かつて,大阪の朝日放送で「ABCホームソング」という人気番組がありました。
開局翌年の1952年9月から1972年7月までつづきました。
月に2曲のオリジナルで20年間に作られた作品は全440曲,そのなかで,フランク永井『こいさんのラブコール』,三浦洸一『踊子』,中曽根美樹『川は流れる』などのヒット曲も生まれました。
こんなユニークな作品もありました。
『かぐや姫』三木鶏郎・作詞作曲 河井坊茶・歌(1955.9)
最初の男は 印度に渡る
仏陀の石鉢 天然記念物
ぴかぴか光らず 真黒なので
よくよく見たらば メイドインジャパン
泣く泣く かぐや姫
月の出を見て 泣きじゃくる
三木鶏郎(1914-1994)東京出身の作詞家・作曲家・放送作家・演出家,本名は繁田裕司,東大卒,陸軍で大尉まで昇進,作曲を諸井三郎に師事,
芸名は,好きなミッキーマウスとデビュー当初3人で活動していたことから「トリオ」をかけて命名,アナウンサーが「とりお」を「とりろー」と誤読したことから,トリローが定着する。
戦後,「冗談音楽」で人気を博す,初めてCMソングを作る,女性門下に楠トシエ,中村メイコがいる。「三木トリロー」とも表記する。ジャズ評論家・司会者の三木鮎郎は実弟。
主な作品は,
『僕は特急の機関士で』
『田舎のバス』中村メイコ・歌
ミツワ石鹸「ワ,ワ,ワ 輪が三つ」
松下電器(現パナソニック)「明るいナショナル」
森下仁丹「ジンジン仁丹,ジンタカタッタタ~」
三共「くしゃみ三回,ルル三錠」
牛乳石鹸「牛乳石鹸,良い石鹸」
京阪電鉄「天満橋から三条へ」『京阪特急』楠トシエ・歌
など多数。
河井坊茶(1920-1971)東京出身の俳優・歌手,本名は秋元善雄,早稲田大学卒,中学で数学教師,戦後,三木らと「トリオ」を結成し芸能活動。
最近は少なくなりましたが,以前はアメリカのコメディー番組がよくTVで放映されていました。
笑いどころで,笑い声が入るのが特徴でした。
あるコメディーで,
男が「良いヴァイオリンを買ったんだ」と嬉しそうに言う,
裏を見て「メイドインジャパン!」と読んでガッカリする,
爆笑の音が入る。
単純なものでしたが,アメリカで「メイドインジャパン」が安物の常識であることに,こちらの方がもっとガッカリしました。
当時,学校で,戦後の日本経済は輸出に頼るしかなく,安く売って外貨を稼ぎたいが,品質の良いものを作れず,「安かろう,悪かろう」と言われていると,学んでいましたが,現実を知らされると情けないものがありました。
しかし,いつの頃からなんでしょうか,「メイドインジャパン」が高品質で高級品の代名詞になってきたのは。
一度張られた悪いレッテルを逆の良いイメージに変える過程は,簡単なことではなかったはずです。
私の個人的経験からは,
1989年にフランスへ行ったときには,すでに日本車の優秀さが定着しており,「日本車がほしいのだけど,高いから」というフランス人の生の声を聞きました。
フランスのスキー場で親しくなったイタリアの二人連れ(歯医者と建築士,ともにスキーインストラクタ)は三菱パジェロに乗ってやって来ました。
スキー場からの帰りのタクシーはベンツのワゴン車でしたが,後部にスキー板を載せて,助手席に乗って,話しながら帰りましたが,誇り高いフランス人運転手が「フランスの車は全然だめ,プジョーもシトロエンも,ルノーはまし,日本車は良い,メルセデス(ベンツ)はなお良い」と自国の車を批判し,他国のものを評価しました。
1996年にカナダに行ったとき,空港まで迎えに来てくれたカナダ人の助教授は,見つけやすいようにと,トヨタのスープラに乗って来ました。
彼はまた,私の持ってきたノートPCのカラー液晶画面の解像度が高く鮮明なことに「さすがメイドインジャパン!」と感心しました。
職場のNRC(National Reseach Council of Canada)で一緒になった日本からの国費留学の助教授は,帰国時にホンダのアメリカ製を買って帰りました(いわゆる逆輸入車)。
カナダ人の英語教師は「ステレオタイプ」(stereotype,定型概念)を説明するために,たとえば「日本人は勤勉」と言いました。
こんなことでも日本人がほめられたようで,うれしいものです。
2005年に,とある開発途上国に行ったとき,外国人向けの ”高級” アパート(現地の1か月分の生活費の2倍以上の家賃)のオーナーは,電化製品が冷蔵庫も電子レンジも炊飯器も韓国製なのに,TVはパナソニックであることを胸を張って自慢しました。
日本から持ち込んだ20台の測定器の全てに,”高級” な東芝製の乾電池が使われていることに現地の大学教員は驚き,そのことに,こちらが驚きました。
一般的に,技術の進歩は経済の成長に応じて進みます。
1960年,池田勇人首相は「国民所得倍増計画」を打ち上げ,7年で達成します。
1968年,GNP(Gross Nationa Product,国民総生産)がアメリカに次いで世界第2位となります。
1986年,国民一人当たりGNPがアメリカを抜きます(~97年)。これはバブル経済(1986~91)の時期とちょうど重なります。
このころ,E. F. ヴォーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン:アメリカへの教訓』弘中・本木: 訳(Japan as Number One: Lessons for America,1979)では,戦後の日本経済の高度成長の要因を分析し,日本的経営を高く評価しています。
それまで,欧米に追い付け追い越せで来た日本は,目標が分らなくなり,当惑しました。
それどころか,現在のリストラと称する首切りによって,日本的経営を崩壊させました。
おなじころ,石原慎太郎・森田昭夫・共著『「NO」と言える日本』(1989)では,アメリカのビジネスの方法に批判的な目を向け,日本が多くのこと,ビジネスから国際問題にまでに関して他国に依存しない態度を取るべきだ,と主張しています。
現在でも,日本は他国(ドイツでも,まして韓国でも)の追随を許さない技術大国であることは間違いのない事実でして,「メイドインジャパン」に誇りと自信を持つことは大切ですが,それが過信に陥らないようにだけは注意すべきでしょう。
この時期はこの歌,
『里の秋』斎藤信夫・作詞 海沼實・作曲 川田正子・歌(1945)
静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた
明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す
さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
今夜も 母さんと 祈ります
ここで,背戸とは,家の裏門・裏口のことです。
作詞は,最初『星月夜』という題で,1941年12月に作られています。齊藤信夫が太平洋戦争開戦の臨時ニュースをきき,そのときの高揚感で書いたといわれています。
終戦の年の12月,海沼實から突然の電報があり,斎藤が送っていた『星月夜』を示して海沼は,1番,2番はこれでいいが3番,4番を作り直してもらいたい,と告げたのです。3番,4番は戦意高揚の内容だったのです。
3番を改作し題も『里の秋』として,1945年12月24日,NHKのラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で川田正子の新曲として全国に向けて放送されました。
放送直後から多くの反響があり,翌年に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われました。
たんなる秋の歌ではなくて,戦争の影響を大きく受けた曲だったのですね。
この曲を悲しく歌わなくて済む平和の時代を継続していかねばなりません。