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灯火親しむの候

秋の夜は涼しく長く,灯火の下で読書するのに適している,そういう時候になりました。
「読書の秋」ともいいますね。

まず古典的な日本文化研究の本を紹介しましょうか。

ルース・ベネディクト著『菊と刀』(原題:The Chrysanthemun and the Sword: Patterns of Japanese Culture)は1946年に出版されました。

ルース・ベネディクト(1887-1948)は米国の女性文化人類学者で,戦時中に,日本へは一度も訪れることなく,日本関連の文献の熟読や日系移民との交流,そして日本映画を見ることのみで,日本文化の研究調査をしたとされています。

もちろん「」は皇室を象徴する花であり,「」は武士の魂として日本人=侍の精神的な支柱とみなされます。

義理などといった日本文化固有の価値を分析し,日本文化を外的な批判を意識する「恥の文化」と決めつけました。

彼女の研究は,戦後の日本に対する占領政策に大いに利用されたと言われています。

先日亡くなった元長崎市長の本島等(92)さんが市長のとき「天皇の戦争責任はあると私は思います」と,自身の軍隊体験なども踏まえ,市議会の答弁で発言されて,賛否の議論をよび,発言に反発した右翼団体幹部に長崎市役所前で銃撃され,重傷を負いましたが,命は取りとめました。

とうぜん,天皇は陸海軍の大元帥として形の上からは日本の最高指導者でしたから,責任がないはずはないのですが,日本国民を統治するために,処分の対象としなかったのは,ベネディクトの研究結果が重要な判断基準になった,と言われています。

しかし,なにをおいても自由な発言を否定するのは,民主主義の基本原理を否定することになります。

つぎは逆に最新の,シンシアリー著『韓国人による沈韓論』扶桑社新書,2014.9.1発行はどうでしょうか。

著者のシンシアリー(SincereLEE,以後「リー氏」)はもちろんペンネームですが,韓国生まれ韓国育ちの生粋の韓国人で,観光以外に外国に行ったことがなく,1970年代の生まれ,というので,40歳前後で,歯科医院をやっているとのことです。
母から日韓併合時代に学んだ日本語を教えられ,子どものころから日本の雑誌やアニメで日本語に親しんで,日本のテレビの録画や雑誌や書籍から,韓国で敵視している日本はどこにも存在しないことを知った,といいます。

英語の ”sincerely” は「誠実に」という意味で,手紙の結びで “Sincerely Yours” あるいは略して “Sincerely” は「敬具」に相当する正式な表現です。

2014年4月16日,韓国フェリー「セウォル(世越)号」が沈没事故を起こしました。
船には,修学旅行の高校生325名,乗組員30人など合計476人が乗っており,事故で,行方不明者を含めて死者が305名という惨事でした。

リー氏は,この事故と韓国社会の構造的問題が酷似している,と言います。
責任感のなさ,法律の機能不全,集団的利己主義などが共通しているそうです。

これは「人災」ではなく「国災」である,と言い切りました。
フェリーには最大積載量の4倍もの貨物が積まれ,過多積載が事故の大きな原因の一つと考えられています。

沈没するセウォル号から真っ先に逃げたのは,船長や航海士など,責任を取るべきに人たちでした。
海運会社の関係者たち,とくにオーナー一族は,召喚に応じず,逃げ出し,姿をくらましまた。

海洋警察や海軍が来ましたが,遅れましたし,対応も下手でした。
もともと韓国では専門家や匠に対する認識が低く,現場には専門知識のある人たち,また現場を指揮できる人がいなかったのです。

すぐに日本の海上保安庁と海上自衛隊が救助を申し入れましたが,韓国は拒否しました。理由は「集団的自衛権の拡大と関連している」と勝手な解釈をしました。

韓国に「責任」という文字がない,誰も責任を取らない社会であるといいます。

セウォル号の違法項目を列挙すると,百貨店サイズになる,といいます。

韓国では,地縁・学縁・血縁が何より大切で,「ウリ(私たち)」と「ナリ(他人)」を鮮明に分けて,区別します。
ウリだけで団結します。

反日」は歴史に根差す問題ではなくて,「反日教」ともいうべき,議論できない感情の人たちで凝り固まっています。

「集団的被害妄想」が蔓延し,「客観性」を受け入れる土壌は培われない,と言います。

リー氏が最も惨憺たる気持ちにおちいったのは,2011年3月11日,日本で東日本大震災が発生したとき,韓国で「韓国バンザイ!」という喜びの叫び声を聞いたのです。
この国は狂っている,と認めざるとえなかった,と述懐しています。

リー氏の「沈韓論」はセウォル号のように韓国は沈没しかけているのにそれを助けるべき船長(指導者)がいないことに,絶望しています。
しかし,彼は逃げ出さずに,沈みゆく船に乗り続けることを選択し,自分のできることを模索しています。

われわれも感情だけのヘイトスピーチ(hate speech,憎悪発言)はやめて,中韓とは主張が異なっても,末永く付き合ってゆかねばなりません。

さて,ここで,松尾芭蕉(1644-1694)の有名な俳句を2句。

物言えば唇寒し秋の風
秋深き隣は何をする人ぞ

つぎは,フランスのヴェルレーヌ(1844-1896)の詩です。
ポール・ヴェルレーヌ落葉上田敏(1874-1916)・訳

秋の日の ヴィオロンの
ためいきの 身にしみて
ひたぶるに うら悲し。

鐘のおとに 胸ふたぎ
色かえて 涙ぐむ
過ぎし日の おもひでや。

げにわれは うらぶれて
こゝかしこ さだめなく
とび散らふ 落葉かな。

日仏の秋の詩を並べてみました。

歌はこの歌にしましょうか。

もずが枯れ木でサトウハチロー・作詞 徳富繁・作曲(1938)

もずが枯れ木で 鳴いている
おいらは藁を たたいてる
綿引き車は おばあさん
コットン 水車も廻ってる

みんな去年と 同じだよ
けんども足んねえ ものがある
あんさの薪割る おとがねえ
バッサリ 薪割るおとがねえ

あんさは満洲へ 行っただよ
鉄砲が涙で 光ってた
もずよ寒いと 泣くがよい
あんさは もっと寒いだろ

とても寂しい歌ですが,戦前につくられました。
このような悲しみは決して今後ないようにしなければなりません。

スポーツの秋です

この時期は秋本番,なにをするにも良い季節です。
秋といえば,スポーツの秋読書の秋芸術の秋食欲の秋などたくさんあります。

まず,スポーツの話題は,
テニス錦織圭(24)選手が,世界ランキングを5位にあげ,ロンドンで11月9日に開幕する年間成績上位8人が争う最終戦,ATPワールドツアー・ファイナルで今季を締めくくります。
1次リーグはB組で,フェデラー(スイス,2位),マリー(英,6位),ラオニッチ(カナダ,8位)と対戦しますが,一抹の不安は,全7選手との対戦成績が17勝14敗と勝ち越しているのに,初戦で対戦するマリーとは0勝3敗で,1度も勝ってないことです。
これも試練ですから,期待して見守りましょう。

ファイナルだけあって,賞金額も破格です。
出場するだけで15万5,000ドル(約1,780万円)が手に入ります。予選リーグは1勝につき同額が稼げます。5戦無敗で優勝すれば207万5,000ドル(2億3,800万円)が手に入る勘定です。

つぎは,フィギュアスケートのGPシリーズの第1戦,スケートアメリカは,米イリノイ州シカゴで10月24日に開幕,男子は町田樹(たつき,24,162cm)が優勝しました。

第2戦のスケートカナダは,ブリティッシュコロンビア州ケロワナで10月31日に開催され,男子は無良崇人(むらたかひと,23,170cm)が優勝,女子は宮原知子(16,145cm)が3位になりました。

