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加湿の効果と問題点

先日テレビで加湿器を紹介する番組がありました。
食事中に居間から聞こえてきた音声だけの内容なので詳しくは分りませんが,冬季の加湿の必要性にも言及していたと思います。

一般の聴取者のみなさんが,なるほど冬の加湿は必要なのか,という考慮を欠いた考え方に警告を与えるために,この記事を書いています。

たしかに,乾燥状態が続くと,のどや気管支は防御機能が低下するため,インフルエンザ・ウイルスによる感染が起こりやすくなります。

また,「ゴホン10万,ハクション100万」という言葉があるそうで,風邪をひくと1回の咳(せき)で10万個,1回のくしゃみで100万個のウイルスが空気中にばらまかれるといわれています。このウイルスは,乾燥状態では空気中に漂う時間が長くなりますが,湿度の高い状況では,すぐに地面に落下してしまい,感染の危険性が減るというのです。

しかし,一般の人たちはあまり気づいていないのですが,とても重大な建物側からの問題点があります。

それは「結露」の問題です。

結露といえば,窓につく水滴,ぐらいに思っている方々がいますが,窓ガラスだけで収まってくれれば,それほど大きな問題にはならないのですが,空気中の水分はいろんな場所に流れ込んで,見えないところで害を及ぼすので問題が大きいのです。

空気中や材料の内部に含まれる水分のことを「湿気(しっき,しっけ)」と呼び,液体(水)と気体(水蒸気)の両方の状態をいいます。

湿気の性質は,拡散性が高く防湿がむずかしいことです。
また,空気中に含み得る水分の量は,温度に関係し,高温では多く,低温になるにしたがって少なくなります。
ですから,低温になると,気体の状態でおれなくて,液体にもどり結露を引き起こすのです。

寒い地方では,建物内部で起こった結露のために氷結して,建物が破壊するような重大被害も起こりました。

ですから,寒冷地では壁の断熱を十分にして冷えないように,そして防湿を完全にして建材内部に水分が行かないように,という断熱防湿工法が建物を守るために一般化しました。

北海道などの寒冷地では,室内を常に暖房しておくのが常識で,学生時代,北海道から京都に出てきた学生が,京都は寒いといってパッチ(ズボン下,タイツ)を2枚重ねで着ておりました。

つまり,われわれの住む比較的温暖な地方では,必要な部屋に,必要な時間帯だけ暖房するという,部屋別暖房間欠暖房が,経済的な観点から,ふつうの住み方です。

まず,知っておいていただきたいのは,暖房している部屋では加湿しなくても,湿度はある程度高くなっているのが普通だということです。
それは厨房の調理による水蒸気の流入,風呂場からユゲの流入,観葉植物の水やり,洗濯物ほし,金魚鉢などの水槽,人間の呼気からの水分(静座50g/h)発生,床壁天井・家具からの水分の放湿などがあるからです。

また,ガス・ファンヒータや石油ファンヒータなどの燃焼型の暖房機器を使っている場合は,排気ガスの問題に加えて,多量の水分を発生します。
まさか,ストーブの上にヤカンをのせるという,前時代的な過剰加湿をする家庭は,少ないと思いますが・・・。

暖房しているとき,暖房していない部屋(非暖房室)で結露が起こることがあります。
それは,暖房室からの湿気非暖房室に流れ込み(拡散性が良いため),床壁天井が冷えているため,そこで結露が起こることがあります。
これは,暖房室に接している押入れ防湿がむずかしい)内部で結露が起こるのも同じ原理です。

間欠暖房の部屋で加湿をしたとすると,暖房を停止しているときに室内の床壁天井の温度が下がり,かならず結露が発生します。

室内表面の結露も,窓ガラス面だけなら処理は容易なのですが,家具の裏の壁に発生した結露などは見過ごされて,黴(かび)の発生につながったりします。

このように,建築技術に携わる専門技術者たちは,建物を安全・清潔に保つために種々努力を重ねて来ました。

部屋を加湿すると風邪を引きにくくするというのは,事実でしょうが,加湿することでの問題点も大きいので,よく考えてご利用ください。

暖房加湿を切るときに,部屋の窓を開けて換気すると結露の被害は減少されますが,「ガスファンヒータをご使用のみなさんは,30分に1度,窓を開けて換気してください」というガス会社のテレビ広告と同様に,実行するのがむずかしいことです。

さて,
この時期にふさわしい歌はこの曲にしましょうか。

とうだいもり勝 承夫・作詞 アメリカ民謡(1889)明治唱歌(三)旅泊

こおれる月かげ 空にさえて
ま冬のあら波 よする小島
思えよ とうだいまもる人の
とうときやさしき 愛の心

はげしき雨風 北の海に
山なすあら波 たけりくるう
その夜も とうだいまもる人の
とうとき誠よ 海をてらす

灯台守といえば,
映画『喜びも悲しみも幾年月木下恵介・監督 佐田啓二・高峰秀子・主演(1957)では,海の安全を守るため,日本各地の辺地に点在する灯台を転々としながら,厳しい駐在生活を送る灯台守夫婦の,戦前から戦後に至る25年間を描いた長編ドラマの名作でした。
映画では男声合唱でしたが,のちに若山彰の歌唱による同名の主題歌が大ヒットしました。
作曲家の木下忠司さんは監督の木下恵介さんの弟さんで,いまもご健在です。

喜びも悲しみも幾年月木下忠司・作詞作曲(1957)

おいら岬の 灯台守は
妻と二人で 沖ゆく舟の
無事を祈って 灯をかざす 灯をかざす

冬がきたぞと 海鳥鳴けば
北は雪国 吹雪の夜の
沖に霧笛が 呼び掛ける よびかける

離れ小島に 南の風が
吹けば春くる 花の香だより
遠い故郷 思い出す 思い出す

あしたに夕べに 入船出船
妻よ頑張れ 涙をぬぐえ
燃えてきらめく 夏の海 夏の海

星をかぞえて 波の音きいて
ともにすごした 幾年月の
喜び悲しみ 目にうかぶ 目にうかぶ

しかし,2006年に灯台は無人化され,国内の灯台守は消滅しました。

年の始めの

年の始めのためしとて」は,唱歌「一月一日」の歌い出しで,「ためし」は「」で,決して「試し」ではありません。
年始の先例のように」というような意味です。

元旦(元日の朝)には,お屠蘇(とそ)を飲み,それぞれのお国柄の雑煮おせち料理をたべて,新年の祝儀をおこないます。

厚い新聞が届きますが,正月の新聞は読みごたえがないですね。

ほどなくとどく年賀状は,いっとき,虚礼廃止だとか,メールで済ます,などですたれた感がありましたが,年に一度の安否確認の意味もあって,なくならずに続いています。

正月が困るのは,スポーツジムも休館だし,テニスコートも開いてないし,初詣に出かけるにも混んでいるし,TV番組も似たようなものばかりで飽きるし,身体を持て余すことです。

