50年前のできごと

坂井義則さんが,9月10日にお亡くなりになりました。
1945年8月6日のお生まれでしたから,まだ69歳の若さでした。
広島に原爆が投下された日に広島県三次(みよし)市で出生,400mの陸上選手でした。

1964年10月10日に開催された東京オリンピックの開会式で,若干19歳の坂井さんが聖火リレー最終ランナーとして,国立競技場の聖火台にさっそうと駆け上がっていった雄姿は,いまでも目に浮かびます。

その日のことは,NHKの北出清五郎アナウンサーの名セリフにあります。
世界中の青空を,全部東京に持ってきてしまったような,すばらしい秋日和でございます

そして,ファンファーレとオリンピックマーチで入場行進が始まりました。

ファンファーレ今井光也・作曲
オリンピックマーチ古関祐而・作曲

もう50年,半世紀も前の出来事だったんですね。

1940年に東京で開催予定だったオリンピックが,第2次世界大戦勃発のために中止,24年ぶりに,アジアで初めて,東京で開催されました。

なにしろ戦後最大のイベントでしたから,国を挙げて取り組みました。

1964年10月1日(開会式の9日前)には,東海道新幹線が開通しました。もちろんオリンピックにあわせて建設したのです。

しかし,新幹線建設の現場で210名もの殉職者を出したことはあまり知られていません。
これは,「世紀の難工事」と評された黒部ダムの殉職者数171人と比べれば,その多さを実感できるでしょう。
「1959年着工で5年余で完成したということになっているが,実は用地の買収が難航して2年近くをそのために費やしたので,実際の工事期間は3年半くらいに過ぎない」と当時の技師長は語っています。

つまり,開業9日後に始まる東京五輪に間に合わせるための突貫工事だったのです。
「全職員が夜を日に継いでの捨身の努力の結果,かろうじて所定の期日に間に合わすことができた」と『工事誌』に記されています。

東京五輪という「世紀の祭典」のために,なりふり構わず無茶をしたんですね。おおいに反省すべきところでしょう。

前年の1963年7月16日には,名神高速道路が日本初の都市間高速道路として開通しました。ただし,栗東IC~尼崎IC(71.1km)。

プロ野球もオリンピックを考慮して,前倒しで試合を消化,日本シリーズは阪神タイガース南海ホークスの関西勢の対決となりましたが,10月1日に開始,雨での順延もあり,第7戦は開会式10月10日の夜になってしまい,まったく盛上りませんでした。

このオリンピックで日本選手の獲得した金メダル数は16個,アメリカ,ソ連についで3番目でした。

最も関心を呼んだ種目は,なんといっても女子バレーボールではなかったでしょうか。

東洋の魔女」と呼ばれた女子チームは,決勝戦で宿敵ソ連を3対0のストレートで下し,金メダルを獲得しました。
なにしろそのときのTVの視聴率は66.8%を記録しました。

NHKの鈴木文弥アナウンサーがTV中継で最後のポイントのとき,
金メダルポイント!」と絶叫したことも記憶に残っています。

じつはオリンピック前年に東洋の魔女の主体「日紡貝塚」の練習を見ています。
1963年12月に池田市立体育館の竣工を記念して,練習を公開しました。
というのも,チームの一員である谷田絹子選手が池田市の出身という縁で,実現しました。
彼女は左の宮本,右の谷田といわれたエース・スパイカーでした。

しかし,えげつない練習でしたね。
鬼の大松といわれた大松博文監督のもと,回転レシーブに代表されるように守備の練習が主体で,一人の選手に長時間,何度も何度も取れそうもないようなボールを投げつけて,また逆にお仕置きのように体めがけて何回もボールをぶつけて,まるでいじめか虐待にしか見えないような練習風景でした。
これほどのことをしないと勝てないのか,と愕然としました。
現代では,人前でこんなことをやったら,監督は即刻クビで大きな社会問題になっていたことでしょう。
むかしは勝つためと言って,メチャクチャなことをやっても許されていたんですね。

じつはその谷田選手,1962年11月3日に,なんと池田市の第1回文化功労者に選ばれています。
そのとき同時に,童謡作詞家の東くめさんも文化功労者に選ばれています。こちらの方が文化の香りがしますね。

東くめ(1877-1969)さんは,和歌山県新宮出身,東京音楽学校卒,東京府立高等女学校の音楽教師を8年間務め,日本ではじめて口語による童謡を作詞,東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)教授・東基吉と結婚,夫が大阪府池田師範学校(現大阪教育大学)校長に就任したため池田市に転居,新宮市名誉市民,池田市にて没。
夫の提案により「子供の言葉による,子供が喜ぶ童謡」の作詞を2年後輩の滝廉太郎と組んで創作,滝さんは23歳で早逝しましたが,東くめさんは91歳の長寿をまっとうされました。
代表作は,
鳩ぽっぽ滝廉太郎・作曲(1901.7)幼稚園唱歌

鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ
ポッポ ポッポととんでこい
お寺のやねからおりてこい
豆をやるからみなたべよ
たべてもすぐにかえらずに
ポッポ ポッポとないてあそべ

 ちなみに「ぽっぽっぽ 鳩ぽっぽ」と歌うのは『』です,念のため,童謡の題名はむずかしいのです。

じつは,この年にオリンピックを実際に観戦しているのです。
まず,観戦チケットを手に入れるのが大変でした。何時間も行列しなけれが手に入りません。人気の種目を入手するのは,ほとんど不可能にちかいことでした。
父親と生まれて初めて二人で東京まで出かけました。その後もありませんでしたから,一生一度きりの旅行でした。
もちろんできたばかりの新幹線には乗らず,夜行急行『銀河』で行きました。
横浜の親戚の家に宿泊させてもらい,2つの競技,バレーボールとバスケットボールを観戦しました。もちろんどちらも男子です。
そのどちらかを観戦中に円谷がマラソンで銅をとった,という風の便りを耳にしました。
むかしの思い出です。

2020年に,ふたたび東京でオリンピックが開催されます。

1964年の東京オリンピックでは,敗戦後19年,第2次大戦からの復興と国際社会への参加を旗印に,高速道路や新幹線がつくられ,都市のインフラ(infrastructure,下部構造の意,道路・鉄道など産業基盤の社会資本のこと)が整備され,それなりの成果がありました。

しかし,このつぎに何を期待しますか?
競技用の巨大施設の建設は,必要な経費とその後の利用価値を考えると,否定的になります。
一時的な利用のために巨費を費やす時代ではありません。
競技専用ではなく,むしろ国民の健康のために利用可能な施設に転用できることが条件となるでしょう。

なにより,福島原発事故について,状況はコントロールされている,というオリンピック招致のプレゼン(presentation,口頭発表)での首相の発言で,外向けにはウソでごまかせても,国民はだれも信用していません。
国の政策としての優先順位は,何を置いても,まず事故処理を,住民補償もふくめて,国民の納得のいくような結果を出すことが第一です。オリンピックはその次です。

ところで,第17回アジア大会(仁川)が終了(9.19-10.4)し,日本の金メダル数は47個で,中国151,韓国79,についで3位の定席でした。

第1回(1951)から第8回(1978)までは日本が1位を独占,第9回(1982)に中国に抜かれ,第10回(1986)から韓国にも抜かれ,その後ずっと3位が定位置になってしまっています。

人口13.57億の中国は致し方ないとしても,人口1.27億の日本が,人口5千万に過ぎない韓国の後塵を拝するのは納得がいきません。

つぎのオリンピックではキッチリ,結果を出してもらいましょう。

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