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夏の花

夏はよる。
月の頃はさらなり,
やみもなほ,
ほたるの多く飛びちがひたる。
また,ただひとつふたつなど,
ほのかにうちひかりて行くもをかし。
雨など降るもをかし。

清少納言枕草子』の「〔一〕春はあけぼの…」につづく余りにも有名な一節です。

ここに何度もでてくる「をかし」は「趣がある,風情がある,風流だ」という意味です。

しかし,現代は,夜も熱帯夜(最低気温が25℃以上の夜)になって,過ごしよいわけでもありません。

ついでに
都心部ではヒートアイランド(heat island)と呼ばれる現象がおきています。
これは,地図上に各地の温度分布を等温線で示し,それを等高線のようにみなすと,都心部を頂点とするような島の形状を表す現象です。
原因は,都市化に伴う環境の変化ですが
1.地表の被覆の人工物化(雨水が土壌に浸透しない)
2.人工排熱の増加(エアコン排熱など)
3.都市の高密度化
が主なものです。

この季節は,二十四節気のうちで「大暑」(7月23日~8月6日)と呼ばれて,文字通り,最も暑い期間です。
8月7日は「立秋」で暦の上では秋ですが,このあたりが一番暑くなる頃です。
しかし,手紙では,大暑のときは「暑中お見舞い」で,立秋になれば「残暑お見舞い」になりますので,その区別はお間違いのないように願います。

ところで
夏の花の代表はやっぱり向日葵(ひまわり)でしょうか。
茎に剛毛を生じ,高さは2mに達し,直径20cmもの大型の黄色い花を開きます。

ひまわりの種はペットの食用として用いられていますが,もちろん人間が食しても,有用な食糧です。
ヒマワリの種のもつ不飽和脂肪酸には,血中のコレステロールを減らす作用があり,血管を浄化して血行を良くします。
また一緒に含まれるビタミンEにも同様の効果があるため,しなやかな血管を保つにはおすすめの食材といえるでしょう。
生活習慣病の予防にも効果的です。

ひまわりといえば,この映画を思い出します。
映画『ひまわり』(イタリア,1970年9月日本公開)
ヴィットリオ・デ・シーカ・監督
ヘンリー・マンシーニ・音楽
第2次大戦中,洋裁師のジョバンナ(ソフィア・ローレン)と兵士アントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)は海岸で知合い,愛し合い,すぐに結婚。しかし,戦場に行きたくないアントニオは仮病を装うが,すぐにバレて,過酷なソ連戦線に追いやられます。アントニオは極寒の地で倒れますが,少女マーシャ(リュドミラ・サベーリエワ)に助けられます。
待ち続けるジョバンナは,戦後,ソ連戦線からの帰還兵に彼の消息を尋ねます。わずかな手がかりを頼りにソ連に向かうジョバンナ。ようやく探し当てますが,そこに暮らすマーシャと幼な子に会い,事情を察します。仕事から帰るアントニオの姿を見て,逃げるように立ち去り列車に飛び乗り号泣するジョバンナ。

美しい映像と美しい音楽,みごとな反戦映画です。
印象的なのは,一面のひまわり畑とともに,一面のヘルメットが並んでいる墓地の光景です。
ひまわりの数と同じほどの人々がこの戦争で亡くなったことを象徴的に表しています。

この映画を見たときなぜか,この歌を思い出しました。
岸壁の母藤田まさと・詞 平川浪竜・曲 菊池章子・歌(1954)二葉百合子・歌(1972)
実在の母親が舞鶴で,出征した息子の帰りを待ち続けた話を歌にして長年にわたり流行しました。

イタリア人の妻は積極的に戦地まで探しに行き,日本人の母はただ岸壁で待ち続ける,その対比でした。

しかし,岸壁の母の息子さんは生存されており,実情を知りながら,日本には帰られませんでした。

いずれにせよ,
間違いなく戦争は悲惨なものであり,二度とやってはならないことだけは確かです。

うれる小説とは

人気作家の渡辺淳一(1933.10.24-2014.4.30)が亡くなりましたが,北海道の出身,札幌医科大学卒,医学博士,代表作は「光と影」「遠き落日」「失楽園」など,一般には恋愛小説家の印象がありました。