第3戦は中国の上海で11月7日から開催され,羽生結弦(ゆづる,19,171cm)が出場します。
第1戦,第2戦と順調に来ているので,良い結果を期待しましょう。

高橋大輔(28)は引退しましたが,男子は後継者がぞくぞく出現してきて頼もしい限りです。
それにひきかえ,女子は村上佳菜子(20,162cm)が伸び悩み,今井遥(21,159cm)や本郷理華(18,166cm)もまだ完成度が低いですから,東京五輪を宮原知子一人に期待するのは荷が重いでしょう。

さて,プロ野球の日本シリーズは,守備妨害で決着するという盛り上がりに欠ける結果となりました。

ドラフト会議(新人選手選択会議)は今年も有力選手をパ・リーグのチームが交渉権を獲得するという皮肉な結果となりました。
ドラフト制度というのは,本来,チームの戦力を均衡化して面白い試合を増やす狙いがあるのに,東京にある1チームだけはドラフト指名を拒否した選手を次年度に獲得するという,野蛮な振る舞いしつづけてチーム力を強化しています。
それをいつまでも許しているという野球機構の組織力のなさが,野球の発展を阻害しています。

セ・パの交流戦も当初,ホーム(地元)3,アウェイ(敵地)3ゲームの6チームで36試合あったのを,ホーム2アウェイ2の24試合に減らし,来年は1チーム3(ホームかアウェイのどちらか)の18試合に減らすそうです。
いつも人気のセ・リーグが大敗するので,ゼロにしますか18にしますか,というような強圧的な二者択一を迫った結果なのです。

嫌になるほどの球団やリーグのエゴ(egoism,利己主義)むき出しに,そうすることで,自分で自分の首を絞めていることに気が付かないのか,と思います。

これは日本だけに限ったことではなくて,本家アメリカのMLBでもよく似た自分勝手をやっていて,これで野球がオリンピックから外されて,世界スポーツになれない大きな理由の一つだと思います。

そして,日本バスケットボール協会も情けないですね。
現在,国内にNBL(12チーム)とbjリーグ(22チーム)の2つのリーグが存在しており,FIBA(国際バスケットボール連盟)から,1国1リーグ制にするように勧告が出されていたのに,期限までに実現できず,ブラジルのリオデジャネイロ・オリンピック予選への出場が危ぶまれています。

情けない残念なことです。

もともと企業チームを中心とするJBL(8チーム)が古くからあり,統一するためにNBLというトップリーグを立ち上げましたが,企業名を残したいJBLからの参加者に対して,bjリーグが反発して,統一が実現できなかった,という経緯があります。

企業名を前面に出したいプロ野球チームと似た古い体質を残していますね。

そういう意味では,サッカーに後れを取っています。

日本のバスケットボール界から,全米のNBAに巣立とうとする若者が出てきているというのに。

それは富樫勇樹(21,167cm)選手ですが,新潟の出身で,中卒後,米国モントロス・クリスチャン高校に進学,帰国してbjリーグの秋田ノーザンハピネッツに入団,来季からダラス・マーベリックス傘下のDリーグのテキサス・レジェンズでプレイすることになっています。

これまでは田臥勇太(34,173cm)選手が2004年にNBAフェニックス・サンズと契約し,日本人として初めてのNBA選手となりましたが,4試合に出場したのみでした。

富樫選手に期待できるところは,高校時代からアメリカのバスケットボールに慣れており,ポイントガードながら,シュート力があることでしょう。

さらに,面白くないのは,女子ゴルフ大相撲ですね。

日本の女子プロゴルフの賞金ランキングは1位から3位までを韓国勢が独占しています。
それほど韓国の人たちに外貨を稼がせてあげる必要はないと思いますが,日本選手が勝てないですね。
せると弱いですね,日本選手は。逆に,とくに日本人相手にせると強いです,韓国は。

もっと面白くないのは大相撲です。
3人のモンゴル横綱に加えて,さらに逸ノ城という怪物が出現しました。
彼を見ると,50年前の東京オリンピックの柔道・無差別級のヘーシング(オランダ)対神永の試合を思い出します。
圧倒的な体力差で,技が通じずに完敗しました。

相撲は日本古来の神事から来ています。その象徴は,横綱のしめるつなは,紙垂(しで)を付けたしめなわが使われます。

神事祭りの催しであったのが,格闘技に成り下がった感があります。
たとえば,勝負がついた後に行なう,一礼が,負けた悔しさのためか,今やほとんどおざなりになってしまっています。

一度,陥ってしまった状況を改善するのは,並大抵のことではないです。
しかし,これでいいんですか,というのは多くの人たちの気持ちで,関係者は猛反省し,地道な対策を考えなければなければならないのです。

この季節の歌は,外国の曲に日本語の訳詞でなつかしい,この歌にしましょうか。

故郷の空大和田建樹・訳詞 スコットランド民謡

夕空晴れて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫なく
おもえば遠し 故郷の空
ああわが父母(ちちはは) いかにおわす

すみゆく水に 秋萩(はぎ)たれ
玉なす露は すすきにみつ
おもえば似たり 故郷の野辺
ああわが兄弟(はらから) たれと遊ぶ

原曲はいわずとしれた “Comin Through the Rye” です。

「読書の秋」以降はつぎの機会にしましょう。

今は正しく季節の変り目,天気予報をよく聞いて,気温に合った服装をして,風邪などかからないようにしましょう。

新聞を読んで

最近,新聞でこんな囲み記事がありました。少々長いですが,採録します。

ー 前略 -
あるショッピングセンターで,
ぼくはリンゴや卵などを買い求めてレジに並んだ。すぐ前に少し腰をかがめたおじいさんが立っている。80歳前後のお年か。両手に小さないなりずしが入ったパックを一つ持っている。夕食用なのだろうか。
何気なく目を向けていると,おじいさんは小銭をレジ台に一個一個並べて支払っている。つつましい年金生活者かな,とはこちらの勝手な想像ながら,消費税が10%になったら困るだろうな,と思ったりもした。
番がきてレジ前にいる間,今度は後ろのおじいさんに目がいった。やはり年のころは80前後だろうか,足を運ぶ動作にやや衰えが感じられた。手にしているのは,少々黒ずんだバナナひと房である。レジでは,やはり小さな財布から取り出した小銭を店員に渡している。
「レジ袋はいりますか?」「いりません」「2円お引きします」
そんなやり取りの後,おじいさんはバナナを両手に抱え込むようにして,ぼくの横をゆっくりと通り過ぎていった。
おじいさんはバナナが好きだからとか,おやつに買ったというのではなく,夕食や朝食のために買ったのではなかろうか。
ー 中略 -
たくさんの買物をしている人に文句などあろうはずはない。ないが,おじいさんのささやかな買物との対比からくる感情は,何か理不尽な格差社会を見る思いと絡んで胸の奥にわだかまった。
当然,その感情の向かう先は政治だ。しかし弱者より強者に傾きがちな政治家には,ぼくが目にしたおじいさんの姿など,目の端にも留まらないのではなかろうか。
ー 後略 -

これは毎日新聞2014年10月27日夕刊,客員編集委員・近藤勝重しあわせのトンボ」の一節です。

消費税の増税年金の減額後期高齢者の健康保険料の軽減措置の廃止など,老後の不安はますます募ります。

同じ紙面に,ミステリー作家の森村誠一・編著「迷子の日本国憲法」(徳間書店)を緊急出版したことへの取材記事があります。

森村さん(1933-)は,子供のころ戦争を体験されています。

戦争は生命だけでなく,国土や自然を破壊し,そのうえ基本的人権をことごとく奪います

戦争から学べば,軍事力や軍事同盟の強化は,平和を維持できないどころか,平和と自由と人権を破壊してしまうとわかるはずです

軍隊は国を守るという建前ながら,じっさいは国民を守りません。それは中国での関東軍しかり,沖縄の日本軍もそうでした。

自衛隊は憲法9条を背負う国民を守る用心棒です
自衛隊は,御嶽山噴火災害でも救助活動を担ったように,強制的な徴兵ではなく,自由意思にもとづく戦闘集団で,国民を守る使命感を持った用心棒,だと森村さんは言うのです。

政府が,「特定機密保護法」「国家安全保障会議」「集団的自衛権行使容認」の開戦に向かう3点セットを用意してしまいました。戦争に対する構えは,必ず戦争を誘発する,と警告しています。

