後も大活躍するのに,横山エンタツはほとんど活躍せずに消えてゆきます。

さて,冬の寒い夜は懐かしいこの歌にしましょうか。

冬の夜』作詞・作曲者不詳「尋常小学唱歌(三)」(1912)

燈火ちかく衣縫う母は
春の遊びの楽しさ語る
居並ぶ子どもは指を折りつつ
日数かぞえて喜び勇む
囲炉裏火はとろとろ外は吹雪

囲炉裏のはたに縄なう父は
過ぎしいくさの手柄を語る
居並ぶ子どもはねむさ忘れて
耳を傾けこぶしを握る
囲炉裏火はとろとろ外は吹雪

今年の冬は久しぶりに寒い冬となりました。
私個人としては,海外で冬に‐15℃を体験しているのですが,暖房が不十分なせいでしょうか,年齢のせいでしょうか,今年はとても寒く感じます。
あちこちで積雪による大変な事態も起きています。
寒さ対策は十分ですか?風邪などは引いていませんか?
この時期,体調を崩すと更に大変になりますので,十二分に気をつけましょう。
こんな時こそ,家にこもってないで,運動をするのが良いのです。胸を張って散歩も良し,スローランニングも良し,もう少しで間違いなく春がやってきますので,頑張りましょう!

日本人のわざ

日本では,手先で物を作る仕事を極める職人を匠(たくみ)と称し,とくに大工の頭を棟梁と呼び,昔から皆から信頼され尊敬されてきました。

ドイツではマイスター(Meister),イタリアではマエストロ(maestro),米英ではマスター(master)と呼ばれていますが,国によって表現の感じが異なっています。

マイスターと言えば,社会的にも確立した親方で,ワーグナーの楽劇『ニュルンベルグのマイスタージンガー(職匠歌人)』で有名です。
マエストロと言えば,本来は巨匠という意味ですが,世界中で,敬意をこめて指揮者に対して用います。
それに比べて,マスターは喫茶店の店主みたいに,軽く使われているようです。

さて,いまTVドラマ『陸王』が話題です。
池井戸潤(1963-)の原作で,半沢直樹,下町ロケット,ルーズベルト・ゲームにつづく人気ドラマになっています。
あらすじは,老舗の足袋製造業者がランニングシューズの開発に挑戦する奮闘を描きますが,じつはこれには有名な実在の人物たちがいます。

日本人が初めてオリンピックに参加したのは1912年の第5回ストックホルム(スウェーデン)大会でした。参加者は選手は三島弥彦(短距離)と金栗四三(マラソン),役員は加納治五郎(団長)と大森兵蔵の計4名でした。

金栗四三(かなぐり  しぞう,1891-1983,92歳没)はその前年,マラソン足袋をはいて世界最高記録を樹立して本番に臨みましたが,レース途中で日射病で意識を失ない,近くの農家で介抱されて,ゴールできませんでした。

1967年,金栗選手はスウェーデンのオリンピック委員会から,ストックホルム五輪55周年の記念式典に招待され,関係者から促され,競技場でゆっくり走って用意されたゴールテープを切りました。そのとき,場内アナウンスがあり,「日本の金栗,ただいまゴールしました。時間は54年8ヶ月6日32分20秒3,これをもって第5回ストックホルム・オリンピックの全日程を終了します」。
まことに,なんと粋な計らいでしょうか。

このマラソン足袋を開発したのが播磨屋(はりまや)足袋店(後のハリマヤ)の黒坂辛作(しんさく,1880-)でした。金栗と共同して改良をかさね進化させました。

1936年,ベルリン五輪で,このマラソン足袋(金栗足袋)をはいて日本代表の孫基禎(そんきてい,朝鮮籍,1912-2002)がマラソンで金メダルをとりました。

敗戦後の1951年,米・ボストンマラソンで田中茂樹(当時19歳)がマラソン足袋で優勝しました。これは,2年前に設立した鬼塚(オニヅカタイガー,現アシックス)の製品でした。

ドラマでは100年つづく老舗足袋店となっていますが,創業当時すでに実際はマラソン足袋は作られていたのです。

金栗さんは,箱根駅伝の開催に尽力し,日本に高地トレーニングを導入したり,日本のマラソン界の発展に大きく寄与し,「マラソンの父」と呼ばれています。
グリコの1粒300mのモデルとも言われています。

