1989年の思い出

いまの時期は,二十四節気の処暑で,暑さがやみ涼しくなりはじめるころで,季節の替り目といっていいでしょう。

ものごとには節目というものがあり,時代にも特別な転換点ターニングポイント)と思えるような年があります。

その一つが,いまから四半世紀・25年前の1989年ではないでしょうか。

1月7日,昭和天皇が崩御されました。
昭和元年は12月25日からですから,元年と64年は7日づつ,つまり昭和時代は62年と2週間ということになります。

昭和天皇(1901.4.29-1989.1.7)は第124代の天皇で,諱(いみな)は裕仁,まさしく激動の87年の生涯でした。

このたび,宮内庁による『昭和天皇実録』という公式記録が24年かかって完成しました。全60冊,約12,000ページという膨大なものです。9月中旬に公表されるそうです。

誕生日の4月29日は,平成になってから「みどりの日」,2007年からは「昭和の日」に,5月4日が『みどりの日』となりました。

2月10日,オウム真理教による信者殺害事件発生。
教団代表の松本智津夫(麻原彰晃)が主導して,世間的には有能とされるような若い信者を勧誘・洗脳し,松本サリン事件,地下鉄サリン事件などのテロ行為,信者殺害,弁護士一家殺害などを行い,世の中を震撼とさせました。

2月13日,リクルート事件で,リクルート社会長の江副浩正が逮捕。
未公開株を賄賂として,多くの有力政治家たちに贈った戦後最大の贈収賄事件でした。

4月1日,消費税施行。
当初は3%,1997年4月から5%,そして2014年4月から8%となりました。

6月4日,北京で天安門事件発生。
4月の胡耀邦の死をきっかけとして,中国北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し,中国人民解放軍が武力弾圧し,多数の死傷者を出した事件です。
中国当局はいまだに,事件はなかった,という隠蔽工作をつづけています。

11月10日,ベルリンの壁崩壊。
ベルリンの壁とは,冷戦の真っ只中にあった1961.8.13に東ドイツによって建設された西ベルリンを包囲する壁です。
1990.10.3に東西ドイツが統一されるまで,この壁はドイツ分断や冷戦の象徴となっていました。

12月3日,米のジョージ・H・W・ブッシュ大統領とソ連のミハイル・ゴルバチョフ最高会議議長がマルタ島で会談し,冷戦の終結を宣言しました。
その後もソ連のペレストロイカ(再構築)路線は行き詰まり,東欧各国の独立や連邦からの離脱が進み,ついに1991.12.25にソ連は消滅します。

ここに,冷戦とは,第二次世界大戦後の世界を二分した,アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と,ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造です。

12月29日,東証の大納会で,日経平均株価が38,957円(史上最高値)を記録し,翌1990年の大発会から株価は下落へ転じ,バブル景気は崩壊に向かいます。

この年には,多くの著名人が亡くなっています。

2月4日,手塚治虫さん死去(60)
手塚治虫(1928.11.3)は漫画家・アニメータ・医学博士であり,生存中から「マンガの神様」と称されました。
豊中市で生まれ,宝塚市で育ち,大阪帝国大学医学専門部在学中に漫画家としてデビューし,『新宝島』がベストセラーとなり,大阪に「赤本」ブームを作りだします。
1950年より漫画雑誌に登場,『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』などを大ヒットさせます。
1963年から鉄腕アトムをTVアニメーションとして製作します。
1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』を創り,晩年には『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』などの青年漫画をも創り出しました。
デビューから亡くなるまで第一線を走り続け,夢を与え続けた60年の生涯でした。

藤子不二夫,石ノ森章太郎,赤塚不二夫,横山光輝など多くの人たちが手塚さんの影響を受け,漫画家を志しました。

漫画家たちばかりではなく,ロボット開発に携わる技術者たちが「アトムのようなロボットを作りたい」と言うほど後々まで社会に影響をあたえました。

手塚作品は海外にも影響を与えており,アメリカ映画『ミクロ決死圏』(1966)は,『吸血魔団』(1948)の,ディズニーの『ライオンキング』映画(1994)舞台(1997)は『ジャングル大帝』マンガ(1950-54)アニメ(1965-66)の明らかに盗作と言ってよい作品です。