唯一といっていいTVの楽しみは,オーストリアのウィーンから生でとどけられる,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の「ニュー・イヤー・コンサート」でしょうか。
現在では世界の40ヵ国以上に生中継されています。
ちなみに,オーストリアと日本の時差は8時間,日本が進んでいます。

会場はウィーン楽友教会(Wiener Musikverein,ヴィーナー・ムジークフェライン)の大ホールで,ホール内部の絢爛豪華な装飾とともに,その音響の素晴らしさから通称「黄金のホール」と呼ばれています。

演奏会は,マチネ(昼間の興行)のため,演奏者は燕尾服やタキシードではなく,フロックコートかモーニング,略式でもズボンはグレーの縞物です。

演目はおもにワルツポルカです。
このウィンナ・ワルツと呼ばれるクイック・ワルツは独特で,3拍子が均等間隔ではなく,2拍目がひっかかり気味に演奏され,ウィーン生まれでなければこのリズム感がとれない,などと言われたりしています。

この伝統あるコンサートでは,アンコールとして,ヨハン・シュトラウスⅡの「美しく青きドナウ」,そして最後にヨハン・シュトラウスⅠの「ラデツキー行進曲」を演奏するのがならわしとなっています。

美しく青きドナウ」の冒頭が演奏されると一旦拍手が起こり演奏を中断,指揮者およびウィーン・フィルからの新年のあいさつがあり,再び最初から演奏を始めるのもならわしです。

新年の挨拶はその年の指揮者により色々な趣向で行なわれます。
たとえば,2002年のコンサートではウィーン・フィルの楽員に縁のある国の言葉で新年の挨拶を述べるという形で行なわれ,日本語のあいさつはコンサート・マスターが日本語で(妻が日本人),指揮者の小澤征爾が中国語(満洲生まれ)であいさつしました。

最後の最後の「ラデツキー行進曲」では,小太鼓が高らかに打ち鳴らされると,観客はもう待ってましたとノリノリで手拍子で参加します。

指揮者が誰になるのかも,注目ですが,今年2015年はズービンメータが5回目の登場でした。

ズービン・メータ(1936-)さんは,インドの出身,われわれの記憶に新しいのは,
2011年3月,フィレンツェ歌劇団を率いて来日しましたが,東日本大震災に遭遇,福島原発事故の影響を危惧するフィレンツェ市長の帰国命令によって日程半ばで中止となりました。
「日本の友人たちのために何も演奏できずに去るのは悲しい」と涙しました。
2011年4月10日,多くの外国人演奏家の来日キャンセルが続くなか,東京のオペラの森公演でベートーヴェンの「第九」(管弦楽はNHK交響楽団)を渾身の演奏し,観客は熱狂的に迎え,収益は全額寄付されるチャリティコンサートでした。

2002年の指揮者は小澤征爾(1935-)さんでした。
観客席には元モデルの妻,俳優の息子たちの顔が見えました。

観客といえば,以前,久米宏「ニュース・ステーション」で夜桜中継をしていた元銀行員の姿を何度も目にしました。

一度は生で見てみたい聴いてみたいという願望はありますが,なにせ,日本からの観劇ツアーがありますが,なんと,お一人様120万円(!)からの費用では,おいそれとは行けません。
ネットから自分で座席を確保できますから,ホテルも自分で予約して,格安航空券を利用すれば,何分の一かの費用で可能なはずです。

美しく青きドナウ」(An der schönen blauen Donau)は,1866年の普墺戦争(プロイセン王国とオーストリア帝国との戦争)で大敗し,失望の底に沈んだウィーン市民を慰めるために,ヨハン・シュトラウスⅡ(1825-1899)が1867年に最初,男声合唱曲として作曲しましたが,不評のため,管弦楽曲に書き直されて,人気が出ました。オーストリアの第2の国歌といわれています。

やはり年頭は,2012年ニューイヤーコンサートでのマリス・ヤンソンス指揮の「美しく青きドナウ」にしましょう。
ヤンソンス(1943-,ラトビア)は来年2016年の指揮者にも予定されています(3回目)。

実際の観劇では見られない(と思います)バレエがTVでは見られるのが良いところですね。
この2012年は特にバレエに趣向が凝らされており,上記の踊りの舞台もベルヴェデーレ宮殿ですが,そこの絵画館に所蔵されているクリムトの「接吻」のまえで,絵から抜け出たように踊るバレエ・シーンもありました。(バレエはウィーン国立バレエ団)

さて,
松の内」とは,正月の松飾がある間の称ですが,関西では昔ながらに15日までですが,関東では7日までと短縮されています。

また,
1月7日には,正月のごちそうに疲れ気味の胃を休めるために,春の七草を入れて炊いた七草粥(ななくさがゆ)を食べる習慣があります。
ところで春の七草は,つぎの和歌で覚えます。

せり・なずな ごぎょう・はこべら
ほとけのざ すずな・すずしろ
これぞ七草

ここに,
「なずな」はペンペン草
「ごぎょう」はハハコグザ
「はこべら」はハコベ
「ほとけのざ」はコオニタビラコ
「すずな」は蕪(かぶ)
「すずしろ」は大根

さらに,
1月8日は初薬師
1月10日は十日恵比寿(えべっさん)
1月14日は四天王寺どやどや
1月18日は初観音
1月21日は初弘法(初大師)
1月24日は初地蔵若草山山焼き
1月25日は初天神
1月28日は初不動