「あなたはうんと詩を読んだらいいですね」。ある女性記者にデスクはこう勧めた。戦後間もない小紙の大阪本社学芸部,デスクは後の作家・井上靖,女性記者とは同じく山崎豊子さんだった。
ー 中略 -
「あなたはおそらく生涯,原稿用紙と万年筆だけがあればいい人なんだ。臆せず書くことですよ」。こちらは新聞社を離れた山崎さんへの週刊新潮の名編集者の斎藤十一の助言である。

毎日新聞2013.10.1「余禄」

すごい時代があったんですね。

井上靖(1907.5.6-1991.1.29)は静岡県伊豆市で育ち,京都大学文学部卒,文化勲章受章,代表作は「闘牛」「氷壁」「天平の甍」「敦煌」など,しばしばノーベル文学賞の候補にあがったようです。

山崎豊子(1924.11.3-2013.9.29)は大阪市船場の出身,実家は老舗の昆布屋「小倉屋山本」で,相愛女学校卒,京都女子専門学校(現・京都女子大学)国文学科卒です。

山崎さんの作品は,事実に基づいた社会性のあるものが多く,ほとんどが映像化・ドラマ化された話題作と言っても過言ではありません。

デビュー作
暖簾」  生家の昆布屋をモデルに親子二代の商人の物語

2作目
花のれん」 吉本興業を創設した吉本せいをモデルにした作品で,直木賞受賞

ぼんち」  足袋問屋の息子の放蕩・成長を描いて,市川雷蔵主演で映画化・ドラマ化

白い巨塔」  大阪大学医学部をモデルに現実を鋭く描いて話題を呼び,田宮次郎主演で映画化され,そのご何度もTVドラマ化された

華麗なる一族」  神戸銀行(現・三井住友銀行)をモデルにした経済小説で,佐分利信主演で映画化,そのご2度にわたりTVドラマ化された

不毛地帯」  商社を舞台にした不毛な商戦を描き,映画化・ドラマ化

大地の子」  中国残留孤児をモデルに2つの祖国のもとで逞しく生きる青年を描き,上川隆也主演でNHKでTVドラマ化された

沈まぬ太陽」  日本航空社内の腐敗と航空機事故を扱い,渡辺謙主演で映画化

運命の人」  沖縄返還にまつわる密約を巡って毎日新聞社の西山記者をモデルに描き,本木雅弘主演でTVドラマ化

約束の海」  旧海軍将校の父と海上自衛隊員の息子を主人公に戦争と平和を問う大河小説で,未完の絶筆作品となった

多くの話題作を提供した山崎さんですが,多量の取材に基づいて執筆するのですが,その取材原稿をそのまま引用したりするために,何度も盗用疑惑を指摘されてきました。

しかし,亡くなる直前まで精力的に執筆活動にいそしまれ,その作品がことごとく世間に評価され,幸せな作家生活であったと思います。

気になる音楽と音楽家

ある開発途上国に赴任していたとき,口に合うレストランもない中,比較的まし,と聞いたイタリアン・レストランに友人と二人で行ったときのことです。

そこでギターの調べが聞こえてきたのですが,明らかに聞き覚えのある曲でした。

それはインスピレーションジプシーキングス演奏)という曲で時代劇「鬼平犯科帳」のエンド・ロールで江戸の四季の美しい映像がうつされるバックに流れる音楽でした。

思わず演奏するギター・デュオに片言のロシア語で「それは日本の音楽だ!」と言うと,
「ミヤガワ,ミヤガワ」と言って,つぎの曲を弾きだしました。

それは
恋のバカンス』岩谷時子・作詞 宮川泰・作曲 ザ・ピーナッツ・歌(1963)

ため息の出るような
あなたのくちづけに
甘い恋を夢みる 乙女ごころよ
金色に輝く 熱い砂の上で
裸で恋をしよう 人魚のように

陽にやけた ほほよせて
ささやいた 約束は
二人だけの 秘めごと
ためいきが 出ちゃう
ああ 恋のよろこびに
バラ色の月日よ
はじめて あなたを見た
恋のバカンス

あとで聞いたところによると,ロシアでかなり流行った歌だそうで,ロシア語の歌詞もありましたが,「裸で恋をしよう」などという過激(?)な言葉はありません。

じつは宮川さん,このわずか4か月後の春分の日にお亡くなりになったのです。

宮川泰(ひろし,1931.3.18-2006.3.21)さんは,大阪府富田林市で育たれ,大阪学芸大学(現・大阪教育大学)音楽科を中退,そのご和製ポップスの開拓者として活躍,ザ・ピーナッツを育てられたことでも有名です。
代表作は「ウナ・セラ・ディ東京」「銀色の道」「宇宙戦艦ヤマド」など多数の作曲をしました。