だから今こそ,森村さんは声を大にして,人類の天敵である戦争に対して,「ノー!」を突き付けなければならない,と強調しています。

おじいさんと戦争のはなし,まったく違うように思うかもしれませんが,わたしたちにとって,どちらが切実で優先的な問題と捉えるのか,が問われています。

まったく話は変わりますが,
10月31日はハロウィーン(Halloween)と,いつのころからか言うようになりました。
もともとは秋の収穫を祝い,悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事でしたが,とくにアメリカで民間行事として定着しました。
カボチャの中身をくりぬいて「ジャック・オ・ランタン(Jack-o’-lantern)」を作って飾ったり,子供たちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れて,「トリック・オア・トリート(Trick or treat.   お菓子をくれないといたずらするぞ)」と唱えてお菓子をもらったりする風習があります。

ハロウィーンの語源は,カトリック教会で11月1日に祝われる「諸聖人の日(万聖節)」の前夜(イブ,eve)にあたることから,”All Hallows eve” から “Hallows eve” が訛って “Halloween” となったといわれています。

そのむかし,日本は神道と仏教の国なのに,クリスマスだのクリスマス・イブなどキリスト教の行事を祝うのはおかしい,との意見もありましたが,いつのまにか,宗教とは関係なく,一般的なお祭り日のようになりました。

しかし,ハロウィーンが定着するにはもう少し時間がかかることでしょうね。

さて今回は,この時期にふさわしい,まことに日本的なこの歌にしましょうか。

紅葉高野辰之・作詞 岡野貞一・作曲(1911)

秋の夕日に 照る山紅葉
濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓や蔦は
山のふもとの 裾(すそ)模様

渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
波にゆられて 離れて寄って
赤や黄色の 色様々に
水の上にも 織る錦

この歌を聴くと,美しい秋の情景が目に浮かびますね。
ことしはキュッと寒くなりましたから,美しい紅葉が見られそうです。

清潔であること

清潔とは,ひびきの良い言葉ですね。
汚れがなくきれいなこと,衛生的なこと,
また,人格や品行が清くいさぎよいこと,を指します。

関連して,
清廉潔白(心が清くて私欲がなく,後ろ暗いことのまったくないさま)や
品行方正(心や行いが正しく立派なさま)とかの熟語が思い出されます。

しかし,
潔癖は行き過ぎ,潔癖症となればもう立派(?)な病気です。

清潔感のある人,と言えば,衛生的にきれいな服装をしているだけではなく,精神的にすがすがしい人のことを言っているのです。

日本人は世界で最も清潔好きな民族と言われてています。
これは自慢してもよいことで,感染症を減らして,世界最高の長寿国に押し上げた要因の一つかもしれません。

その代表的なものが,シャワートイレ(洗浄便座)でしょうか。
インクで汚れた手を紙で拭いて「お尻だって洗ってほしい」という名キャッチコピーで一世を風靡(?)しました。
たしかに,大便をするのがとても快適になりました。

それどころか,私の通うスポーツジムでは,トイレの入口にオーバーシューズが置いてあり,靴(下足でも上履きでも)のままそれを履いて用を足すことになっています。
さらに大便器の横には,クリーナーが設置されていて,ペーパーに消毒液を吹きかけて便座を拭いてから用を足すことになっています。

ここまでくると,少々やりすぎの感があります。

世の中は抗菌グッズであふれています。
マスクどころか靴下やパンツまで抗菌です。

ある漫才師の一人が,入浴後,全身をマキロン(殺菌消毒液)で拭く,と聞いて,余りの無知さにビックリしました。
皮膚を正常な状態に保つには,皮膚ダニ・細菌・ウイルスなどの微生物と共存する必要があるのです。
あきらかに,清潔であることの意味を取り違えています。

毎日,石鹸やボディソープなどの洗剤で身体を洗うことさえ,体表面の細菌を殺してしまうので,肌を美しく保つには,やりすぎであると皮膚科の医師は言っています。

フランスに行っていたとき,
パン屋で,われわれ外国人がバゲット(長い棒状のフランスパン)を買うと紙袋に入れてくれますが,フランス人は素手で待ちかえります。

その裸のバゲットを床に転がしたまま本屋で本を立ち読みしていた人がいて驚きました。

場末のレストランで,
犬を連れて入ってきた父と子の二人づれ,犬をテーブルの下に横臥させた状態で食事を始め,幼い子がホークをチャリンと床に落としました。
ウエイトレスが急いで代りを持ってゆくと,父親が子供を指さし,拾って使っているので,もう必要ない,という合図をしました。

フランス人の清潔に対する意識はわれわれ日本人とかなり違いますね。

回虫博士として有名な東京医科歯科大学名誉教授・藤田紘一郎さんは,日本で,花粉症・アトピー・喘息などのアレルギー疾患が極端に多くなったのは,体内から寄生虫を排除したせいである,と長年の研究結果から断言されています。

これは,藤田博士の見解だけではなく,
環境が清潔すぎると,アレルギー疾患が増えるという衛生仮説は2004年にドイツを中心とする医科学チームの研究により裏付けられました。

日本人は清潔であり過ぎる結果,アレルギー疾患が多い民族の代表となってしまいました。

パンダコアラの赤ちゃんは,母親の雲古をなめて,を消化したり,ユーカリを無毒化するために,腸内に必要な細菌を取り込んでいます。

最近,こんなニュースがありました。
川で大量の魚が死んで浮き上がりました。
原因をさぐると,近くのプールで殺菌のために投与した塩素のため,オーバーフローした排水が川に流れ込んで,魚を死滅させました。
魚が死ぬような水で泳いで清潔と言えますか,安全と言えますか。
むしろ,雑菌のウヨウヨいるような水で泳いで,お腹をこわす方がよっぼど安全です。

2500年ほど前,孔子は,

過ぎたるは猶及ばざるが如し

と言いましたが,
現代では,

過ぎたるは及ばざるに如(し)かず

と言い替えた方が良いと思っています。
なにごとも過ぎるより,足らない目の方が良いことが多いからです。

過食より小食粗食の方が健康的なのは,周知のとおりですし,過保護で育つより,放任で育てる方がまともな子供になるようです。

今年は10月になってからも大きな台風が毎週のようにやってきて大変でした。
南の島から何かが流れてきても不思議はありません。

ところで,
民俗学者・柳田國男(1875-1962)が学生の1898年の夏,1カ月半ほど伊良湖岬(愛知県渥美半島)に滞在したとき,浜に流れ着いたヤシの実の話を友人の島崎藤村(1872-1943)に語り,藤村がその話を元に1901年,詩を創りました。

1936年7月,NHK大阪中央放送局(JOBK)で放送中だった『国民歌謡』の担当者がその詩をもって作曲家・大中寅二に作曲を依頼しました。
7月13日から東海林太郎の歌唱で1週間放送されました。

椰子の実』島崎藤村・作詞 大中寅二・作曲

名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ

故郷の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月

旧(もと)の樹は生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる

われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ

実をとりて胸にあつれば
新たなり流離の憂

海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙

思いやる八重の潮々
いずれの日にか国に帰らん

大中寅二(1896-1982)は日本の作曲家・オルガにスト,同志社大卒,作曲を山田耕筰に師事,ドイツ・ベルリンに留学,東京英和女子短大教授,大中恩(作曲家)の父。

日本の代表的な叙情歌です。
東海林太郎の歌ではないと思います。

まったくの蛇足ですが,
NHK大阪放送局JOBKはどこにあるんですか,と尋ねられたら,
ジャパン(J)大阪(O)ばんば町(B)かど(K)にあります,
と答えてください。

我々ももう少し原始社会に回帰して,雑菌たちともうまく共存して,生物としての自然な生活するようにした方が,真の健康的な生き方ができるのではないでしょうか。

50年前のできごと

坂井義則さんが,9月10日にお亡くなりになりました。
1945年8月6日のお生まれでしたから,まだ69歳の若さでした。
広島に原爆が投下された日に広島県三次(みよし)市で出生,400mの陸上選手でした。