と「初」の付く行事がめじろ押し,1月は寒いのに,何かと心急き(こころぜき)な時節なのです。
風邪など引かないよう,元気にお過ごしください。

笑うかどには

笑う門(かど)には福来(きた)る」とは言い古された言葉ですが,じっさい,笑うことが健康に寄与することは実証されています。

がん細胞やウイルスなど,体に悪影響を及ぼす物質を退治しているのがナチュラル・キラー(NK)細胞です。その働きが活発だとがんや感染症にかかりにくくなると言われています。

笑うと,免疫のコントロール機能をつかさどっている間脳に興奮が伝わり,神経ペプチドが活発に生産され,NK細胞を活性化し,病気のもとを次々に攻撃するので,免疫力が高まるというわけです。

笑いによって免疫力が向上するだけでなく,脳の活性化血行促進自律神経のバランスが整い,筋力がアップし,幸福感をもたらし,モルヒネの数倍の鎮痛作用で痛みを軽減します。

このように万能の特効薬のような「笑い」を積極的に活用しない手はありません。

お笑いは,落語,漫才,そして喜劇(コメディ)に分類されるのでしょうか。

しかし,最近のTVのお笑い番組はひどいですね。
ひな壇というのですか,出演者がズラーッと席を並べて,司会者が話を振って,それぞれが適当にしゃべる,というほとんど似かよった画一的な番組ばかりじゃないですか。
その場しのぎに小手先の機転をきかせてくすぐるだけなので,爆笑はありませんし,「すべる」と称する場違いな応対を「受けない」と嘲笑して終わる,というような低レベルの笑いを薄利多売しています。

こんな番組に重宝されるのは小器用な才気ばしったタレントで,アジのある芸人は登場しませんし,そこから面白い芸人は育ちません。
けっきょく,次々に芸人を使い捨てするだけなんでしょうね。

パンクブーブー」という2009年にM-1グランプリを取ったコンビは「しゃべってみて受けたネタだけをつなげていけばいいんですから,漫才は楽です」と言っていましたが,それこそがネタを練り上げて上質化していく方法なんです。
彼らは上記のようなトーク番組にはあまり出ません。

ブラックマヨネーズ」「チュートリアル」「フットボールアワー」「銀シャリ」など才能を期待された若手の漫才師たちも,本業を磨かずに,器用さだけを求められて,大きく成長できていません。
だいたい,いま彼らはまじめに漫才をやっているんですか。

そして具合の悪いことに,これらの中途半端な芸人でも,人気だけが先行して出てしまうことです。

昔は厳然として存在した,舞台役者・映画俳優・歌手そして芸人の間にあった仕切りが低くなってきました。
ハッキリ言うとお笑い芸人が非常にモテるらしいのです。
それが目的で,芸人になりたい若者たちが急増してきています。

かれら若手お笑い芸人(50歳以下)に望みたいことが二つあります。

一つは,外と内を区別してもらいたい,ということです。
「外」とは,舞台上であり客前ということで,「内」とは楽屋や交友関係の内ということです。

大した経験もない若手が,少し後輩というだけの相手に,偉そうに大きな口をきかれると,そんな話は楽屋でしてくれ,という気になります。
「弱い犬ほどよく吠える」といいますが,相当の経験者でも,楽屋での優劣関係を,客前で見せられるほど,興ざめのものはありません。

もう一つは,「ツッコミ」と称して相手の頭を叩くことです。
これだけは何としても止めてもらいたいです。

いつ頃からでしょうか,相方を叩くようになったのは。

私の記憶では,
捨丸・春代(23-71)の萬歳で,ボケた砂川捨丸(1890-1971)の頭を中村春代(1897-1975)がツッコミとしてハリセン(紙を蛇腹状に折った扇子のようなもの)で叩いて落とす,という古い形がありました。

チャンバラトリオ〈かしら〉南方英二,〈リーダー〉山根伸介,伊吹太郎<結成時メンバー>〕(1963-)は大きなハリセンで,顔面を直撃することを「落ち」にしていました。

漫才ブーム(1980-1982)のころ,
やすし・きよし(66-89)の漫才で,ボケた横山やすし(44-96)を西川きよし(1946-)が何度も激しく叩く,のが気になっていました。
普段はアウトローの乱暴者で知られるやすしが,舞台上では逆に常識人のきよしから叩かれるのに違和感がありました。

ダウンタウン(82-)では,浜田雅功(1963-)は相方の松本人志(1963-)のみならず,出演者まで叩いたり,タメ口でどなったりするのが習わしになっています。

そもそも,現在のような「しゃべくり漫才」を確立したのは,
エンタツ・アチャコ(30-34)ですが,
横山エンタツ(1896-1971)を吉本興業が引き抜く際,エンタツ側から,当時すでに他の人とコンビを組んで人気が出ていた花菱アチャコ(1897-1974)と組むことを求められてコンビが実現しましたが,実際の活動は戦前で,しかも期間は4年と短いです。
背広を着てネクタイを締めて,「きみ」と「ぼく」という丁寧な言葉づかいで,歴史に残る「早慶戦」などを生み出しました。

戦後,アチャコはラジオ番組「アチャコ青春手帖」「お父さんはお人好し」で人気をはくし,大らかな性格から,東西を問わず,後輩たちから慕われました。

いっぽう,エンタツは気難しいところもあって晩年は不遇でした。
1963年にNHKの生番組で久しぶりに共演し,たまたまその番組を見ていたのですが,お互いにこやかに穏やかな雰囲気で談笑していたのですが,じつは番組終了後,長年の確執や行き違いを超えて,手を取り合って,二人とも号泣して再会を喜んだ,といいます。

これが,本物のプロ同士の外と内の使い分けなのです。
現在なら,人前で涙を見せて同情をさそう,ようなことを平気でやるんではないですか。

その「しゃべくり漫才」を完成させたのが,
ダイマル・ラケット(41-82)の兄弟コンビです。
中田ダイマル(13-82)の絶妙なボケと中田ラケット(20-97)の落ち着いたツッコミで,常に爆笑をとり爆笑王と言われました。
コメディ出演も多く,TV番組「ダイラケのびっくり捕り物帖」(57-60)では,藤田まこと(1933-2010)のデビュー作となり,森光子(1920-2012)の出世作ともなりました。
つづく「スチャラカ社員」(61-67)では,社長役でミヤコ蝶々(1920-2000)も出演しています。