東京オリンピック前年の2019年のNHK大河ドラマ『いだてん』は金栗さんをモデルにした物語だそうです。

今回の歌は,さわやかなこの曲にしましょう。

いずみのほとり
・深尾須磨子 作詞
・橋本國彦 作曲

水よ水よ きれいな水よ
水よ水よ きれいな水よ
青い空や すすきのかげをうつしている
水よ水よ 秋の水よ
水よ水よ 秋の水よ

むかしむかし いずみのほとり
天使たちが 子羊たちと 遊びました
むかしむかし 今は むかし

水よ水よ きれいな水よ
水よ水よ きれいな水よ
青い空や とんぼのかげをうつしている
水よ水よ 秋の水よ
水よ水よ 秋の水よ

深尾須磨子(1888-1974) 兵庫県生れ,詩人・作家・翻訳家。

橋本國彦(1904-1949) 東京生れ,作曲家・ヴァイオリニスト指揮者。

秋も深まってきました。今年は夏から秋もそうでしたが,秋から冬への季節の変わり方が,余りに急なようです。

気候の変化には十分に気をつけて,風邪など引かないように,元気にお過ごしください。

北斎の世界

いま,TVでも葛飾北斎の話題でもちきりです。その原因の一つは,大英博物館  国際プロジェクト  展覧会「北斎  ―  富士を超えて」が大阪のあべのハルカス美術館で開催(10/6-11/19)されています。
つまり,大英博物館の所蔵する北斎の作品展です。
行ってきましたが,すごい人出でした。

1999年に,アメリカ合衆国の『ライフ』誌の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で日本人で唯一,86位にランクインしました。北斎は世界に認知された大芸術家なのです。

たとえば,印象派のゴッホ(蘭,1853-90)やモネ(仏,1840-1926)に影響を与え,作曲家ドビュッシー(仏,1862-1918)は『神奈川沖浪裏』に誘発されて交響詩「海」を作曲しました。

大物らしく,奇妙なエピソードにこと欠かず,
改号すること30回,転居すること93回,飲酒も喫煙もしない,耳が大きく,身長180cmの大柄,六尺の天秤棒を杖代わりに,食事・衣装・金銭に無頓着,不作法で,気位が高く,富や権力でも動かない,数え90歳(卒寿)没と長命でした。

同時代同業の37歳年下の安藤(歌川)広重の来訪を受けた時も,そっけない応対で立腹させ帰らせてしまいました。これは,弟子にしてほしいという申し出に,既に一人前である,と認めていたから,といいます。
実際,『富嶽三十六景』の出版の2年後に,広重の『東海道五十三次』が大評判となったのでした。

葛飾北斎(1760.10.31-1849.5.10)は武蔵国葛飾文書割下水(現東京都墨田区)に貧しい百姓の子として生まれました。
勝川春草の門下となりますが,狩野派や唐絵・西洋画なのどの画法を学び,そのため勝川派を破門されます。

三女お栄(葛飾応為)は絵師に嫁ぐも,その絵を批判し離縁され,その後生涯北斎と起居を共にし,助手を務めました。色彩感覚に優れており,北斎晩年の作は,応為の代筆によるものと考えられています。

主な作品
・『北斎漫画』初編(1814,53歳)

・『富嶽三十六景』(1923-33,62-72歳)10年かけて完結
そのなかでも,有名なのは

・『神奈川沖浪裏』通称:大浪,大波(the Great Wave)
普通の肉眼では波頭はこの絵のようには見えません。1/5000でシャッタを切るとこのように見えました。これまでの機械式のシャッタでは最大でも1/2000までしか撮れませんでした。
北斎の目は電子シャッタの領域の,まさに神の目だったのです。

・『凱風快晴』通称:赤富士(the Red Fuji)
・『山下白雨』通称:黒富士(the Black Fuji)

信濃国高井郡小布施の高井鴻山の招きで晩年の4年間(1844-48)小布施に住み,
・祭屋台の天井絵『怒涛図』などを描きました。

北斎の臨終のときの様子は次のように書き残されています。

翁 死に臨み大息し
天我をして十年の命を長らわしめば 」といい
暫くして更に言いて曰く
天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得(う)べし 」と言吃りて死す