1964年10月10日に開催された東京オリンピックの開会式で,若干19歳の坂井さんが聖火リレー最終ランナーとして,国立競技場の聖火台にさっそうと駆け上がっていった雄姿は,いまでも目に浮かびます。

その日のことは,NHKの北出清五郎アナウンサーの名セリフにあります。
世界中の青空を,全部東京に持ってきてしまったような,すばらしい秋日和でございます

そして,ファンファーレとオリンピックマーチで入場行進が始まりました。

ファンファーレ今井光也・作曲
オリンピックマーチ古関祐而・作曲

もう50年,半世紀も前の出来事だったんですね。

1940年に東京で開催予定だったオリンピックが,第2次世界大戦勃発のために中止,24年ぶりに,アジアで初めて,東京で開催されました。

なにしろ戦後最大のイベントでしたから,国を挙げて取り組みました。

1964年10月1日(開会式の9日前)には,東海道新幹線が開通しました。もちろんオリンピックにあわせて建設したのです。

しかし,新幹線建設の現場で210名もの殉職者を出したことはあまり知られていません。
これは,「世紀の難工事」と評された黒部ダムの殉職者数171人と比べれば,その多さを実感できるでしょう。
「1959年着工で5年余で完成したということになっているが,実は用地の買収が難航して2年近くをそのために費やしたので,実際の工事期間は3年半くらいに過ぎない」と当時の技師長は語っています。

つまり,開業9日後に始まる東京五輪に間に合わせるための突貫工事だったのです。
「全職員が夜を日に継いでの捨身の努力の結果,かろうじて所定の期日に間に合わすことができた」と『工事誌』に記されています。

東京五輪という「世紀の祭典」のために,なりふり構わず無茶をしたんですね。おおいに反省すべきところでしょう。

前年の1963年7月16日には,名神高速道路が日本初の都市間高速道路として開通しました。ただし,栗東IC~尼崎IC(71.1km)。

プロ野球もオリンピックを考慮して,前倒しで試合を消化,日本シリーズは阪神タイガース南海ホークスの関西勢の対決となりましたが,10月1日に開始,雨での順延もあり,第7戦は開会式10月10日の夜になってしまい,まったく盛上りませんでした。

このオリンピックで日本選手の獲得した金メダル数は16個,アメリカ,ソ連についで3番目でした。

最も関心を呼んだ種目は,なんといっても女子バレーボールではなかったでしょうか。

東洋の魔女」と呼ばれた女子チームは,決勝戦で宿敵ソ連を3対0のストレートで下し,金メダルを獲得しました。
なにしろそのときのTVの視聴率は66.8%を記録しました。

NHKの鈴木文弥アナウンサーがTV中継で最後のポイントのとき,
金メダルポイント!」と絶叫したことも記憶に残っています。

じつはオリンピック前年に東洋の魔女の主体「日紡貝塚」の練習を見ています。
1963年12月に池田市立体育館の竣工を記念して,練習を公開しました。
というのも,チームの一員である谷田絹子選手が池田市の出身という縁で,実現しました。
彼女は左の宮本,右の谷田といわれたエース・スパイカーでした。

しかし,えげつない練習でしたね。
鬼の大松といわれた大松博文監督のもと,回転レシーブに代表されるように守備の練習が主体で,一人の選手に長時間,何度も何度も取れそうもないようなボールを投げつけて,また逆にお仕置きのように体めがけて何回もボールをぶつけて,まるでいじめか虐待にしか見えないような練習風景でした。
これほどのことをしないと勝てないのか,と愕然としました。
現代では,人前でこんなことをやったら,監督は即刻クビで大きな社会問題になっていたことでしょう。
むかしは勝つためと言って,メチャクチャなことをやっても許されていたんですね。

じつはその谷田選手,1962年11月3日に,なんと池田市の第1回文化功労者に選ばれています。
そのとき同時に,童謡作詞家の東くめさんも文化功労者に選ばれています。こちらの方が文化の香りがしますね。

東くめ(1877-1969)さんは,和歌山県新宮出身,東京音楽学校卒,東京府立高等女学校の音楽教師を8年間務め,日本ではじめて口語による童謡を作詞,東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)教授・東基吉と結婚,夫が大阪府池田師範学校(現大阪教育大学)校長に就任したため池田市に転居,新宮市名誉市民,池田市にて没。
夫の提案により「子供の言葉による,子供が喜ぶ童謡」の作詞を2年後輩の滝廉太郎と組んで創作,滝さんは23歳で早逝しましたが,東くめさんは91歳の長寿をまっとうされました。
代表作は,
鳩ぽっぽ滝廉太郎・作曲(1901.7)幼稚園唱歌

鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ
ポッポ ポッポととんでこい
お寺のやねからおりてこい
豆をやるからみなたべよ
たべてもすぐにかえらずに
ポッポ ポッポとないてあそべ

 ちなみに「ぽっぽっぽ 鳩ぽっぽ」と歌うのは『』です,念のため,童謡の題名はむずかしいのです。

じつは,この年にオリンピックを実際に観戦しているのです。
まず,観戦チケットを手に入れるのが大変でした。何時間も行列しなけれが手に入りません。人気の種目を入手するのは,ほとんど不可能にちかいことでした。
父親と生まれて初めて二人で東京まで出かけました。その後もありませんでしたから,一生一度きりの旅行でした。
もちろんできたばかりの新幹線には乗らず,夜行急行『銀河』で行きました。
横浜の親戚の家に宿泊させてもらい,2つの競技,バレーボールとバスケットボールを観戦しました。もちろんどちらも男子です。
そのどちらかを観戦中に円谷がマラソンで銅をとった,という風の便りを耳にしました。
むかしの思い出です。

2020年に,ふたたび東京でオリンピックが開催されます。

1964年の東京オリンピックでは,敗戦後19年,第2次大戦からの復興と国際社会への参加を旗印に,高速道路や新幹線がつくられ,都市のインフラ(infrastructure,下部構造の意,道路・鉄道など産業基盤の社会資本のこと)が整備され,それなりの成果がありました。

しかし,このつぎに何を期待しますか?
競技用の巨大施設の建設は,必要な経費とその後の利用価値を考えると,否定的になります。
一時的な利用のために巨費を費やす時代ではありません。
競技専用ではなく,むしろ国民の健康のために利用可能な施設に転用できることが条件となるでしょう。

なにより,福島原発事故について,状況はコントロールされている,というオリンピック招致のプレゼン(presentation,口頭発表)での首相の発言で,外向けにはウソでごまかせても,国民はだれも信用していません。
国の政策としての優先順位は,何を置いても,まず事故処理を,住民補償もふくめて,国民の納得のいくような結果を出すことが第一です。オリンピックはその次です。

ところで,第17回アジア大会(仁川)が終了(9.19-10.4)し,日本の金メダル数は47個で,中国151,韓国79,についで3位の定席でした。

第1回(1951)から第8回(1978)までは日本が1位を独占,第9回(1982)に中国に抜かれ,第10回(1986)から韓国にも抜かれ,その後ずっと3位が定位置になってしまっています。

人口13.57億の中国は致し方ないとしても,人口1.27億の日本が,人口5千万に過ぎない韓国の後塵を拝するのは納得がいきません。

つぎのオリンピックではキッチリ,結果を出してもらいましょう。

こどものうた

日本には昔から,わらべうた(童歌)というものがありました。
子供が遊びながら歌う,むかしから伝えられ歌い継がれてきた歌です。

わらべうたは絵描き歌・数え歌・遊び歌の3つに分類されます。

絵描き歌, たとえば「へのへのもへじ

日本人ならだれでも知っている絵ですが,むかしは,この落書きがよくありました。

数え歌, たとえば「京都の通り名数え歌」(北から南へ)

丸竹夷二押御池(まるたけえびすに おしおいけ)
姉三六角蛸錦(あねさんろっかく たこにしき)
四綾仏高松万五条(しあやぶったか まつまんごじょう)
雪駄ちゃらちゃら魚の棚(せったちゃらちゃらうおのたな)
六条三哲通りすぎ(ろくじょうさんてつ とおりすぎ)
七条越えれば八九条(ひっちょうこえれば はっくじょう)
十条東寺でとどめさす(じゅうじょうとうじでとどめさす)

京都の通りの名前を覚えるのに最適で,実用的で役に立ちました。

遊び歌, たとえば「かごめかごめ

かごめかごめ
籠の中の鳥は  いついつ出やる
夜明けの晩に  鶴と亀が滑った
後ろの正面だあれ?