じつは,少年のころ,貸本屋で「赤本」と呼ばれた手塚作品を見つけ出して,読み漁りました。まったく他の作者とは一線を画した胸躍るような内容に魅了され,雑誌「少年」に連載された『鉄腕アトム』も発売日の前から,貸本屋で予約し,誰よりも先に読むことを小学校の卒業まで続けました。
手塚さんの影響で,自分でも漫画を描いていたのが,クラスでも有名で,「マンガの先生」というありがたいアダナを頂戴していました。
もし,いまのように自由で余裕のある時代だったら,漫画家を目指していたかもしれません。

4月27日,松下幸之助さんが死去(94)
松下幸之助(1984.11.27)は松下電器(現パナソニック)を一代で築き上げた経営者で,経営の神様と称されています。
和歌山の出身で,尋常小学校を中退して丁稚奉公から会社を立ち上げ成功し,長者番付1位を長年続け,のちにPHP研究所を設立し倫理教育に乗り出し,晩年には松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも力をそそぎました。死亡時の遺産総額は約2,450億といわれ日本最高です。

松下さんは大阪の経営者らしく,大社長になってからも,言葉づかいは誰に対しても丁寧で,面長で耳が大きく,仏様のような感じの人でした。

6月24日,美空ひばりさんが死去(52)
美空ひばり(1937.5.29)は横浜市の出身,幼少のころから才能を発揮し,母親の支援で成功し,昭和の歌謡界を代表する歌手といわれています。
山口組三代目・田岡一雄が父親代わりで,日活の人気スター・小林旭と結婚(1962-64)するも入籍せずに離婚,実弟の不祥事や暴力団とのつながりを指摘されるも,人気は不動でしたが,身内はみんな早逝し,本人も晩年は病魔に苦しみます。
代表曲は, 『リンゴ追分』(1952),『』(1964),『悲しい酒』(1966),『川の流れのように』(89)など多数。
同い年の江利チエミ(1937-82),雪村いづみ(1937-)と東宝映画『ジャンケン娘』(1955)で共演,元祖三人娘を結成しますが,実際は,圧倒的に美空の存在が大きかったようです。

個人的には江利チエミが贔屓だったのですが,東映の高倉健と結婚(1959-71)しますがやむなく離婚,明るい表情とは裏腹に,不幸が付きまとった45年の短い人生でした。

7月16日,ヘルベルト・フォン・カラヤン死去(81)
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908.4.5)はオーストリア・ザルツブルグ出身の指揮者,ベルリン・フィルハ-モニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督をつとめ,暗譜で眼を閉じて指揮することでも有名で,一時期,クラシック音楽界の主要ポストを独占し,楽壇の帝王とも称されていました。
当時のソニー社長・大賀典雄と親交があり,大賀がカラヤンの自宅を訪ねているときに倒れ,大賀の胸に抱かれて絶命しました。

大賀典雄(1930-2011)は日本の実業家・指揮者・声楽家です。
東京藝術大学音楽学部卒業・同専攻科修了後ドイツに留学,テープレコーダーの図面を東京通信工業(現ソニー)に送ったりした縁で,留学後,井深大に誘われて入社(1959)します。
最初は歌手と実業家の2足の草鞋を履いていましたが,そのご実業に専念し,CBSソニーレコードやソニー商事の社長を経てソニーの社長に就任(1982),会長等を経て退職,退職慰労金の16億円を全額軽井沢町に寄付し,軽井沢大賀ホールを建てました。

大賀さんの歌うフィガロをFM放送で聴いたことがあります。
良いバリトンでした。
もし,人生をやり直す機会があるとすれば,音楽家になりたかった,と本人も言われていました。