これは,「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間,命長らえることを私に許されたなら』と言い,しばらくしてさらに,『天があと5年の間,命保つことを私に許されたなら,必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」との意味です。

日常の生活を健康的に過ごしたとはとても言い難い北斎が,当時としては異例の90歳まで,なぜそんなに長生きできたのか,不思議に思われていますが,絵に対する飽くことのない探求心・向上心という意欲が長生きの大きな源泉だったのでは,と思います。

辞世の句は,

人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原

その意,「人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか」というものでした。

今回は富嶽三十六景にちなんで,この歌,唱歌『ふじの山』にしましょう。

ふじの山』巖谷小波・作詞 作曲者不詳 尋常小学読本唱歌(1910)

あたまを雲の上に出し 四方の山を見下ろして
かみなりさまを下にきく ふじは日本一の山

青ぞら高くそびえたち からだに雪のきものきて
かすみのすそをとおくひく ふじは日本一の山

巖谷小波(いわや  さざなみ,1870-1933)東京出身,明治・大正の作家・児童文学者・俳人。『一寸法師』の作詞も。

今年のノーベル平和賞はICANに決まりました。
ICANとは,核兵器廃絶国際キャンペーン(International Campain to Abolish Nuclear Weapons)の略称で,スイスのジュネーブに本部をおく国際NGO(非政府組織)で,60ヵ国以上の団体が参加しています。
核戦争防止国際医師会議(1985年ノーベル平和賞受賞)のオーストラリアの運動から派生したNGOで,2007年に正式に発足しました。
今年7月に国連で「核兵器禁止条約」が採択されたのですが,常任理事国(米・英・露・仏・中)など核を保有する国々は批准していません。唯一の被爆国である日本も批准していません。アメリカの核の傘に依存する日米安保条約のもとでは賛成できないのでしょうが,国民感情としてはおかしな話です。

世界の軍事力ランキング(Global Power:2017)

1.アメリカ
2.ロシア
3.中国
4.インド
5.フランス
6.イギリス
7.日本
8.トルコ
9.ドイツ
10.イタリア
11.韓国

23.北朝鮮

1位から6位までは核保有国です。非核保有国では日本が最大の軍事力を保持していることになります。

ただし日本憲法9条は以下のとおりです。

第9条  日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。

2   前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。

衆議院選挙が終わりました。自民党の圧勝でした。
安倍政権は,争点として,北朝鮮の脅威,をあげました。この機会に,自衛隊を国軍に昇格させて,軍事力を増強して「普通の国」になりたい思いが頑強にあります。
しかし,軍事費を増大させて,軍事力を強化しても,緊張を増幅させるだけで何の解決にもなりません。

トランプ政権は,安倍政権以上に無茶苦茶な政権ですから,何をやりだすか分りませんが,もし戦争を勃発させても,簡単には問題は解決しません。それはこれまでの幾つも過去の戦争を見てきて分ることです。大勢の人が死に,混乱を増大させて,紛争が泥沼化し,経済は疲弊し,良いことは何一つ起こりません。

衆院選の投票率は全体で53.51%でした。18,19歳では41.51%,19歳に限ると,なんと32.34%しかありませんでした。
大型台風直撃の影響はあったにせよ,非常に残念な結果でした。もっと自分たちのこと,そして社会のことを真剣に考えないと,知らない間に,おかしな方向に進められてしまう,危険性があります。

選挙に行った若者のなかに,「選挙に行かないで国政を批判するのは無責任だ」と発言した人がいました。そのとおりです。世の中が良くなって行かないのは,国民が良くなりたいという意見を発信しないからです。

今年の秋は,台風の影響もあって,長雨が続きましたが,体調はいかがですか。気候が変動すると体調もおかしくなることが多いので,くれぐれも気温変動には気をつけて,元気にお過ごしください。