クレージーキャッツにピアニストとして入団を誘われたりするほどのお笑い好きで,楽しく音楽する人でした。

岩谷時子(1916.3.18-2013.10.25)さんは,幼少から兵庫県西宮市で育たれ,神戸女学院大学部英文科を卒業後,宝塚歌劇団出版部に就職され,雑誌「歌劇」の編集長として活躍,8歳年下の
越路吹雪(1924.2.18-1980.11.7)と知合い,越路が退団するときに一緒に退職し,以後越路の無給のマネージャーとなります。
生活費を稼ぐため作詞家・訳詞家となり,越路のすべての歌と多くの作詞をしました。
代表作は「夜明けのうた」「君といつまでも」「恋の季節」「愛の賛歌」など多数の作詞・訳詞をしました。

生涯独身で,作詞から想像するような艶やかさはなく,むしろ質素な感じのする人で,97歳の長寿をまっとうされました。

ザ・ピーナッツ(活動期間59-75)は名古屋出身の双子女性デュオ,姉エミさんが沢田研二と結婚することで解散,エミさんは2012.6.15に亡くなっています。

当時からそして今も彼女らを上回るような世界的に活躍する女性デュオは出ていません。
ピンク・レディー(活動期間76-81)は,ピーナッツを目指したようですが,志し半ばで解散,挫折しました。
そのご何度も再結成しましたが,やはりうまくいきません。
歌い続けることも大切なんですね。

ぼやき漫才のように

「ぼやき」とは
「ぶつぶつと不平を言う」「ぐずぐす言う」「泣き言をいう」など,あまり良い印象の言葉ではありませんが,
野村克也(1935.6-)元監督のように,それを売り物にしている人もいます。

それどころか
ぼやき漫才で一世を風靡(?)したのが人生幸朗(1907-1982)ですが,おもに歌謡曲の歌詞の些細な矛盾にイチャモンをつけて
「何ぬかしとんねん,馬鹿にすなぁ!」
「どついたろか,馬鹿モノ!」
「責任者ででこい!」
などの定番のセリフで笑いをとっていました。
ぼやき漫才は彼の特許ではなくて師匠の都家文雄(1893-1971)を引き継いだものですが,師匠の芸は「陰」でしたが,人生さんは極め付きの「陽」でした。

正確には,ぼやきではありませんが,以前からしっくりとこない曲がありました。

それは
高校三年生』丘灯至夫・作詞 遠藤実・作曲 舟木一夫・歌(1963)

赤い夕陽が 校舎をそめて
ニレの木蔭に 弾む声
ああ 高校三年生 ぼくら
離れ離れに なろうとも
クラス仲間は いつまでも

泣いた日もある 怨んだことも
思い出すだろ 懐かしく
ああ 高校三年生 ぼくら
フォークダンスの 手をとれば
甘く匂うよ 黒髪が

残り少ない 日数を胸に
夢がはばたく 遠い空
ああ 高校三年生 ぼくら
道はそれぞれ 別れても
越えて歌おう この歌を

小説家・演芸評論家の安藤鶴夫(1908-1969)は,デビュー前に舟木のこの歌を聴いて,そのさわやかさに感動した,と言っていました。

しかし,私は初めて聴いたときから,かなり違和感を覚えました。
それは自分の高校生活と比べて「実感がない」という一言です。
「クラス仲間はいつまでも」なんて思ったこともないし,
「甘く匂うよ黒髪が」はフォークダンスのときも全く経験ありませんでした。
まして「夢がはばたく」ような思いとは反対の,なにか重ぐるしいような雰囲気でしたね。
それは大学受験という関門のまえで,高校が予備校化していることを肌で感じていたからでしょう。

遠藤実(1932-2008)は,17歳で上京して,さまざまな職業を経て,流しの演歌師になり,苦労して作曲家にまでなりました。
代表曲は「お月さん今晩は」「からたち日記」「北国の春」等。
彼は高校に行きたくても行けなかったアコガレから,この歌を作ったようです。
それを聞けば,納得がいきました。
こちらは大学に行ける状況での贅沢な悩みだったでしょうから。