12月9日,開高健さんが死去(58)
開高健(1930.12.30)は大阪市天王寺区の出身,天王寺中学(現天王寺高校)卒,大阪市立大学文学部卒,在学中に牧羊子と結婚(1951),壽屋(現サントリー)宣伝部に入社(1954),数々の名キャッチコピーを創作,朝日新聞の臨時特派員としてベトナム戦争に従軍(1964)命をはって取材,帰国後に小田実らとともにベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に参加します。
裸の王様』で芥川賞受賞(1958),食と釣りを楽しみ,エッセイも多数。
開高さんの作品は海外でも評判が高く,もし,もう少し長生きしておれば,大江健三郎(1935-)ではなくて,開高さんがノーベル文学賞を受賞していたかもしれません。

盟友・谷沢栄一は『回想 開高健』(PHP研究所,1999)のなかで,「七つ年上の女につかまり,しだいに事態の意味するところに気づき,見る見る不機嫌となった」と書き,稀代の悪妻とまで言い切っています。開高さんが海外にまで釣りに出かけたのは,妻から逃げるためだった,とも言っています。

編集者・菊谷匡祐も『開高健のいる風景』(集英社,2002)で,開高の葬儀のとき,牧羊子(1923-2000)が郷土の先輩・司馬遼太郎(1923-1996)に弔辞を依頼しますが,「開高さんは口にこそ出しませんでしたが,司馬さんの作品を認めていなかった」と証言しています。さほどに,食い違った夫婦であったようです。
しかし,悪妻が故に,夫がいい仕事をした実例は,古今東西いろいろとありますからね。

この1989年という年は,個人的にも特別な年でした。
この年の9月から12月までの3か月余り,フランスに滞在する機会を得ました。
それまで学校や仕事には生まれた自宅から通っていましたから,初めて自宅を離れるのが,海外,しかも伝統あるフランスのパリということで,期待と少々の不安がありました。
居住地は,地下鉄1号線の,凱旋門の直下のシャルル・ド・ゴール・エトワール駅(通称エトワール)から乗って終点のヴァンセンヌにあるホテル兼アパートでした。
じつはヴァンセンヌは市で,パリ市の隣町ですが,フランス人によるとほとんどパリと言ってよいそうです。
パリの西にブローニュ―の森があり,東にヴァンセンヌの森があります。しかしブローニュ―の森はパリではないそうです。
勤務先が高速地下鉄RERとバスを乗り継いて15km東の新興都市シャンスルマルヌにあるCSTB(建築科学技術研究所)でしたので,パリの東が適当であろうと,フランス人(日本で私の研究室で研修した人)が思って確保してくれたのだと思います。
それと夜のジョギングをするのに,ヴァンセンヌの森が適切ではないかとも言っていました。
しかし,フランスの道は犬のフンだらけで,踏まずに歩くことはできません。フンを踏みながら走るのはなかなか慣れませんでした。

フランスの思い出はいろいろありますが,また別の機会にゆっくりとお話ししましょう。

この季節の歌は『誰もいいない梅』にしましょうか。

山口洋子・作詞 内藤法美・作曲 越路吹雪・歌(1970)

今はもう秋 誰もいない海
知らん顔して 人がゆきすぎても
わたしは忘れない
海に約束したから
つらくても つらくても
死にはしないと

今はもう秋 誰もいない海
たった一つの夢が 破れても
わたしは忘れない
砂に約束したから
淋しくても 淋しくても
死にはしないと

今はもう秋 誰もいない海
いとしい面影 帰らなくても
わたしは忘れない
空に約束したから
ひとりでも ひとりでも
死にはしないと

作曲者・内藤法美(1929-88)は,歌手・越路吹雪(1924-80)の夫です。
長らくヒット曲がなかった夫にやっとヒットが出たということで妻は非常に喜んだということです。
ですからここはトア・エ・モアではなくて越路吹雪にしました。
作詞者・山口洋子(1933-)は詩人で,「横浜たそがれ」の同名の作詞者とは別人です。

昼間はまだ残暑がありますが,夜は虫の音が聞こえる秋になりました。
本格的な秋にはもう少しですが,季節の替り目には体調を壊すことがありますので,夏の疲れがでませんように,すこやかにお過ごしください。

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