岩谷時子の世界

3年余り前,作詞家の岩谷時子さんが亡くなりました。享年97歳でしたから,天寿を全うした大往生といえるのかもしれません。われわれにたくさんの歌を残してくれました。

たとえば,( )内は,その発売年,歌手,作曲家の順

恋のバカンス(63,ザ・ピーナッツ,宮川泰
ウナ・セラ,ディ東京(64,ザ・ピーナッツ,宮川泰
逢いたくて逢いたくて(66,園まり,宮川泰

夜明けの歌(64,岸洋子,いずみたく
これが青春だ(66,布施明,いずみたく
ベッドで煙草を吸わないで(66,沢たまき,いずみたく
恋の季節(68,ピンキーとキラーズ,いずみたく
いいじゃないの幸せならば(69,相良直美,いずみたく

君といつまでも(65,加山雄三,弾厚作
旅人よ(66,加山雄三,弾厚作

ほんきかしら(66,島倉千代子,土田啓四郎
サインはV(69,麻里圭子&横田年昭とリオ・アルマ,三沢郷
おまえに(72,フランク永井,吉田正
男の子女の子(72,郷ひろみ,筒美京平

しかし,いろんな範囲に広く詞を提供していて,驚くほどの量です。

岩谷時子(1916-2013)さんは,京城府(現在のソウル別市)に生まれ,5歳のときに兵庫県西宮市に移住,1939年に神戸女学院大学部英文科を卒業後,宝塚歌劇団出版部に就職,『宝塚』の編集長を務めました。

岩谷さんといえば,越路吹雪(1924-80)との関係を言わない訳にはいかないですが,彼女は東京・麹町に生まれ,父の転勤で新潟に,長野県飯山高等女学校(現・飯山高校)を中退して,1937年に宝塚音楽歌劇学校に入学,同期に月丘夢路・音羽信子らがいます。
1939年2月に初舞台,岩谷さんとの出会いは「サインの見本を書いてほしい」とやって来たといいます。15歳と23歳,8歳年下でしたが,最初から意気投合したようです。
清く正しく美しく」のスローガンで知られる宝塚で,越路は煙草は吸うし,門限破りはするしの異色の存在で,「不良少女」のあだ名を付けられたといいます。

1951年に越路が宝塚を退団するとき,懇願されて専属の無給のマネージャーとなり東京に行きます。
1952年に越路が出演したシャンソンショー「巴里の唄」の劇中歌として越路が「愛の讃歌」を歌うことになり,岩谷さんが自身初の訳詞・作詞をしました。それから越路の楽曲の訳詞や,作詞家として数々のヒット曲を手がけることになりました。

しかし,この「愛の賛歌」の訳詞というか作詞には,原作とは違い過ぎるとの批判が多いのも事実です。
エディット・ピアフの歌はとても激しい恋の歌ですが,岩谷さんのはもっと優しい恋の歌です。やっぱり穏やかな日本人にはこっちの方が合うのではと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=5PHECvAW1Bk

あなたの燃える手で あたしを抱きしめて    
ただふたりだけで 生きていたいの    
ただいのちのかぎり あたしは愛したい    
いのちのかぎりに あなたを愛したい    

頬と頬よせて 燃えるくちづけを 
かわす喜び かわす喜び    
あなたとふたりで 暮らせるものなら 
なんにもいらない    
なんにもいらない 
あなたとふたりで 生きていくのよ    
あたしの願いは ただそれだけよ 
あなたとふたり

かたくいだき合い 
燃える指に髪を    
からませながら いとしみながら    
口づけを交わすの 
愛こそ燃える火よ    
あたしを燃やす火 
心とかす恋よ

いっぽう激しいピアフの原曲も聴いてみましょうか。後半は英語です。

  空が落ちてこようと
  大地が裂けようと
  わたしは平気よ
  あなたの愛があれば

  あなたの腕に抱かれて
  わたしが震えるとき
  なにもかも かすむわ
  愛される幸せに

  たとえ地の果てまでも
  わたしはついていくわ
  愛されるならば
  月をももぎ取り
  運命も変えてみせる
  求められるならば

  故郷も棄てる
  友達だって
  あなたのためなら 
  笑われようと
  気にはしない
  あなたのためなら

  もしもわたしたちを
  死が引き離すとも
  わたしは恐れない
  あなたに愛されてれば

  ともに歩みましょう
  青い空の彼方を
  何も恐れはしない
  ともに愛し合えば

  いつまでもともに

Hymne a L’Amour

  Le ciel bleu sur nous peut s’effondrer,
  Et la terre peut bien s’ecrouler,
  Peu m’importe si tu m’aimes,
  Je me fous du monde entier.