ダイラケとほぼ同時期に同じ兄弟コンビとして活躍したのが,
いとし・こいし(1937-2003)です。
子供時代からコンビを組み,戦後,漫才作家の秋田實(05-77)に師事し,夢路いとし(1925-2003)喜味こいし(1927-2011)として長年,上質な笑いを提供し続けました。

古いものを打ちこわし,新しいものを創成するのが芸術家の仕事ですが,大先輩にもタメ口で接するのが手っ取り早く親しくなるコツかもしれませんが,浜田クンよ,そろそろ,もう少しやり方を考えた方が良いのではありませんか。

落語と喜劇の話は別の機会にしましょうか。

さて,
ウォルトディズニー(Walt Disney,01-66)は長編アニメーションの第1作「白雪姫」(1937)で大当たりをとり,第2作として「ピノキオ」(1940)を創ります。
時計職人のゼペット爺さんは人形ピノキオを作りますが,「自分の子供だったら」と星に願いをかけます。


星に願いをWhen You Wish upon a Star(1940)
ネッド・ワシントン(Ned Washington)作詞
リー・ハーライン(Leigh Harline)作曲

When you wish upon a star
Makes no diff’rence who you are
Anything your heart desires
Will come to you

If your heart is in your dream
No request is too extreme
When you wish upon a star
As dreamers do

Fate is kind
She brings to those who love
The sweet fulfillment of
Their secret longing

Like a bolt out of the blue
Fate steps in and sees you thru 
When you wish upon a star
Your dream comes true

星に願いをかけるとき
誰であろうと違いはないのです
心からの願いなら
何でもかなえられるでしょう

心に夢があるのなら
大きすぎる願いなどないのです
星に願いをかけるとき
夢みる人がするように

運命の女神は情け深く
愛する心を持つ人には
やさしくかなえてくれるのです
その心に秘めた願いを

晴天の霹靂(へきれき)のように
運命の女神は立ち現われて 助けてくれるのです
星に願いをかけるとき
あなたの夢はかなうのです

わたしにもささやかで大きな願いがあります。
平和で,自由にものが言えて,安心して暮らせる世の中になってほしい,と心から思います。

選挙は国民に与えられた大きな権利です。
将来のことをよく考えて有効に行使しましょう。

食通の時代?

食欲の秋」とは,秋は旬の食材が多く食欲が大いにそそられ,食べる楽しみこそが秋の醍醐味だ,というような言葉で,「味覚の秋」とも言います。 

フランス語のグルメ(gourmet)は「食通」の意味で,グルマン(gourmand)は「健啖家・大食漢」のことです。

最近,テレビでも自称「食通」の人たちが大勢登場して,何が美味しい,だとか,ここがお勧めとか,いささか,それこそ食傷気味です。

ミシュラン(Michelin)はフランスのタイヤ・メーカーで,世界で初めてラジアルタイヤを製品化し,2005年にブリヂストンに抜かれるまで世界最大のタイヤ・メーカーでした。

そのミシュランがタイヤの売り上げを伸ばすために,道路地図旅行ガイドブック(グリーン・ミシュラン)そしてレストラン・ホテルガイドブック(レッド・ミシュラン)をつくり,評価を星の数で格付けして,いまや世界で年間100万部を発行しています。

そのミシュランガイドも近年ヨーロッパでは影響力が低下してきて,新しい市場としてアメリカや日本で積極的に展開してきています。

現在,日本では,「東京・横浜・湘南」編と「関西」編の2種類が発行されています。

三ツ星レストランともなれば,1人で数万円は下らないので,庶民が気軽に行けるような店ではありません。

かたや日本は大阪が生んだ回転寿司は,安くて早くて,それこそ手軽に利用できる庶民の店です。

先日,昼食時にあるチェーン店に入りました。店は混んでいて,私の隣にお腹のせり出した中高年の男性があとから座りました。すると10分もしないうちに,勘定するではありませんか。見るとはなしに見ると,なんと既に11皿が積み上がっているではありませんか!
ちょっとちょっと!あまりに早食いで食い過ぎです!

早食いをすると,満腹中枢が刺激されて食欲にブレーキがかかる前に,食べ過ぎてしまいます。血糖値が急上昇し,インスリンが糖を脂肪に変えるため,それがカラダに蓄積し,肥満を加速させます。

やはり食事は頭でしなければなりません。
人体に必要な栄養源はすべて口から入ります。
バランスの良い食事をするのが健康の基本です。

つぎは食べ方の問題です。

ある日本人が英国に留学していて,親しいイギリス人と食事を共にしているとき,その人は食べやすいようにと,ステーキを先にナイフで刻んで,右手にフォークを持ち替えて食べていました。
すると友人のイギリス人は「そんなアメリカ人のような下品な食べ方はイギリスではやめた方が良い」と忠告してくれた,というのです。

そのイギリス人も一目置くのが,グルメの国フランスです。

そのフランス人たちと数か月間毎日一緒に昼食をする機会がありました
職場のレストランでの昼食とはいえ,かなりたくさんのバリエーションがあり,デザートまで注文できました。
フランス人たちは食事を楽しむんですね。
毎日同じ人と顔を合わせながら,なにをこんなに話すことがあるのだろうと思うくらい,よくしゃべります。
ところが,そんなにしゃべりながら,食事はドンドン片付いていくのです。
しかし,口から,食べ物が見えたりは決してしません。
いつ飲み込んでいるんだろうと不思議に思いました。
なにせ,食事だけに集中している私がいつも食べ遅れるのです。
フォークやナイフの使い方もみんな上手で,格好よかったですね。

一つはっきりしていることは,彼らは料理をかなり細かく切って小片にして口に入れます。だから,早く呑み込めるし,口の周りも汚れないし,第一,食べ方が上品に見えます。

TV番組を見ていても,みなさん切り方が大きいですね。
大きく口をあけてパクリと入れて,長いことモグモグと咀嚼していますね。
うどんやソバの影響で,パスタなど思わず音をたてて吸込んでしまうことがありますが,西洋では完璧なマナー違反です。

日本人なら,まずは箸の持ち方使い方でしょうか。
よくグルメ番組に出てくる中高年のタレントで,押し出しの良い人がいますが,箸の持ち方がへんで,コメントに説得力がなくなります。
日本人の基本的な教養として箸ぐらいはちゃんと使えるようにしましょう。