子供のころ,この遊びをした覚えがあります。

童謡(どうよう)とは,広義には子供向けの歌を指しますが,狭義には大正時代後期以降,子供に歌われることを目的に作られた創作歌曲を指します。

また,唱歌(しょうか)は,正式には文部省唱歌といいますが,明治から昭和にかけて文部省が編纂した,尋常小学校,高等小学校,国民学校および学制改革後の小学校の唱歌,芸能科音楽の教科書に掲載された楽曲の総称です。

つまり,教科書に載っていたのが唱歌で,それ以外が童謡と思えば分りよいでしょう。もちろん,わらべうたは別です。

戦後10年を経て,新しい子供の歌を創るグループができました。
その一つが「ろばの会」で,「新しいこどものうた」第1集のあとがきに,グループ最年長者の磯部俶さんの言葉があります。

”ろばの会” は私たち五人のメンバーによる童謡作曲の研究グループです。よい詩によい曲を付すためには,どうしても外部から依頼される仕事のほかに,自主的にこどもの歌の創作に努めるべきだと思ったのです。幸い多くの詩人たちの協力があり,毎月たくさんの詩稿がこの会のために寄せられるので,その中から各人が選んで作曲をします。出来上がったものについてはお互いにきびしく批判し合い,更には詩人たちを招いて演奏し,意見をきくこともしてきました。こうして発足以来一年半の間にたまった作品の中から,作曲者の自薦によって一巻としたのがこの曲集です。
私たちはこの曲集を仕事の第一歩として,意義深いこどもの歌の創作に信念を持って努力をつづけたいと思っています。
ー 後略 -      1956年9月     磯部俶

その五人のメンバーとは,

磯部俶(1917-1998)
さくらのはなさん」(まど・みちお・詞),「びわ」(まど・みちお・詞)など。

宇賀神光利(うかじん,1923-1967)
たなばた」(清水たみ子・詞),「冬の夜」(勝見晃敏・詞)など。

大中恩(1924-)
サッちゃん」(阪田寛夫・詞),「いぬのおまわりさん」(さとう よしみ・詞)など。

中田一次(1921-2001)
おこりっこなしよ」(深尾須磨子・詞),「キリン」(清水たみ子・詞)など。

中田喜直(1923-2000)
もんく」(小林純一・詞),「おんぶとだっこ」(サトウ・ハチロー・詞)など。

中田喜直さんには,この曲集には入っていませんが,「めだかの学校」(茶木滋・詞,1951)など多数あります。

ろばの会編「新しいこどものうた」は,宇賀神さんが早逝されたことによって第5集(1967)で終了します。
ご健在なのは,大中恩さんだけになってしまいました。

紹介したい曲は数々ありますが,季節がら,この曲にしましょうか。


ちいさい秋みつけたサトウ・ハチロー・詞 中田喜直・曲(1955)

だれかさんが だれかさんが
だれかさんが 見つけた
小さい秋 小さい秋
小さい秋 見つけた
目隠し 鬼さん 手の鳴る方へ
澄ました お耳に かすかに沁みた
呼んでる口笛 百舌(もず)の声
小さい秋 小さい秋
小さい秋 見つけた

だれかさんが だれかさんが
だれかさんが 見つけた
小さい秋 小さい秋
小さい秋 見つけた
お部屋は 北向き 曇りのガラス
うつろな目の色 溶かしたミルク
わずかな 隙から 秋の風
小さい秋 小さい秋
小さい秋 見つけた

だれかさんが だれかさんが
だれかさんが 見つけた
小さい秋 小さい秋
小さい秋 見つけた
昔の 昔の 風見の鳥の
ぼやけた 鶏冠(とさか)に はぜの葉一つ
はぜの葉 赤くて 入日(いりひ)色
小さい秋 小さい秋
小さい秋 見つけた

この曲も第1集に集録されています。

新しい「こどものうた」の活動のおかげで,たくさんの名曲が生まれました。
しかし,古い童謡・唱歌も日本人の心を慰めますから,歌い続けていきたいものです。
秋の夜長,聴くのもよし,歌うのも更によし,です。

カタカナ語が気になる

こんな川柳をご存知ですか?

ギヨエテとは おれのことかと ゲーテ云ひ

作者の斎藤緑雨(1868-1904)は明治時代の小説家・評論家。
ゲーテGoethe)の発音が日本人にとって難しく,「ギョエテ」「ゲョエテ」「ギョーツ」「グーテ」「ゲエテ」など数十種もの表記が存在したといいます。

とくに外国人の人名はむずかしいですね。
その祖国の発音に従う,というのが原則です。

ヘボン式のローマ字表記を考案したヘボンさんと女優のオードリー・ヘップバーンはおなじ名前 “Hepburn” です。
これは,いわゆる「車夫英語」と「書生英語」の違いと言っていいのでしょう。
前者は,耳から聞いたそのままを発音,後者はつづりを見て発音した違いのように思えます。

童話作家のアンデルセンAndersen)は,デンマーク語ではアナスンとなります。

FとVの発音にこだわる人がいます。
ドイツ語ではそれがVとWになります。
クラシック音楽の世界では保守的な人が多いのか,ワーグナーヴァーグナー(Wagner)とかたくなに表記する人がいます。

おなじ表記にすると,車のフォルクス・ワーゲンはフォルクス・ヴァーゲン(Volks Wagen)と言わねばなりません。

音楽の都ウィーンもおかしいですよね。
ドイツ風にちゃんというならヴィーン(Wien)だし,英語ではヴィエンナ(Vienna)となります。

楽聖ベートーヴェンBeethoven)は,ドイツ風に発音すると,ベートホーフェンになります。

さらに,語尾に着目すると,
コンピュータデータと書くのに,エネルギーには長母音が付きます。
もともとエネルギーEnergie)はドイツ語で,英語ではエナジーenergy)ですが,長母音にはどちらも違和感があります。

というのは,日本の技術語は日本工業規格JIS)に規定され,語尾の長母音はないのが原則です。
たとえば,モーター・カーモータ・カとなります。
カーcar)がでは,かえって分かりづらいような気もしますが,これが日本の技術規格です。

ですから,技術用語としてはエネルギが正しい表記ですが,いまやエネルギーは一般用語になってしまっていますから,立脚点がどこにあるかによって,記述が分れるといっていいでしょう。

ところで,いまや日本は外来語であふれています。
日本語で言った方が分りよいのに,なぜにカタカナ語を使いたがるのでしょうね。
カッコいいとでも思っているのでしょうか。

若いタレントがエム・シーMCmaster of ceremonies)などと言ったりすると,意味を分かって使っているのか,「司会者」と日本語で言う方が万人に分るのに,と思ったりします。

あきらかに間違った使い方もあります(いわゆる和製英語)。

文字盤(キーボード)を見ないで打つことをブラインド・タッチと言ったりしますが,正式には,”touch-typing” と言います。

遊園地の遊具施設で上下左右に走る滑走車をふつう,ジェット・コースターと言っていますが,あれは “roller coaster” です。

レベル・ダウン   → level decrease(名詞に副詞は付かない)
アイドル      → teenage star,pop star
オフィス・レディ  → female office worker
ガソリン・スタンドgas station(米),petrol station(英)
グレイド・アップ  → upgrade
チャッチ・ボール  → play catch(チャッチボールをする)
スキン・シップ   → (close) physical contact
フライング     → false start
シャープ・ペンシル (automatic) mechanical pencil
ホチキス      → stapler