  Tant qu’ l’amour innondera mes matins,
  Tant qu’mon corps fremira sous tes mains,
  Peu m’importent les problemes,
  Mon amour, puisque tu m’aimes.

  J’irais jusqu’au bout du monde,
  Je me ferais teindre en blonde,
  Si tu me le demandais.
  J’irais decrocher la lune,
  J’irais voler la fortune,
  Si tu me le demandais.

  Je renierais ma patrie,
  Je renierais mes amis,
  Si tu me le demandais.
  On peut bien rire de moi,
  Je ferais n’importe quoi,
  Si tu me le demandais.

  Si un jour, la vie t’arrache a moi,
  Si tu meurs, que tu sois loin de moi,
  Peu m’importe si tu m’aimes,
  Car moi je mourrais aussi.

  Nous aurons pour nous l’eternite,
  Dans le bleu de toute l’immensite,
  Dans le ciel, plus de probleme,
  Mon amour, crois-tu qu’on s’aime?

  Dieu reunit ceux qui s’aiment.

じっさい,1953年にパリで,越路はピアフのステージを見て聴いて,非常な衝撃を受けた,と日記に書き残しています。

しかし,有名な歌手たちはかなり短命ですね。

エディット・ピアフ(1915-63,47歳で没)
ナット・キング・コール(1919-65,45歳)
エルビス・プレスリー(1935-77,42歳)
カレン・カーペンター(1950-83,32歳)

越路吹雪(1924-80,56歳)
美空ひばり(1937-89,52歳)

こうなると長生きしているのはダメな歌手,ということにもなりかねないですね。
でも,明らかに声が出ないのに人前で歌う老年歌手をみると,とても切ない気持ちになります。

音源が残っているので,後世の人たちも聴くことができますが,それにしてもみんな早過ぎます。
しかし,もともと歌手は演奏寿命(歌える期間)が短いので,劣化する前に亡くなるのは,良い状態の歌唱や姿だけ残せるので,早逝する方が良い,という見方もあります。

ところで,岩谷さんは越路吹雪から「恋泥棒」というあだ名をつけられていて,越路の恋の話を自分の作詞にしてしまう,と。
じっさい,『恋の季節』で有名な「夜明けのコーヒー」は,外国人から越路が「夜明けのコーヒー」を誘われて,本人はコーヒーを早朝に飲むだけの約束だと思っていた,という実話があります。

岩谷さんは,自分はあくまで清楚に生き,友達の奔放な恋の歌を沢山かいて,一生を二人分,楽しんで生きた,というような稀に見る女性でした。

しかしやっぱり,普通の人間は健康で長生きしたいものです。
これからは季節の移り変わるシーズンです。季節に合わせた生活をして,憧れの春を迎えましょう。

君の名は

いま,チマタでは長編アニメ映画『君の名は。』が大ブレイク(予期せずに流行すること)しているようです。監督は新海誠(1973-)43歳,長野県出身,中央大学卒。

あらすじは,

東京の四ツ谷に暮らす男子高校生・立花瀧(たちばな たき)は,ある朝,目を覚ますと飛騨の山奥にある糸守町〔架空の町〕の女子高生・宮水三葉(みやみず みつは)になっていました。そして,三葉は瀧の身体に。2人とも「奇妙な夢」だと思いながら,知らない誰かの一日を過ごすのです。
その後もたびたび「入れ替り」が起きたことによって,ただの夢ではなく実在の誰かと入れ替っていることに気づきます。2人はスマホのメモを通してやりとりをし,入れ替っている間のルールを決め,元の身体に戻った後に困らないよう日記を残すことにしたました。
お互い束の間の入れ替りを楽しみつつ次第に打ち解けていきます。しかし,その入れ替りは突然途絶えてしまいます。瀧は風景のスケッチだけを頼りに飛騨に向かいますが,たどり着いた糸守町は,3年前に隕石(ティアマト彗星〔これも架空の彗星〕の破片)の衝突により消滅しており,三葉やその家族,友人も含め住民500人以上が死亡していたことが分るのです。