だいたいが,美味いものばかりを外食していると,健康に良くないことが多いです。
健康食を売り物にしている店を除いて,おいしいものを作るのに,それが身体に良いかどうかなど,考慮の外です。

TV番組などで,料理を評価するのに,「おいしい!」「やわらかい!」「ジューシー!」の三つが,語彙の貧弱なタレントの決まり文句のようです。

がいして,柔らかいものばかりを食べていると,余り噛まないので,唾液が十分に分泌されず,内臓の消化吸収に負担をかけ,また口内に雑菌が増えて虫歯歯肉炎になりやすくなります。

よく噛むことで,脳内に流れる血流量が増え,脳が刺激されます。

日本古来の,雑穀・いも類・根菜類・乾物などの硬い食材をしっかりとって,よく噛んで食事することが健康につながります。

これらこそが,ユネスコ無形文化遺産にも登録された「和食 日本人の伝統的な食文化」の原点です。

食欲の秋には,こんな楽しい歌はどうでしょうか。

おなかのへるうた阪田寛夫・作詞 大中恩・作曲(1964)

どうしておなかがへるのかな
けんかをするとへるのかな
なかよししててもへるもんな
かあちゃん かあちゃん
おなかとせなかがくっつくぞ

どうしておなかがへるのかな
おやつをたべないとへるのかな
いくらたべてもへるもんな
かあちゃん かあちゃん
おなかとせなかかくっつくぞ

阪田寛夫(1925-2005)さんは大阪市生まれの詩人・小説家・児童文学作家,元宝塚歌劇団の花組男役トップスターの大浦みずきは次女,大中恩は従兄弟です。東京帝国大学文学部卒。代表作は,小説『土の器』芥川賞,子供の歌『サッちゃん』など多数。

大中恩(1924-)さんは東京生まれの作曲家,父は『椰子の実』の作曲者の大中寅二です。東京音楽学校(現東京藝術大学)作曲科卒。代表作は「いぬのおまわりさん」「サッちゃん」など子供の歌,合唱曲など多数。

お腹の減ったときに食べる食事が一番おいしい料理となります。
そうすると,料理をおいしく頂くためには,適当な運動をするとその後の食事がおいしくなりますね。
だから「スポーツの秋」は「食欲の秋」につながります。

ただし,食間が空きすぎて,お腹が減りすぎると,身体の免疫力が低下すると言われていますから,あまり長時間空腹でいることは避けましょう。

バランスの良い旬の食材をつかった歯ごたえのある,塩分控えめの日本の伝統的な料理を控えめに取ることが健康に良いですね。

みなさんも良く考えて食欲の秋を満喫してください。

スポーツの秋です

この時期は秋本番,なにをするにも良い季節です。
秋といえば,スポーツの秋読書の秋芸術の秋食欲の秋などたくさんあります。

まず,スポーツの話題は,
テニス錦織圭(24)選手が,世界ランキングを5位にあげ,ロンドンで11月9日に開幕する年間成績上位8人が争う最終戦,ATPワールドツアー・ファイナルで今季を締めくくります。
1次リーグはB組で,フェデラー(スイス,2位),マリー(英,6位),ラオニッチ(カナダ,8位)と対戦しますが,一抹の不安は,全7選手との対戦成績が17勝14敗と勝ち越しているのに,初戦で対戦するマリーとは0勝3敗で,1度も勝ってないことです。
これも試練ですから,期待して見守りましょう。

ファイナルだけあって,賞金額も破格です。
出場するだけで15万5,000ドル(約1,780万円)が手に入ります。予選リーグは1勝につき同額が稼げます。5戦無敗で優勝すれば207万5,000ドル(2億3,800万円)が手に入る勘定です。

つぎは,フィギュアスケートのGPシリーズの第1戦,スケートアメリカは,米イリノイ州シカゴで10月24日に開幕,男子は町田樹(たつき,24,162cm)が優勝しました。

第2戦のスケートカナダは,ブリティッシュコロンビア州ケロワナで10月31日に開催され,男子は無良崇人(むらたかひと,23,170cm)が優勝,女子は宮原知子(16,145cm)が3位になりました。

第3戦は中国の上海で11月7日から開催され,羽生結弦(ゆづる,19,171cm)が出場します。
第1戦,第2戦と順調に来ているので,良い結果を期待しましょう。

高橋大輔(28)は引退しましたが,男子は後継者がぞくぞく出現してきて頼もしい限りです。
それにひきかえ,女子は村上佳菜子(20,162cm)が伸び悩み,今井遥(21,159cm)や本郷理華(18,166cm)もまだ完成度が低いですから,東京五輪を宮原知子一人に期待するのは荷が重いでしょう。

さて,プロ野球の日本シリーズは,守備妨害で決着するという盛り上がりに欠ける結果となりました。

ドラフト会議(新人選手選択会議)は今年も有力選手をパ・リーグのチームが交渉権を獲得するという皮肉な結果となりました。
ドラフト制度というのは,本来,チームの戦力を均衡化して面白い試合を増やす狙いがあるのに,東京にある1チームだけはドラフト指名を拒否した選手を次年度に獲得するという,野蛮な振る舞いしつづけてチーム力を強化しています。
それをいつまでも許しているという野球機構の組織力のなさが,野球の発展を阻害しています。

セ・パの交流戦も当初,ホーム(地元)3,アウェイ(敵地)3ゲームの6チームで36試合あったのを,ホーム2アウェイ2の24試合に減らし,来年は1チーム3(ホームかアウェイのどちらか)の18試合に減らすそうです。
いつも人気のセ・リーグが大敗するので,ゼロにしますか18にしますか,というような強圧的な二者択一を迫った結果なのです。

嫌になるほどの球団やリーグのエゴ(egoism,利己主義)むき出しに,そうすることで,自分で自分の首を絞めていることに気が付かないのか,と思います。

これは日本だけに限ったことではなくて,本家アメリカのMLBでもよく似た自分勝手をやっていて,これで野球がオリンピックから外されて,世界スポーツになれない大きな理由の一つだと思います。

そして,日本バスケットボール協会も情けないですね。
現在,国内にNBL(12チーム)とbjリーグ(22チーム)の2つのリーグが存在しており,FIBA(国際バスケットボール連盟)から,1国1リーグ制にするように勧告が出されていたのに,期限までに実現できず,ブラジルのリオデジャネイロ・オリンピック予選への出場が危ぶまれています。