数え上げたらきりがないので,このへんでやめますが,よく使っている英語は和製英語である可能性が高いので,英語として表現するときにはよく調べてからにしてください。

敬老の日の前日の土・日は大阪の岸和田だんじり祭りです。
この日ばかりは岸和田市民は全国から帰郷し,町は祭り一色となります。

村祭』尋常小学唱歌 作詞・作曲者不詳(1912)

村の鎮守の神様の
今日はめでたい御祭日
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
朝から聞こえる笛太鼓

年も豊年満作で
村は総出の大祭
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
夜までにぎわう宮の森

治まる御代に神様の
めぐみ仰ぐや村祭
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
聞いても心が勇み立つ

歌詞にある通り,聴いても心が勇み立ちますね。

朝晩は秋らしく涼しくなってきました。
風邪などひかないように,そして蚊はまだ存在しますので,デング熱にかからぬよう,気を付けてお過ごしください。

秋のきざし

9月8日の夜は中秋の名月で,十五夜とも言います。

本来,十五夜は満月のことなので年に12回または13回めぐってきますが,とくに旧暦の8月は1年の中で最も空が澄みわたり月が明るく美しいとされていたため,平安時代から観月の宴が催され,江戸時代から収穫祭として広く親しまれるようになり,十五夜といえば旧暦の8月15日をさすようになりました。

9月8日は二十四節気の一つ,白露で,このころから秋気がようやく加わります。

秋来(き)ぬと 目にはさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる

藤原敏行『古今和歌集』

敏行さんは「風の音で秋の気配を感じて驚いた」と言っていますが,今年の夏は,雨が多すぎて 驚きました。

8月の降雨量はわが国で気象観測(1875)が始まって以来,各地で最高値を示しました。
大阪では8月の猛暑日(最高気温が35℃を超えた日)がゼロで,日照時間が不足して,おかげで涼しい夏となりました。
しかし,そのせいで野菜の生育に異常をきたし,高値がつづいています。
このぶんでは,コメの収穫も不作が予想されます。

8月20日,広島で同時多発的に大規模の土砂災害が発生し,73名もの人が亡くなりました。

1923年9月1日,関東地域にマグニチュード7.9の大地震が発生して(関東大震災),99,000名の人が亡くなりました。
ちょうどこの日は,立春から数えて210日目の二百十日でした。
以降,9月1日は「防災の日」になっています。

1995年1月17日午前5時46分,阪神・淡路大震災が発生し,6,434名の人が亡くなりました。
地元のオリックス・ブルーウェーブは「がんばろうKOBE」を合言葉に,この年パリーグを制覇しました。

広島カープも頑張っていることだし,早く立ち直っていただきたいと思います。

元来,日本は地震・台風・大雨のような自然災害の多い地域です。
被災しても,すぐに立ち直り,おかげで我慢強い民族性が醸成されたのかもしれません。

錦織圭選手(24,178cm)はニューヨークで行われている全米オープン・テニスで,
4回戦はラオニッチ(カナダ,196cm),
準々決勝はワウリンカ(スイス,183cm),
準決勝はジョコビッチ(セルビア,188cm)に全て粘り勝ち,
決勝はチリッチ(クロアチア,198cm)と対戦します。
大男たちを相手に非常に頑張っているじゃありませんか。

この時期は,夜ともなると,虫の鳴く声に一段と秋を感じるものです。

虫のこえ』尋常小学読本唱歌 作詞・作曲者不詳(1910)

あれ松虫が 鳴いている
ちんちろ ちんちろ ちんちろりん
あれ鈴虫も鳴きだした
りんりん りんりん りーんりん
秋の夜長を鳴き通す
ああ おもしろい虫のこえ

きりきりきりきり きりぎりす
がちゃ がちゃ がちゃ がちゃ くつわ虫
あとから馬おい おいついて
ちょんちょん ちょんちょん すいっちょん
秋の夜長を鳴き通す
ああおもしろい虫のこえ

ここで,「きりぎりす」はコオロギのことです。

聞きかじりですが,外国人には虫の声はあまり届かないそうです。
日本人のみが,繊細な虫の音に,秋を感じることができるのです。

1989年の思い出

いまの時期は,二十四節気の処暑で,暑さがやみ涼しくなりはじめるころで,季節の替り目といっていいでしょう。

ものごとには節目というものがあり,時代にも特別な転換点ターニングポイント)と思えるような年があります。

その一つが,いまから四半世紀・25年前の1989年ではないでしょうか。

1月7日,昭和天皇が崩御されました。
昭和元年は12月25日からですから,元年と64年は7日づつ,つまり昭和時代は62年と2週間ということになります。

昭和天皇(1901.4.29-1989.1.7)は第124代の天皇で,諱(いみな)は裕仁,まさしく激動の87年の生涯でした。

このたび,宮内庁による『昭和天皇実録』という公式記録が24年かかって完成しました。全60冊,約12,000ページという膨大なものです。9月中旬に公表されるそうです。

誕生日の4月29日は,平成になってから「みどりの日」,2007年からは「昭和の日」に,5月4日が『みどりの日』となりました。

2月10日,オウム真理教による信者殺害事件発生。
教団代表の松本智津夫(麻原彰晃)が主導して,世間的には有能とされるような若い信者を勧誘・洗脳し,松本サリン事件,地下鉄サリン事件などのテロ行為,信者殺害,弁護士一家殺害などを行い,世の中を震撼とさせました。

2月13日,リクルート事件で,リクルート社会長の江副浩正が逮捕。
未公開株を賄賂として,多くの有力政治家たちに贈った戦後最大の贈収賄事件でした。

4月1日,消費税施行。
当初は3%,1997年4月から5%,そして2014年4月から8%となりました。

6月4日,北京で天安門事件発生。
4月の胡耀邦の死をきっかけとして,中国北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し,中国人民解放軍が武力弾圧し,多数の死傷者を出した事件です。
中国当局はいまだに,事件はなかった,という隠蔽工作をつづけています。

11月10日,ベルリンの壁崩壊。
ベルリンの壁とは,冷戦の真っ只中にあった1961.8.13に東ドイツによって建設された西ベルリンを包囲する壁です。
1990.10.3に東西ドイツが統一されるまで,この壁はドイツ分断や冷戦の象徴となっていました。

12月3日,米のジョージ・H・W・ブッシュ大統領とソ連のミハイル・ゴルバチョフ最高会議議長がマルタ島で会談し,冷戦の終結を宣言しました。
その後もソ連のペレストロイカ(再構築)路線は行き詰まり,東欧各国の独立や連邦からの離脱が進み,ついに1991.12.25にソ連は消滅します。

ここに,冷戦とは,第二次世界大戦後の世界を二分した,アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と,ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造です。

12月29日,東証の大納会で,日経平均株価が38,957円(史上最高値)を記録し,翌1990年の大発会から株価は下落へ転じ,バブル景気は崩壊に向かいます。

この年には,多くの著名人が亡くなっています。

2月4日,手塚治虫さん死去(60)
手塚治虫(1928.11.3)は漫画家・アニメータ・医学博士であり,生存中から「マンガの神様」と称されました。
豊中市で生まれ,宝塚市で育ち,大阪帝国大学医学専門部在学中に漫画家としてデビューし,『新宝島』がベストセラーとなり,大阪に「赤本」ブームを作りだします。
1950年より漫画雑誌に登場,『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』などを大ヒットさせます。
1963年から鉄腕アトムをTVアニメーションとして製作します。
1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』を創り,晩年には『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』などの青年漫画をも創り出しました。
デビューから亡くなるまで第一線を走り続け,夢を与え続けた60年の生涯でした。

藤子不二夫,石ノ森章太郎,赤塚不二夫,横山光輝など多くの人たちが手塚さんの影響を受け,漫画家を志しました。

漫画家たちばかりではなく,ロボット開発に携わる技術者たちが「アトムのようなロボットを作りたい」と言うほど後々まで社会に影響をあたえました。

手塚作品は海外にも影響を与えており,アメリカ映画『ミクロ決死圏』(1966)は,『吸血魔団』(1948)の,ディズニーの『ライオンキング』映画(1994)舞台(1997)は『ジャングル大帝』マンガ(1950-54)アニメ(1965-66)の明らかに盗作と言ってよい作品です。