さらに
知床旅情』森繁久弥・作詞作曲 加藤登紀子・歌(1960)
歌いだし

知床の岬に

森繁久彌(1913-2009)は大阪府枚方市の出身で,俳優・歌手・コメディアン,文化勲章・国民栄誉賞受賞。

誰でも知っているこの名曲と比べてください。
早春賦』吉丸一昌・作詞 中田章・作曲(1913)
歌いだし

春は名のみの

メロディーが全く同じでしょう?
ですから初めて「知床旅情」を聴いたとき,非常に違和感を持ちました。
作曲家の高木東六(1904-2006)は「作者がこのことに気づいたとき,すぐに作品を引っ込めるべきだった」と言いました。

すなわち,名作の「盗作」といわれても仕方のないほど酷似しています。

森繁という人,まぁ本職の作曲家でもないし,稀代のエンターテイナーですから,名作の盗作と言われても,そんなに硬いこと言わないでも,座興で作ったんだから,ぐらいの感じだったのかもしれません。

話しは飛びますが
万葉集で,額田王(ぬかたのおおきみ)の有名な歌

あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
野守は見ずや 君が袖振る

この歌,宴席での戯れ歌として作られたことが明らかになっています。
当時,額田さんはすでに相当に高齢で,歌のウキウキ感を,実感として表現するという状況ではなかったということです。

しかし,知床旅情の歌詞にある「白夜は明ける」は,知床ぐらいの緯度(44度20分)では白夜現象は現れません。
白夜はおおむね緯度が66.6度以上でないと起こりません。

ちなみに,札幌(43度4分)と南仏のマルセイユ(43度17分)がほぼ同じくらいの緯度で,ヨーロッパに比べて日本はかなり南に位置することがわかります。

さらに
森繁が歌っているときにはそれほど流行らなかったのに,加藤登紀子が歌いだしてからヒットしたのですが,「白いカモメ」とあるのに「白いカモメ」と,勝手に変えて歌っていたのを森繁自身が加藤に注意しています。
いい加減な歌詞に,いい加減な曲でも,作者としてはヤッパリ気になるのですね。

つゆの季節

いよいよ梅雨入りですね。
夏至(6月21日ころ)の前後2週間づつが標準的な期間ですから,今年は少々早めでした。

梅雨になるとじめじめして湿度が高くなり,かびが発生したり,ものが腐りやすくなって食あたりの危険性が増し,洗濯物が乾きにくくなり,だいいち,気分的に嫌ですよね。

日本人は天日干しが好みで,冬でも洗濯物を外に干す習慣が普通ですが,逆にカナダでは,夏でも乾燥機で乾かします。

洗濯物に限らず,ふとんでも天日干しをしますね。
最近は天日に干すより,紫外線を当てダニを殺し,たたき出して吸込む方が効果的というふとん専用の掃除機も好評なようです。

洗濯物の乾燥には,乾燥機のほかに,ユニットバスなどで浴室を乾燥室にするもの,エアコンの除湿モードを利用して部屋干しで乾燥させるもの,などがあります。

梅雨の良いところはないのでしょうか?
いえいえ
農作物を育てるという大切な役目があります。
この時期に多くの降水がないとコメの収穫に大きく影響します。
冬の積雪も農業には大切な水源とされています。

私が2年間も生活した,ある開発途上国では,夏は50℃にもなろうかというのに,6月から9月の4か月間で一滴の降水もありませんでした。
水源は自国ではまったく確保できずに,中国の高山の雪解け水に頼っています。
乾燥したところでは気象が急変して,突然寒くなったりもします。
日較差(1日の最高と最低気温の差)は平気で20℃以上ありました。
まあ熱帯夜がなくて夜は涼しい,という良い点もありますが。
なしにろ湿度が低くくて夏でも静電気が発生します。
ウガイすべくガラスコップに水を注ごうとして,水栓をひねったとき静電気が発生して思わずコップを落として割ったことが何度かありました。
そういうところで生活すると,肌がガサガサになります。
日本女性の肌がいつまでも美しいのは,この湿潤した気候の影響もあると思います。

アメリカの,最近ではインドでも,大規模農業地域では,地下水をくみ上げて農業用水に利用しているのです。
降水という供給源がないと,枯渇するのは必至です。

むかし日本でも,工業用水として地下水を利用して地盤沈下を引き起こしたことは記憶に新しいことです。
取水規制により,地盤の隆起が起こりましが,これは元に戻っただけの話です。