情けない残念なことです。

もともと企業チームを中心とするJBL(8チーム)が古くからあり,統一するためにNBLというトップリーグを立ち上げましたが,企業名を残したいJBLからの参加者に対して,bjリーグが反発して,統一が実現できなかった,という経緯があります。

企業名を前面に出したいプロ野球チームと似た古い体質を残していますね。

そういう意味では,サッカーに後れを取っています。

日本のバスケットボール界から,全米のNBAに巣立とうとする若者が出てきているというのに。

それは富樫勇樹(21,167cm)選手ですが,新潟の出身で,中卒後,米国モントロス・クリスチャン高校に進学,帰国してbjリーグの秋田ノーザンハピネッツに入団,来季からダラス・マーベリックス傘下のDリーグのテキサス・レジェンズでプレイすることになっています。

これまでは田臥勇太(34,173cm)選手が2004年にNBAフェニックス・サンズと契約し,日本人として初めてのNBA選手となりましたが,4試合に出場したのみでした。

富樫選手に期待できるところは,高校時代からアメリカのバスケットボールに慣れており,ポイントガードながら,シュート力があることでしょう。

さらに,面白くないのは,女子ゴルフ大相撲ですね。

日本の女子プロゴルフの賞金ランキングは1位から3位までを韓国勢が独占しています。
それほど韓国の人たちに外貨を稼がせてあげる必要はないと思いますが,日本選手が勝てないですね。
せると弱いですね,日本選手は。逆に,とくに日本人相手にせると強いです,韓国は。

もっと面白くないのは大相撲です。
3人のモンゴル横綱に加えて,さらに逸ノ城という怪物が出現しました。
彼を見ると,50年前の東京オリンピックの柔道・無差別級のヘーシング(オランダ)対神永の試合を思い出します。
圧倒的な体力差で,技が通じずに完敗しました。

相撲は日本古来の神事から来ています。その象徴は,横綱のしめるつなは,紙垂(しで)を付けたしめなわが使われます。

神事祭りの催しであったのが,格闘技に成り下がった感があります。
たとえば,勝負がついた後に行なう,一礼が,負けた悔しさのためか,今やほとんどおざなりになってしまっています。

一度,陥ってしまった状況を改善するのは,並大抵のことではないです。
しかし,これでいいんですか,というのは多くの人たちの気持ちで,関係者は猛反省し,地道な対策を考えなければなければならないのです。

この季節の歌は,外国の曲に日本語の訳詞でなつかしい,この歌にしましょうか。

故郷の空大和田建樹・訳詞 スコットランド民謡

夕空晴れて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫なく
おもえば遠し 故郷の空
ああわが父母(ちちはは) いかにおわす

すみゆく水に 秋萩(はぎ)たれ
玉なす露は すすきにみつ
おもえば似たり 故郷の野辺
ああわが兄弟(はらから) たれと遊ぶ

原曲はいわずとしれた “Comin Through the Rye” です。

「読書の秋」以降はつぎの機会にしましょう。

今は正しく季節の変り目,天気予報をよく聞いて,気温に合った服装をして,風邪などかからないようにしましょう。

清潔であること

清潔とは,ひびきの良い言葉ですね。
汚れがなくきれいなこと,衛生的なこと,
また,人格や品行が清くいさぎよいこと,を指します。

関連して,
清廉潔白(心が清くて私欲がなく,後ろ暗いことのまったくないさま)や
品行方正(心や行いが正しく立派なさま)とかの熟語が思い出されます。

しかし,
潔癖は行き過ぎ,潔癖症となればもう立派(?)な病気です。

清潔感のある人,と言えば,衛生的にきれいな服装をしているだけではなく,精神的にすがすがしい人のことを言っているのです。

日本人は世界で最も清潔好きな民族と言われてています。
これは自慢してもよいことで,感染症を減らして,世界最高の長寿国に押し上げた要因の一つかもしれません。

その代表的なものが,シャワートイレ(洗浄便座)でしょうか。
インクで汚れた手を紙で拭いて「お尻だって洗ってほしい」という名キャッチコピーで一世を風靡(?)しました。
たしかに,大便をするのがとても快適になりました。

それどころか,私の通うスポーツジムでは,トイレの入口にオーバーシューズが置いてあり,靴(下足でも上履きでも)のままそれを履いて用を足すことになっています。
さらに大便器の横には,クリーナーが設置されていて,ペーパーに消毒液を吹きかけて便座を拭いてから用を足すことになっています。

ここまでくると,少々やりすぎの感があります。

世の中は抗菌グッズであふれています。
マスクどころか靴下やパンツまで抗菌です。

ある漫才師の一人が,入浴後,全身をマキロン(殺菌消毒液)で拭く,と聞いて,余りの無知さにビックリしました。
皮膚を正常な状態に保つには,皮膚ダニ・細菌・ウイルスなどの微生物と共存する必要があるのです。
あきらかに,清潔であることの意味を取り違えています。

毎日,石鹸やボディソープなどの洗剤で身体を洗うことさえ,体表面の細菌を殺してしまうので,肌を美しく保つには,やりすぎであると皮膚科の医師は言っています。

フランスに行っていたとき,
パン屋で,われわれ外国人がバゲット(長い棒状のフランスパン)を買うと紙袋に入れてくれますが,フランス人は素手で待ちかえります。

その裸のバゲットを床に転がしたまま本屋で本を立ち読みしていた人がいて驚きました。

場末のレストランで,
犬を連れて入ってきた父と子の二人づれ,犬をテーブルの下に横臥させた状態で食事を始め,幼い子がホークをチャリンと床に落としました。
ウエイトレスが急いで代りを持ってゆくと,父親が子供を指さし,拾って使っているので,もう必要ない,という合図をしました。

フランス人の清潔に対する意識はわれわれ日本人とかなり違いますね。

回虫博士として有名な東京医科歯科大学名誉教授・藤田紘一郎さんは,日本で,花粉症・アトピー・喘息などのアレルギー疾患が極端に多くなったのは,体内から寄生虫を排除したせいである,と長年の研究結果から断言されています。