じつは,これ以前に,三葉も瀧をさがしに東京へ来ていて,実際は3歳年下の瀧を電車の中で見つけ,自分の髪を束ねていた組紐を瀧に渡していたのです。

これ以上の詳細な記述は,映画を観てのお楽しみ,ということで止めておきます。

この映画は,2つの日本の古典,
小野小町の和歌「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」(古今和歌集)と,
男児を「姫君」として女児を「若君」として育てる『とりかえばや物語』(作者不詳)を設定に取り込んでいます。
また,男女入れ替りをモチーフとする大林宣彦監督の映画『転校生』なども参考にしています。

声優陣も多彩で,

立花 瀧 神木隆之介
宮水三葉 上白石萌音
奥寺ミキ 長澤まさみ(瀧のバイト先の先輩,美人女子大生)
宮水一葉 市原悦子(三葉の祖母,宮水神社の神主,82歳)

奥寺先輩役の長澤まさみは色気があっていいですね。
市原悦子のお婆ちゃんは,もちろん絶品です。
ワキがしっかりしていると,物語がしまりますね。

三葉の声を担当した上白石萌音(かみしらいし もね,1998-)は鹿児島出身の18歳の俳優・歌手,あるテレビ番組で,自分の好きな映画の主題歌を発表する場で,『ティファニーで朝食を』(1961)でオードリー・ヘプバーン(1929-93)がアパートの窓枠に腰かけて,ギターをつま弾きながら,かすれ声で歌う「ムーン・リバー」が好き,と言っていました。こういうところがこの人の魅力なのかもしれませんね。
この歌,のちにアンディ・ウイリアムス(1927-2012)の持ち歌のようになりましたが,映画ではコーラスでした。

かつて,一世を風靡(ふうび)した同名のドラマがありました。
菊田一夫・作『君の名は』(1952)で,ラジオの連続放送劇でした。そのご映画化(1953)されて(3部作),それも大ヒットしました。

あらすじは,

第二次世界大戦の末期,東京大空襲の夜,たまたま一緒になった見知らぬ男女,氏家真知子(うじいえ まちこ)と後宮春樹(あとみや はるき)は助け合って戦火の中を逃げまどい数寄屋橋にたどり着き,一夜が明けて,二人はここでようやくお互いの無事を確認します。お互いに生きていたら,半年後,それがだめならまた半年後に,この橋で会おうと約束し,お互いの名も知らぬままに別れます。やがて,2人は戦後の渦に巻き込まれ,お互いに数寄屋橋で相手を待つも再会がかなわず,1年半後の3度目にやっと会えた時には,真知子はすでに明日嫁に行くという身でした。しかし,夫との生活に悩む真知子,そんな彼女を気にかける春樹,2人をめぐるさまざまな人々の間で,運命はさらなる展開を迎えていきます。

番組の冒頭,「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」という来宮良子のナレーションも有名になりました。
当時のラジオドラマは生放送だったため,劇中のBGMは音楽担当の古関祐而がハモンドオルガンを毎回,即興演奏していました。

毎週木曜8時からの30分放送でしたが,「番組が始まると,銭湯の女湯がカラになる」といわれるほどの人気ドラマになりました。

配役は,

・     ラジオ    映画
氏家真知子  阿里道子   岸 恵子
後宮 春樹  北沢 彪   佐田啓二

なにしろ,「真知子巻き」というストールの巻き方が大流行するほどの人気でした。

同名の主題歌が映画やレコードで歌われました。もちろん
菊田一夫・作詞 古関祐而・作曲 織井茂子・歌(1953)

くしくも,64年の時を経て,似たような話題となる映画が再び登場するというのも興味深いものです。時間と空間が隔たれば,現代でも会いたい人に会えないのです。

12月8日は太平洋戦争の日米開戦日です。先に真珠湾を攻撃しておいて,後で宣戦布告をするというのは,やり方として非常にまずかったです。
始め方が良くなかったせいで,終わり方が最悪となりました。
その復興に何十年かかったことでしょう。