日本では降水量が多いために,このような回復が容易でした。
しかし,降水量の少ない地域では,容易に砂漠化します。

大気汚染の影響で酸性雨が降り,森林が壊滅した地域が世界には多くあります。
しかし,わが国では降水量が多いため,それほどの被害は出ていません。

中国からの黄砂もPM2.5(Particulate Matterの略,直径2.5μm以下の超微粒子)も十分な降水があれば洗い落とされます。

ただし,降りはじめの雨には気を付けてください。
長く晴天が続いた後の雨には大気中の有害物質が多く含まれているため,かからない方が安全です。

充分な降雨が人間の生活には必要なことがお分かりになったでしょう。
そして日本がいかに住みよい国であるかということもお分かりでしょう。

さて
雨の歌です。

『雨』 北原白秋・作詞 弘田龍太郎・作曲

雨がふります 雨がふる
遊びにゆきたし 傘はなし
紅緒のかっこも 緒が切れた

雨がふります 雨がふる
いやでもお家で 遊びましょう
千代紙折りましょう たたみましょう

ここではマニアックに同じ雨でも
『雨』 八木重吉・作詞 多田武彦・作曲

雨のおとが きこえる
雨がふっていたのだ

あのおとのように そっと世のために
はたらいていよう

雨があがるように しずかに死んでいこう

多田武彦(1930.11-)さんは大阪市のお生まれ,京都大法学部卒後,富士銀行に入社,在学中,男声合唱団に所属し指揮者として活躍,就職後は,作曲家・清水脩氏に師事し,日曜作曲家としておもに男声合唱曲をたくさん作曲されました。
代表曲「柳川風俗詩」(北原白秋),「富士山」(草野心平),「雨」など,重厚な和声を大切にした「多田節」として,その筋では有名です。
この曲は組曲「雨」の最終Ⅵの曲で,
多田さん自身が「私の臨終における鎮魂曲」と言われています。

 

まどさんを偲ぶ

詩人のまど・みちお(1909.11.16-2014.2.28)さんが亡くなりました。
享年104歳というのは天寿をまっとうされたと言えるのかもしれませんが,限りなく透明で優しい作品を作り続けてこられただけに,とても残念な気がします。

今回は数あるまどさんの作品から,作曲されているモノを中心に,いくつか紹介します。

まどさんのご本名は石田道雄とおっしゃり,山口県の徳山のご出身です。
お父さんの仕事の関係で,幼いころに台湾に渡り,そこで成長されています。
台北工業学校土木科に在学中,同人誌『あゆみ』を創刊し,そこに詩を発表されていました。

小説家・詩人の阪田寛夫(1925-2005)は
(大阪の人で『サッちゃん』の作詞でも有名),評伝小説『まどさん』新潮社(1985)〔ちくま文庫1993復刻〕で,まどさんの人間像と作品の原点を掘り下げています。
一部を紹介すると

横断歩道を渡りかけていた雑踏の中にまどさんのかがんだ背中をみつけて,うしろから「まどさん」と呼んだら,振返ったまどさんは,一寸恐縮した表情で眼を伏せて,わざわざあと戻りをした。
 ― 中略 ー
「おかわりありませんか」
そう言って七十何歳のまどさんの方から先に,先生に出逢った子供のように古いピケ帽をとって急いで頭を下げた。むかし初めて会った時と,態度も服装も変っていない。
 ― 中略 ー
まどさんの童謡だけを知っている人がこの場に立ち会ったとすれば,その言葉づかいが,ずいぶん年下の者に対しても,隅々まで丁寧であることになるほどとうなずくと共に,その声が意外に甲高いのに驚くかも知れない。

すごい観察力ですね。愛情に裏打ちされているからでしょう。

ぞうさん團伊久磨・作曲

ぞうさん
ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ
かあさんも ながいのよ

ぞうさん
ぞうさん
だあれが すきなの
あのね
かあさんが すきなのよ

やぎさんゆうびん團伊久磨・作曲

しろやぎさんから おてがみ ついた
くろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきのてがみの ごようじ なあに

くろやぎさんから おてがみ ついた
しろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきのてがみの ごようじ なあに

びわ磯部 俶・作曲

びわは やさしい
木の実だから
だっこ しあって
うれている
うすい 虹ある
ろばさんの
お耳 みたいな
葉のかげで

さくらのはなさん磯部 俶・作曲

さくらのはなさん
さいたけど
きだから
あるいて こられない
みんなで みんなで
みにいって あげよう

ドロップスのうた大中 恩・作曲

むかし なきむしかみさまが
あさやけみて ないて
ゆうやけみて ないて
まっかななみだが ぽろんぽろん
きいろいなみだが ぽろんぽろん
それがせかいじゅうに ちらばって
いまではドロップス
こどもがなめます ぺろんぺろん
おとながなめます ぺろんぺろん