これは,藤田博士の見解だけではなく,
環境が清潔すぎると,アレルギー疾患が増えるという衛生仮説は2004年にドイツを中心とする医科学チームの研究により裏付けられました。

日本人は清潔であり過ぎる結果,アレルギー疾患が多い民族の代表となってしまいました。

パンダコアラの赤ちゃんは,母親の雲古をなめて,を消化したり,ユーカリを無毒化するために,腸内に必要な細菌を取り込んでいます。

最近,こんなニュースがありました。
川で大量の魚が死んで浮き上がりました。
原因をさぐると,近くのプールで殺菌のために投与した塩素のため,オーバーフローした排水が川に流れ込んで,魚を死滅させました。
魚が死ぬような水で泳いで清潔と言えますか,安全と言えますか。
むしろ,雑菌のウヨウヨいるような水で泳いで,お腹をこわす方がよっぼど安全です。

2500年ほど前,孔子は,

過ぎたるは猶及ばざるが如し

と言いましたが,
現代では,

過ぎたるは及ばざるに如(し)かず

と言い替えた方が良いと思っています。
なにごとも過ぎるより,足らない目の方が良いことが多いからです。

過食より小食粗食の方が健康的なのは,周知のとおりですし,過保護で育つより,放任で育てる方がまともな子供になるようです。

今年は10月になってからも大きな台風が毎週のようにやってきて大変でした。
南の島から何かが流れてきても不思議はありません。

ところで,
民俗学者・柳田國男(1875-1962)が学生の1898年の夏,1カ月半ほど伊良湖岬(愛知県渥美半島)に滞在したとき,浜に流れ着いたヤシの実の話を友人の島崎藤村(1872-1943)に語り,藤村がその話を元に1901年,詩を創りました。

1936年7月,NHK大阪中央放送局(JOBK)で放送中だった『国民歌謡』の担当者がその詩をもって作曲家・大中寅二に作曲を依頼しました。
7月13日から東海林太郎の歌唱で1週間放送されました。

椰子の実』島崎藤村・作詞 大中寅二・作曲

名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ

故郷の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月

旧(もと)の樹は生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる

われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ

実をとりて胸にあつれば
新たなり流離の憂

海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙

思いやる八重の潮々
いずれの日にか国に帰らん

大中寅二(1896-1982)は日本の作曲家・オルガにスト,同志社大卒,作曲を山田耕筰に師事,ドイツ・ベルリンに留学,東京英和女子短大教授,大中恩(作曲家)の父。

日本の代表的な叙情歌です。
東海林太郎の歌ではないと思います。

まったくの蛇足ですが,
NHK大阪放送局JOBKはどこにあるんですか,と尋ねられたら,
ジャパン(J)大阪(O)ばんば町(B)かど(K)にあります,
と答えてください。

我々ももう少し原始社会に回帰して,雑菌たちともうまく共存して,生物としての自然な生活するようにした方が,真の健康的な生き方ができるのではないでしょうか。

50年前のできごと

坂井義則さんが,9月10日にお亡くなりになりました。
1945年8月6日のお生まれでしたから,まだ69歳の若さでした。
広島に原爆が投下された日に広島県三次(みよし)市で出生,400mの陸上選手でした。

1964年10月10日に開催された東京オリンピックの開会式で,若干19歳の坂井さんが聖火リレー最終ランナーとして,国立競技場の聖火台にさっそうと駆け上がっていった雄姿は,いまでも目に浮かびます。

その日のことは,NHKの北出清五郎アナウンサーの名セリフにあります。
世界中の青空を,全部東京に持ってきてしまったような,すばらしい秋日和でございます

そして,ファンファーレとオリンピックマーチで入場行進が始まりました。

ファンファーレ今井光也・作曲
オリンピックマーチ古関祐而・作曲

もう50年,半世紀も前の出来事だったんですね。

1940年に東京で開催予定だったオリンピックが,第2次世界大戦勃発のために中止,24年ぶりに,アジアで初めて,東京で開催されました。

なにしろ戦後最大のイベントでしたから,国を挙げて取り組みました。

1964年10月1日(開会式の9日前)には,東海道新幹線が開通しました。もちろんオリンピックにあわせて建設したのです。

しかし,新幹線建設の現場で210名もの殉職者を出したことはあまり知られていません。
これは,「世紀の難工事」と評された黒部ダムの殉職者数171人と比べれば,その多さを実感できるでしょう。
「1959年着工で5年余で完成したということになっているが,実は用地の買収が難航して2年近くをそのために費やしたので,実際の工事期間は3年半くらいに過ぎない」と当時の技師長は語っています。

つまり,開業9日後に始まる東京五輪に間に合わせるための突貫工事だったのです。
「全職員が夜を日に継いでの捨身の努力の結果,かろうじて所定の期日に間に合わすことができた」と『工事誌』に記されています。

東京五輪という「世紀の祭典」のために,なりふり構わず無茶をしたんですね。おおいに反省すべきところでしょう。

前年の1963年7月16日には,名神高速道路が日本初の都市間高速道路として開通しました。ただし,栗東IC~尼崎IC(71.1km)。

プロ野球もオリンピックを考慮して,前倒しで試合を消化,日本シリーズは阪神タイガース南海ホークスの関西勢の対決となりましたが,10月1日に開始,雨での順延もあり,第7戦は開会式10月10日の夜になってしまい,まったく盛上りませんでした。

このオリンピックで日本選手の獲得した金メダル数は16個,アメリカ,ソ連についで3番目でした。

最も関心を呼んだ種目は,なんといっても女子バレーボールではなかったでしょうか。

東洋の魔女」と呼ばれた女子チームは,決勝戦で宿敵ソ連を3対0のストレートで下し,金メダルを獲得しました。
なにしろそのときのTVの視聴率は66.8%を記録しました。

NHKの鈴木文弥アナウンサーがTV中継で最後のポイントのとき,
金メダルポイント!」と絶叫したことも記憶に残っています。

じつはオリンピック前年に東洋の魔女の主体「日紡貝塚」の練習を見ています。
1963年12月に池田市立体育館の竣工を記念して,練習を公開しました。
というのも,チームの一員である谷田絹子選手が池田市の出身という縁で,実現しました。
彼女は左の宮本,右の谷田といわれたエース・スパイカーでした。