じつは,少年のころ,貸本屋で「赤本」と呼ばれた手塚作品を見つけ出して,読み漁りました。まったく他の作者とは一線を画した胸躍るような内容に魅了され,雑誌「少年」に連載された『鉄腕アトム』も発売日の前から,貸本屋で予約し,誰よりも先に読むことを小学校の卒業まで続けました。
手塚さんの影響で,自分でも漫画を描いていたのが,クラスでも有名で,「マンガの先生」というありがたいアダナを頂戴していました。
もし,いまのように自由で余裕のある時代だったら,漫画家を目指していたかもしれません。

4月27日,松下幸之助さんが死去(94)
松下幸之助(1984.11.27)は松下電器(現パナソニック)を一代で築き上げた経営者で,経営の神様と称されています。
和歌山の出身で,尋常小学校を中退して丁稚奉公から会社を立ち上げ成功し,長者番付1位を長年続け,のちにPHP研究所を設立し倫理教育に乗り出し,晩年には松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも力をそそぎました。死亡時の遺産総額は約2,450億といわれ日本最高です。

松下さんは大阪の経営者らしく,大社長になってからも,言葉づかいは誰に対しても丁寧で,面長で耳が大きく,仏様のような感じの人でした。

6月24日,美空ひばりさんが死去(52)
美空ひばり(1937.5.29)は横浜市の出身,幼少のころから才能を発揮し,母親の支援で成功し,昭和の歌謡界を代表する歌手といわれています。
山口組三代目・田岡一雄が父親代わりで,日活の人気スター・小林旭と結婚(1962-64)するも入籍せずに離婚,実弟の不祥事や暴力団とのつながりを指摘されるも,人気は不動でしたが,身内はみんな早逝し,本人も晩年は病魔に苦しみます。
代表曲は, 『リンゴ追分』(1952),『』(1964),『悲しい酒』(1966),『川の流れのように』(89)など多数。
同い年の江利チエミ(1937-82),雪村いづみ(1937-)と東宝映画『ジャンケン娘』(1955)で共演,元祖三人娘を結成しますが,実際は,圧倒的に美空の存在が大きかったようです。

個人的には江利チエミが贔屓だったのですが,東映の高倉健と結婚(1959-71)しますがやむなく離婚,明るい表情とは裏腹に,不幸が付きまとった45年の短い人生でした。

7月16日,ヘルベルト・フォン・カラヤン死去(81)
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908.4.5)はオーストリア・ザルツブルグ出身の指揮者,ベルリン・フィルハ-モニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督をつとめ,暗譜で眼を閉じて指揮することでも有名で,一時期,クラシック音楽界の主要ポストを独占し,楽壇の帝王とも称されていました。
当時のソニー社長・大賀典雄と親交があり,大賀がカラヤンの自宅を訪ねているときに倒れ,大賀の胸に抱かれて絶命しました。

大賀典雄(1930-2011)は日本の実業家・指揮者・声楽家です。
東京藝術大学音楽学部卒業・同専攻科修了後ドイツに留学,テープレコーダーの図面を東京通信工業(現ソニー)に送ったりした縁で,留学後,井深大に誘われて入社(1959)します。
最初は歌手と実業家の2足の草鞋を履いていましたが,そのご実業に専念し,CBSソニーレコードやソニー商事の社長を経てソニーの社長に就任(1982),会長等を経て退職,退職慰労金の16億円を全額軽井沢町に寄付し,軽井沢大賀ホールを建てました。

大賀さんの歌うフィガロをFM放送で聴いたことがあります。
良いバリトンでした。
もし,人生をやり直す機会があるとすれば,音楽家になりたかった,と本人も言われていました。

12月9日,開高健さんが死去(58)
開高健(1930.12.30)は大阪市天王寺区の出身,天王寺中学(現天王寺高校)卒,大阪市立大学文学部卒,在学中に牧羊子と結婚(1951),壽屋(現サントリー)宣伝部に入社(1954),数々の名キャッチコピーを創作,朝日新聞の臨時特派員としてベトナム戦争に従軍(1964)命をはって取材,帰国後に小田実らとともにベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に参加します。
裸の王様』で芥川賞受賞(1958),食と釣りを楽しみ,エッセイも多数。
開高さんの作品は海外でも評判が高く,もし,もう少し長生きしておれば,大江健三郎(1935-)ではなくて,開高さんがノーベル文学賞を受賞していたかもしれません。

盟友・谷沢栄一は『回想 開高健』(PHP研究所,1999)のなかで,「七つ年上の女につかまり,しだいに事態の意味するところに気づき,見る見る不機嫌となった」と書き,稀代の悪妻とまで言い切っています。開高さんが海外にまで釣りに出かけたのは,妻から逃げるためだった,とも言っています。

編集者・菊谷匡祐も『開高健のいる風景』(集英社,2002)で,開高の葬儀のとき,牧羊子(1923-2000)が郷土の先輩・司馬遼太郎(1923-1996)に弔辞を依頼しますが,「開高さんは口にこそ出しませんでしたが,司馬さんの作品を認めていなかった」と証言しています。さほどに,食い違った夫婦であったようです。
しかし,悪妻が故に,夫がいい仕事をした実例は,古今東西いろいろとありますからね。

この1989年という年は,個人的にも特別な年でした。
この年の9月から12月までの3か月余り,フランスに滞在する機会を得ました。
それまで学校や仕事には生まれた自宅から通っていましたから,初めて自宅を離れるのが,海外,しかも伝統あるフランスのパリということで,期待と少々の不安がありました。
居住地は,地下鉄1号線の,凱旋門の直下のシャルル・ド・ゴール・エトワール駅(通称エトワール)から乗って終点のヴァンセンヌにあるホテル兼アパートでした。
じつはヴァンセンヌは市で,パリ市の隣町ですが,フランス人によるとほとんどパリと言ってよいそうです。
パリの西にブローニュ―の森があり,東にヴァンセンヌの森があります。しかしブローニュ―の森はパリではないそうです。
勤務先が高速地下鉄RERとバスを乗り継いて15km東の新興都市シャンスルマルヌにあるCSTB(建築科学技術研究所)でしたので,パリの東が適当であろうと,フランス人(日本で私の研究室で研修した人)が思って確保してくれたのだと思います。
それと夜のジョギングをするのに,ヴァンセンヌの森が適切ではないかとも言っていました。
しかし,フランスの道は犬のフンだらけで,踏まずに歩くことはできません。フンを踏みながら走るのはなかなか慣れませんでした。

フランスの思い出はいろいろありますが,また別の機会にゆっくりとお話ししましょう。

この季節の歌は『誰もいいない梅』にしましょうか。

山口洋子・作詞 内藤法美・作曲 越路吹雪・歌(1970)

今はもう秋 誰もいない海
知らん顔して 人がゆきすぎても
わたしは忘れない
海に約束したから
つらくても つらくても
死にはしないと

今はもう秋 誰もいない海
たった一つの夢が 破れても
わたしは忘れない
砂に約束したから
淋しくても 淋しくても
死にはしないと

今はもう秋 誰もいない海
いとしい面影 帰らなくても
わたしは忘れない
空に約束したから
ひとりでも ひとりでも
死にはしないと

作曲者・内藤法美(1929-88)は,歌手・越路吹雪(1924-80)の夫です。
長らくヒット曲がなかった夫にやっとヒットが出たということで妻は非常に喜んだということです。
ですからここはトア・エ・モアではなくて越路吹雪にしました。
作詞者・山口洋子(1933-)は詩人で,「横浜たそがれ」の同名の作詞者とは別人です。

昼間はまだ残暑がありますが,夜は虫の音が聞こえる秋になりました。
本格的な秋にはもう少しですが,季節の替り目には体調を壊すことがありますので,夏の疲れがでませんように,すこやかにお過ごしください。