ネコ」 こんな楽しい詩もあります。

あくびを するとき
ネコのかおは花のようになります

だれも 見ていなくても
じぶんにも 見えなくても

でも るすばんの ざしきで
ネコが かおを
クレオメの 花にしたとき
それを 見ていました

たたみのイグサの 一ぽん一ぽんが
しょうじの さんの 一ぽん一ぽんが
てんじょうの木目の 一ぽん一ぽんが
かおを すりよせるようにして

猫もまどさんも,いっそう好きになったでしょう?
わが家にも7kgになろうかというゴンタなのがいますが,彼が大きなあくびをするとき,いつもこの詩を思い出します。

画家の安野光雅(1926.3.20-)が,サトウ・ハチロー『ちいさい秋みつけた』と対比して
「小さい秋」というような表現は作為的で自然には出てこない
そこが,まどさんと違うところである,というような発言をしていました。
これは,なにもサトウ・ハチローをおとしめて言っているのではなくて,作風や好みのことだと理解してください。

合掌

日本人スポーツ選手

テニスの錦織圭(にしこり・けい,24)が
スペインのマドリード・オープンでベスト4(4強)に残り,界ランキング10位以内を確定させました。
ほかの外国人選手と比べて,きわだって小柄に見える錦織選手の活躍は,快挙と言っていいでしょう。

現在の年間のランキングポイント制になってからの日本人選手では
1995年・伊達公子(25)4位
2004年・杉山愛(28)8位
があります。

しかし
もっともっと以前に世界で活躍した日本人選手がいたのをご存知ですか?
それは佐藤次郎(1908.1.5-1934.4.5)選手です。
グランドスラム大会(4大大会,全豪・全仏・全英・全米)に3回ベスト4に残っています。
1933年には世界3位にランキング(ただし,現在のようなポイント制ではなく,評論家ウォリス・マイヤーズが選定)されました。
しかし
この当時の日本では,個人戦よりも団体戦のデビスカップの方が優先される時代でした。
責任感の人一倍強かった佐藤は,逆にそのプレッシャーの過大さゆえにデ杯では好成績を残せず,まわりから非難されました。

そしてついに
1934年4月5日,ヨーロッパ遠征からの帰途,マレーシアのマラッカ海峡にて「箱根丸」から投身自殺をしたのでした。

この悲劇の系図は
1964年・東京オリンピッに引き継がれるのです。
マラソンの円谷幸吉自衛隊員,1940.5.13-1968.1.9)は堂々の3位・銅メダルを獲得しました。
しかし,ゴールの国立競技場に2位で入って来たのに,イギリスのヒートリーに直前で抜かれたのが,かなり悔しかったようです。
当然のこと,つぎにメキシコでは「金メダル」を,と期待されました。
ですが,ついに
「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」という遺書を残して,自殺しました。

ところで
1936年・ベルリンオリンピックの200m平泳ぎで,前畑秀子(1914.5.20-1995.2.24)がドイツ選手とデッドヒートする際に,NHKアナウンサー河西三省がラジオ中継で
前畑がんばれ!」を絶叫して連呼したのが話題になりました。

ナチス独裁下のベルリンで,前畑選手は見事金メダルに輝きました。
めでたし,めでたし。
でも
最近の放送は,実況ではなくて既に応援放送になってしまっていますから,むしろ元テニス選手の「熱い男」が登場したりすると,逆にこちらが興ざめで「冷えて」しまって放送を変えたりしてしまいます。

いっぽう
1948年・ロンドンオリンピックには敗戦国の日本は出場できませんでした。
オリンピック水泳の決勝と日本選手権を同日に開き,古橋広之進(1928.9.16-2009.8.2)は400mと1500m自由形で,金メダリストの記録と当時の世界記録のどちらをも上回りました。
しかし
つぎの1952年・ヘルシンキオリンピックに出場しますが,選手としてのピークを過ぎていたことと,アメーバ赤痢に罹患して発病しており,本番の400m自由形では8位に終わりました。
そのとき
NHKの飯田次男アナウンサーは
「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでやって下さい。古橋の活躍なくして戦後の日本の発展は有り得なかったのであります。古橋に有難うを言ってあげて下さい」
と日本に向けて放送したのでした。