この時期,そんなことも少しは考えてみるのも必要です。

冬本番となりました。あと2カ月余りは我慢の日々が続きます。風邪など引かないよう,万全の対策をして,この厳しい季節を乗り切りましょう。

初恋

初恋とは,その人にとって最初の恋,のことです。ですから,年齢は関係ないことになっています。

初恋は,「かなわぬ恋」であったり,「しのぶ恋」であったり,「片思いの恋」であったりして,本物の恋に進展しないことも多いのです。

実際,最近のある調査によると,初恋の相手は「同級生(64.0%)」が断トツで,初恋の相手に思いを告げたかを問う質問では,「告げた」と回答した人は23.6%にとどまり,なんと8割近くの男女がその思いを内に秘めていたままであることがわかりました。

それゆえに昔から,詩や小説,そして映画の題材として格好のテーマで,たくさん作られています。

詩で有名なのは,島崎藤村の詩集『若菜集』(1897)に収められている「初恋」でしょうか。

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな

林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

小説では,ロシアのイワン・ツルゲーネフの「初恋」(1860)が有名です。

この作品では,40歳代となった主人公ウラジーミルが,自分の16歳の頃の初恋について回想し,友人たちに向けてノートに記した手記という形式となっていて,半自伝的小説とされています。
まだ若い主人公がコケティッシュ(coquetish,なまめかしい)なヒロインのジナイーダに弄ばれるなどの非道徳的な内容を詩的な美しい文章で描いています。
ヒロインは周りに群がる崇拝者達には目もくれず,なんと密かに主人公の父に恋をしていて,その父も冷酷な浮気者で,ヒロインを鞭で打つのでした。

この作品は,洋画や邦画で何度も取り上げられましたから,目にされた方も多いのではないでしょうか。

日本の代表的な青春小説,伊藤佐千夫野菊の墓』,三島由紀夫潮騒』,川端康成伊豆の踊子』など,初恋という名はついていませんが,みんな初恋の物語です。

ここで,日本語の「初恋」と,英語の「first love」はかなり感覚が違うことに気がつきます。やはり,西洋ものは激しいですね。日本のは,淡い,夢みるような初恋です。

日本の比較的新しい歌で有名なのは,村下孝蔵の『初恋』(83)でしょうか。

五月雨は緑色 悲しくさせたよ 一人の午後は
恋をして淋しくて 届かぬ想いを暖めていた
好きだよと言えずに初恋は ふりこ細工の心
放課後の校庭を走る君がいた
遠くで僕はいつでも君を探してた
浅い夢だから胸をはなれない

夕映えはあんず色 帰り道一人 口笛吹いて
名前さえ呼べなくて とらわれた心 見つめていたよ
好きだよと言えずに初恋は ふりこ細工の心
風に舞った花びらが 水面を乱すように
愛という字 書いてみては ふるえてたあの頃 
浅い夢だから胸をはなれない

放課後の校庭を走る君がいた
遠くで僕はいつでも君を探してた
浅い夢だから胸をはなれない
胸をはなれない 今もはなれない
胸をはなれない

村下孝蔵(53-99)は熊本県水俣市出身のシンガーソングライター,若干46歳で没。

あるテレビ番組で,この歌詞にある初恋相手を登場させ,その前で村下に歌わせるという,いかにもテレビらしいが,残ない企画をやらかしました。

別の番組でも,ペギー葉山の『学生時代』(64)の3番の歌詞にある「美しい横顔」の同級生を登場させ,同じような思いをさせました。

こういう,味気ない,趣のない,視聴者の夢をこわすような,つまらん企画はなんとしても,やめてもらいたいものです。

クラシックの名曲にも『初恋石川啄木・詩 越谷達之助・曲(38)があります。

砂山の砂に腹ばい 初恋のいたみを 遠くおもひ出づる日

初恋のいたみを 遠く遠く ああおもひ出づる日

砂山の砂に 砂に腹ばい 初恋のいたみを 遠くおもひ出づる日

テノール歌手の奥田良三(03-93)が80歳を過ぎて,この歌を切々と歌っているのを聞いたことがありますが,なかなか趣のあるシーンでした。

みなさんも秋の夜長,初恋に身を焦がした日々を,あるいは初恋に憧れた頃を,しみじみと思い出してみてはいかがですか。

ただし,これからは冬に向かってますます厳しい時期が続きますので,季節に合った着衣を心がけて,健やかにお過ごしください。