忘れてはならないこと

そのむかし,
菊田一夫・作『君の名は』(1952-1954)というラジオドラマがあり,その冒頭で,

忘却とは忘れ去ることなり
忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ

という名セリフが来宮良子(きのみや・りょうこ,1931-2013)さんのナレーションで流れました。
劇中のBGMは古関祐而(1909-1989)さんがハモンドオルガンで毎回即興で演奏していました。

菊田一夫(1908-1973)さんは横浜の生まれ,他人の手で転々と育てられ,小僧の傍ら夜学に学び,サトウ・ハチロー等に師事し,苦労して後に東宝の専務にまで上りつめました。
代表作は,歌謡曲『イヨマンテの夜』(1949),舞台『がめつい奴』(1959),舞台『放浪記』(1961)など多数。

しかし,世の中には決して忘れてはならないことがあるのです。

8月15日太平洋戦争で,昭和天皇による玉音放送によってポツダム宣言受諾を国民へ表明し,戦闘行為を停止した日で,終戦記念日と呼ばれています。

ポツダム宣言とは,1945年7月26日に,アメリカ合衆国・トルーマン大統領,イギリス・チャーチル首相,中華民国・蒋介石主席の名において大日本帝国(日本)に対して発せられた,「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条からなる宣言。

この時期に改めてキッチリと過去の歴史を正しく認識しておく必要があります。

なにしろ, その直前の1945年8月6日には広島に,8月9日には長崎原子爆弾が投下され,多くの人命が失われました。

作家の司馬遼太郎(1923-1996)さんは,

なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう?
いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?
昔の日本人はもっとましだったにちがいない。
22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた。

と述懐しています。

第二次世界大戦は大きく欧州戦線太平洋戦線に分けられます。
太平洋戦争というのは後者のことで,日本と米・英・中国・豪州との戦争のことです。

一般に,太平洋戦争の開戦は,1941年12月8日に日本の真珠湾攻撃によって米・英に戦線布告をした日,と思われていますが,1937年7月7日に始まった日中戦争(支那事変)からとする見方もあります。

当初は優勢に戦っていた日本ですが,
1942年6月5日-7日ミッドウェー海戦で大敗北し,戦力が大幅に低下し,回復しないまま,戦況が劣勢になっていきます。
このころから大本営が戦況を隠蔽するようになっていきます。

1943年4月18日,連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将の搭乗機が暗号解読により撃墜されます。
これは決定的事件ですが,これも公表を遅らせました。

1943年10月21日,東京・明治神宮外苑にて出陣学徒壮行式開催(学徒出陣のはじまり)
将来を担うべき学生まで戦場に駆り出さねばならないというは,その国の将来はない,という末期的な状況です。

1944年10月25日神風特別攻撃隊,レイテで初出撃。
訓練した飛行士を突撃で死なせるよう攻撃は,もはや作戦とはいえません!

1945年2月18日-3月22日硫黄島の戦い。
小説や映画になった栗林忠道陸軍中将の守備隊は玉砕します。

1945年3月10日,東京大空襲
1945年3月12日,名古屋大空襲
1945年3月14日,大阪大空襲
1945年3月16日,神戸大空襲
1945年3月25日,名古屋大空襲
1945年4月1日-6月23日沖縄戦

この間,日本中の多くの都市が空襲を受けます。

1945年8月6日広島に原爆投下。

1945年8月8日ソ連が日ソ中立条約(1941年4月締結)を一方的に破棄し,対日宣戦布告する。
すでに死に体(しにたい,力士の体勢が崩れて立直りが不可能になった状態)状態の国に宣戦布告するというのは卑怯なやり方です。

1945年8月9日長崎に原爆投下。

1945年8月15日玉音放送により戦争終結。

この戦争における日本人の戦死者は

軍人  210万
民間人 100万人
合計  310万人

せめて,もう半年前に戦争の終結を決断しておれば,沖縄戦も,広島・長崎の原爆も,内地の多くの空襲もなくて,民間人の戦死者を激減させることができたのに,と強く思います。
なにしろ,1939年開戦前の日本の人口7,140万人に過ぎなかったのです。

しかし,もし中途半端に戦争を終結していたなら,軍隊組織は残り,戦後の朝鮮戦争をはじめとする種々の戦争に加担して,今の平和の国・日本はなかったでしょう。

いわば,壊滅的な敗戦により,310万人の方々の尊い命と引換えに平和の国を獲得した,ということが言えるのかもしれません。

作詞家・作家のなかにし礼(1938-)さんが次のような詩を若者に向けて書きました。

平和の申し子たちへ! 泣きながら抵抗を始めよう

2014年7月1日火曜日
集団的自衛権が閣議決定された

この日 日本の誇るべき
たった一つの宝物
平和憲法は粉砕された

つまり君たち若者もまた
圧殺されたである

こんな憲法違反にたいして
最高裁は何の文句も言わない

かくして君たちの日本は
その長い歴史の中の
どんな時代よりも禍々(まがまが)しい
暗黒時代へともどっていく

そしてまたあの
醜悪と愚劣 残酷と恐怖の
戦争が始まるだろう

ああ,若き友たちよ!

巨大な歯車がひとたびぐらっと
回りはじめたら最後
君もその中に巻き込まれる
いやがおうでも巻き込まれる

しかし君に戦う理由などあるのか
国のため? 大義のため?
そんなもののために

君は銃で人を狙えるのか
君は銃剣で人を刺せるのか
君は人々の上に爆弾を落とせるのか

若き友たちよ!

君は戦場に行ってはならない
なぜなら君は戦争にむいてないからだ

世界史上類例のない
六十九年間も平和がつづいた
理想の国に生まれたんだもの

平和しか知らないんだ
平和の申し子なんだ
平和こそが君の故郷であり
生活であり存在理由なんだ

平和ぼけ? なんとでも言わしておけ
戦争なんか真っ平ごめんだ
人殺しどころか喧嘩(けんか)もしたくない

たとえ国家といえども
俺の人生にかまわないでくれ
俺は臆病なんだ
俺は弱虫なんだ

卑怯者(ひきょうもの)? そうかもしれない
しかし俺は平和が好きなんだ
それのどこが悪い?

弱くあることも
勇気のいることなんだぜ
そう言って胸をはれば
なにか清々(すがすが)しい風が吹くじゃないか

怖(おそ)れるものはなにもない
愛する平和の申し子たちよ

この世に生まれ出た時

君は命の歓喜の産声をあげた
君の命よりも大切なものはない

生き抜かなければならない
死んではならない
が 殺してもいけない

だから今こそ!
もっともか弱きものとして
産声をあげる赤児のように
泣きながら抵抗を始めよう

泣きながら抵抗をしつづけるのだ

泣くことを一生やめてはならない
平和のために!

分りやすい言葉で真理が語られています。
戦争に関心のない人たちにぜひ読んでもらいたい詩です。

長崎に原爆が投下されたとき,長崎医科大学永井隆博士は自らも被爆しながら被爆者たちの治療に当たりました。3日後,自宅に戻りましたが,台所跡で骨片状態の奥様の遺骸を発見され,埋葬されました。その後も病気に苦しみながら,救護活動をつづけ,6年後,奥様の下に旅立たれました。

その事実をもとに,『長崎の鐘がサトウハチロー・作詞,古関祐而・作曲,藤山一郎・歌(1949)で発表されました。

こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

召されて妻は 天国へ
別れて一人 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き 我が涙
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

こころの罪を うちあけて
更け行く夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

先日,懐かしのメロディーのTV番組で,若手の歌手がこの曲を歌いました。
音程も発声も不安定で,全く歌い込んでいません。
それどころか,歌の終了後,あろうことか,満面の笑みを浮かべたのです。
この曲は,鎮魂歌です!
それまで永井博士のお孫さんが登場して,事実の話があった後ですよ。
そんな歌は聴きたくない,そんな歌では何にも伝わらない。
こんなことなら,藤山一郎さんの録音をながして,長崎の風景でも写しておく方が,何倍も良かったです。

私たち日本人は,この悲惨な戦争のことを,いつまでも決して忘れてはならないのです。