さいきん
明治天皇の玄孫(孫の孫,やしゃご)とかいう人が,オリンピック選手に対して
「メダルをかむ行為はするな」
「国歌が流れる際には聴くのではなくて歌え,直立不動で」
「思い出になったとか,楽しかったとかはありえない」
のような発言をしていますが,前述のような過去の歴史を踏まえて仰っているのでしょうか。
天皇家につながるような人が,一般国民の自由な行動にイチャモンを付けるのは,それこそふさわしくない行為だと思います。

私としては
河西さんの熱い応援よりも飯田さんの思いやりのある表現の方に好感がもてます。

現在も日本選手が世界で大活躍しています。
米・大リーグで
レンジャーズのダルビッシュ有(27)は2度目の9回2死までノーヒットでした。
ヤンキースの田中将大(25)は開幕から無傷の5連勝です。
田中の試合時の修正能力はすばらしく見事で,実際の脳の働きは若妻ともども不明ですが,野球脳が優れていることだけは疑いもないようです。

スポーツは楽しむものです。
阿波踊りの文句に「踊るアホウに 見るアホウ 同じアホなら 踊らにゃなソンソン」とあるように
スポーツも見るより,やる方が数倍楽しいです。
この新緑の季節はスポーツにも最適です。
紫外線に気を付けて大いに楽しみましょう。

緑の切妻屋根の家

いま
NHK連続テレビ小説(通称・朝ドラ)がおもしろいです。
「あまちゃん」,「ごちそうさん」,「花子とアン」と3回続いての大ヒット,これはもうホームランと呼ぶべきです。

ほとんど
1985年4月17日,阪神甲子園球場において,巨人・槙原投手から,バース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発に匹敵する快挙です。

もちろん
「花子とアン」は翻訳家・児童文学者の村岡花子(1893.6.21-1968.10.25)〈誕生:安中はな〉の1代記ですが
代表翻訳「赤毛のアン」の孤児院で育ったアンと花子さんの貧しい生い立ちを重ねて共感を得ています。

カナダの作家L・M・モンゴメリ(1874.11.30-1942.4.24)の小説「赤毛のアン」(1908)の原題は”Anne of Green Gables”で,直訳すると「緑の切妻屋根のアン」となります。
場所はカナダの東海岸,プリンス・エドワード島にその家は今も建っています。

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じつは
私がカナダに留学していたとき,職場のカナダ人の女性に
「プリンス・エドワード島に行ってみたい」と言うと
「なんで?あんな何もない辺鄙なところに」と返されて,驚いたことがありました。
日本ではこんなに有名なのに,カナダではそれほどでもないのか,と思いましたが,彼女が東欧からの移民の人と聞いて,納得しました。

ドラマに登場する「はな」さんの“腹心の友”になる蓮子さんには,実在の人物がいます。

歌人の柳原白蓮(1885.10.15-1967.2.22)本名:燁子(あきこ)です。
じつは
燁子さんの叔母の柳原愛子は大正天皇の生母なのです。
ということは
大正天皇と白蓮さんは従兄妹(いとこ)同士ということになります。
また
彼女は大正三大美人の一人で,非常なる美貌の持ち主です。

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そのせいもあって
不幸な結婚を2度もさせられています。
最初は十代で子爵と,つぎは年の離れた九州の炭鉱王と,政略結婚と言ってもいいでしょう。
しかし
最後は駆落ち(白蓮事件として有名)をします。
相手は宮崎龍介という編集者・弁護士・社会運動家で,彼の父・宮崎滔天(とうてん)は中国革命を支援し,孫文の盟友であった社会運動家でした。
それまでの人たちと比べて,地に着いた生き方の龍介に,きっと白蓮さんは心惹かれたのではないかと思われます。
そして
ついに結婚しますが,そのとき白蓮36歳,龍介29歳でした。

さきの3連発のうち,あとの二つは,どちらも女性の1代記で,明治・大正・昭和そして戦争と,過酷な時代を,けなげに生き抜きます。
そのまえの「カーネーション」(2011.10-2012.3)もそうでした。
驚異的な支持を得た「おしん」(1983.4-1984.3)も同様の展開でしたね。

次回の朝ドラは
ニッカウヰスキーの創業者で「日本のウイスキーの父」と呼ばれた竹鶴政孝(1894.6.20-1979.8.29)の1代記で「マッサン」。
ヒロインは妻のリタ(役名はエリー)さんというイギリス・スコットランドの人です。

上記の考察から推論すると
ヒットする,いやホームランの可能性が高いと思われます。

下着のCMがおもしろい

こんなラジオCMを知っていますか?

<男の声>
 ワコールから すべての女性のみなさまに
ブラジャーのお知らせです。

<女性の声>
 右にずれたり 左にはみ出たりしていませんか
 守ってあげたい 二つのデリケートなふくらみ
 大きいか 小さいか なんて関係ない
 あなたの大切な場所を 手でやさしく包み込むように
 ホールドします。

<男性の声>
 つづいて すべての男性のみなさまに
まったく同じナレーションで メンズ・パンツのお知らせ
です。

先ほどとまったく同じ内容が女性の声で流れます。

<男性の声>
 すべての製品に 同じだけの思いやりを ワコールです。

いかがですか?
おもしろいでしょう。
母印と金○のアナロジー(類推)を, ”二つのデリケートなふくらみ” と称するあたり,なかなかの視点です。

しかし
いくつか相違点もありまして, 大きさも硬さもまるで異なります。
だいいち,女性用は確かにホールドする感覚ですが, 男性用は必ずしもホールドしません。

むしろ通気性を優先する場合のほうが多いようです。
むかしの越中という褌(ふんどし)は, 風にそよぐ帆かけ舟のようでしたし, いまのトランクスもその系統でしょう。

かつての六尺は,確かに「褌を締めてかかる」 表現そのものでした。
いまはそれほどのホールド感のあるものはありません。
ビキニやTバック・サポータにその雰囲気は残っている のでしょうか。

ちなみに
私は昼間にはボクサー型で, 就寝時はトランクスです。
それこそ,まったくの蛇足でした。

永井一郎さんの思い出

声優・俳優・ナレータの永井一郎さん(1931.5.10-2014.1.27)が亡くなりました。
享年82歳の突然死でした。
各メディアはアニメ「サザエさん」の磯野波平の声を40年以上と 伝えましたが,私には別の感慨があります。

最近では
NHK広島局統括の「百歳バンザイ」(2002-2011)の 語り役があります。
100歳以上の元気な高齢者を紹介する10分のドキュメンタリ番組 ですが,PUFFYの「これが私の生きる道」のテーマ曲とともに,ご本人もライフワーク(終生の仕事)として, ご自身が百歳になってもやりたいとおっしゃっていました。

しかし
永井さんの声優としての原点は, なんといっても「ローハイド」(1959-1965)につきます。
テキサス州サンアントニオからミズーリ州セタニアまで3000頭の 牛を運ぶ壮大な西部劇です。

以下は(役職 役名 俳優 吹替え声優)
隊長 ギル・フェイバー エリック・フレミング 小林修
補佐役 ロディ・イエイツ クリント・イーストウッド 山田康雄
コック ウイッシュボーン ポール・ブラインガー 永井一郎

面白いドラマに共通するのが,役のキャラ(性格)が立っている
ということがあります。
元南軍の将校であったボスのフェイバーさんは逞しく頑固で男気
があって統率力にたけ,荒くれカウボーイ達も畏敬する存在。
優男で女に弱くちょっと頼りない軟派な補佐役のロディは 役柄とはいえ,今の硬派なイーストウッドを想像するのは困難。
いつも怒鳴りちらし,見習いのマッシーをボロクソに叱って ばかりいるが剽軽な髭の小男のコックのウイッシュボーンと, 役者がそろっていました。
個人的には,永井さんが高校の先輩ということで, 関心を持って見ていました。
この3人はそろって1962年2月21日に来日しています。

そして
主題歌をあのフランキー・レインが猛々しく吠えるように 歌います。
彼はこのほか
OK牧場の決斗」や「真昼の決闘」のハイヌーン でも有名ですね。
ブロークン(訛り)過ぎて何を言っているのか, ネイティブ(生粋の人)でもそうだったらしいのですが, 迫力と勇壮さは満点でした。

つぎのYouTubeでタイトルバック(題名の背景)に歌が流れます。

このテーマ曲を聴くと, 今でも「血わき肉躍る」状態になるんです。

このドラマは
永井さんの声優としての原点であると同時に, クリント・イーストウッドの俳優としての原点でもあるのです。
これはご両人ともに認めておられることです。