しかし,えげつない練習でしたね。
鬼の大松といわれた大松博文監督のもと,回転レシーブに代表されるように守備の練習が主体で,一人の選手に長時間,何度も何度も取れそうもないようなボールを投げつけて,また逆にお仕置きのように体めがけて何回もボールをぶつけて,まるでいじめか虐待にしか見えないような練習風景でした。
これほどのことをしないと勝てないのか,と愕然としました。
現代では,人前でこんなことをやったら,監督は即刻クビで大きな社会問題になっていたことでしょう。
むかしは勝つためと言って,メチャクチャなことをやっても許されていたんですね。

じつはその谷田選手,1962年11月3日に,なんと池田市の第1回文化功労者に選ばれています。
そのとき同時に,童謡作詞家の東くめさんも文化功労者に選ばれています。こちらの方が文化の香りがしますね。

東くめ(1877-1969)さんは,和歌山県新宮出身,東京音楽学校卒,東京府立高等女学校の音楽教師を8年間務め,日本ではじめて口語による童謡を作詞,東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)教授・東基吉と結婚,夫が大阪府池田師範学校(現大阪教育大学)校長に就任したため池田市に転居,新宮市名誉市民,池田市にて没。
夫の提案により「子供の言葉による,子供が喜ぶ童謡」の作詞を2年後輩の滝廉太郎と組んで創作,滝さんは23歳で早逝しましたが,東くめさんは91歳の長寿をまっとうされました。
代表作は,
鳩ぽっぽ滝廉太郎・作曲(1901.7)幼稚園唱歌

鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ
ポッポ ポッポととんでこい
お寺のやねからおりてこい
豆をやるからみなたべよ
たべてもすぐにかえらずに
ポッポ ポッポとないてあそべ

 ちなみに「ぽっぽっぽ 鳩ぽっぽ」と歌うのは『』です,念のため,童謡の題名はむずかしいのです。

じつは,この年にオリンピックを実際に観戦しているのです。
まず,観戦チケットを手に入れるのが大変でした。何時間も行列しなけれが手に入りません。人気の種目を入手するのは,ほとんど不可能にちかいことでした。
父親と生まれて初めて二人で東京まで出かけました。その後もありませんでしたから,一生一度きりの旅行でした。
もちろんできたばかりの新幹線には乗らず,夜行急行『銀河』で行きました。
横浜の親戚の家に宿泊させてもらい,2つの競技,バレーボールとバスケットボールを観戦しました。もちろんどちらも男子です。
そのどちらかを観戦中に円谷がマラソンで銅をとった,という風の便りを耳にしました。
むかしの思い出です。

2020年に,ふたたび東京でオリンピックが開催されます。

1964年の東京オリンピックでは,敗戦後19年,第2次大戦からの復興と国際社会への参加を旗印に,高速道路や新幹線がつくられ,都市のインフラ(infrastructure,下部構造の意,道路・鉄道など産業基盤の社会資本のこと)が整備され,それなりの成果がありました。

しかし,このつぎに何を期待しますか?
競技用の巨大施設の建設は,必要な経費とその後の利用価値を考えると,否定的になります。
一時的な利用のために巨費を費やす時代ではありません。
競技専用ではなく,むしろ国民の健康のために利用可能な施設に転用できることが条件となるでしょう。

なにより,福島原発事故について,状況はコントロールされている,というオリンピック招致のプレゼン(presentation,口頭発表)での首相の発言で,外向けにはウソでごまかせても,国民はだれも信用していません。
国の政策としての優先順位は,何を置いても,まず事故処理を,住民補償もふくめて,国民の納得のいくような結果を出すことが第一です。オリンピックはその次です。

ところで,第17回アジア大会(仁川)が終了(9.19-10.4)し,日本の金メダル数は47個で,中国151,韓国79,についで3位の定席でした。

第1回(1951)から第8回(1978)までは日本が1位を独占,第9回(1982)に中国に抜かれ,第10回(1986)から韓国にも抜かれ,その後ずっと3位が定位置になってしまっています。

人口13.57億の中国は致し方ないとしても,人口1.27億の日本が,人口5千万に過ぎない韓国の後塵を拝するのは納得がいきません。

つぎのオリンピックではキッチリ,結果を出してもらいましょう。

秋のきざし

9月8日の夜は中秋の名月で,十五夜とも言います。

本来,十五夜は満月のことなので年に12回または13回めぐってきますが,とくに旧暦の8月は1年の中で最も空が澄みわたり月が明るく美しいとされていたため,平安時代から観月の宴が催され,江戸時代から収穫祭として広く親しまれるようになり,十五夜といえば旧暦の8月15日をさすようになりました。

9月8日は二十四節気の一つ,白露で,このころから秋気がようやく加わります。

秋来(き)ぬと 目にはさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる

藤原敏行『古今和歌集』

敏行さんは「風の音で秋の気配を感じて驚いた」と言っていますが,今年の夏は,雨が多すぎて 驚きました。

8月の降雨量はわが国で気象観測(1875)が始まって以来,各地で最高値を示しました。
大阪では8月の猛暑日(最高気温が35℃を超えた日)がゼロで,日照時間が不足して,おかげで涼しい夏となりました。
しかし,そのせいで野菜の生育に異常をきたし,高値がつづいています。
このぶんでは,コメの収穫も不作が予想されます。

8月20日,広島で同時多発的に大規模の土砂災害が発生し,73名もの人が亡くなりました。

1923年9月1日,関東地域にマグニチュード7.9の大地震が発生して(関東大震災),99,000名の人が亡くなりました。
ちょうどこの日は,立春から数えて210日目の二百十日でした。
以降,9月1日は「防災の日」になっています。

1995年1月17日午前5時46分,阪神・淡路大震災が発生し,6,434名の人が亡くなりました。
地元のオリックス・ブルーウェーブは「がんばろうKOBE」を合言葉に,この年パリーグを制覇しました。

広島カープも頑張っていることだし,早く立ち直っていただきたいと思います。

元来,日本は地震・台風・大雨のような自然災害の多い地域です。
被災しても,すぐに立ち直り,おかげで我慢強い民族性が醸成されたのかもしれません。

錦織圭選手(24,178cm)はニューヨークで行われている全米オープン・テニスで,
4回戦はラオニッチ(カナダ,196cm),
準々決勝はワウリンカ(スイス,183cm),
準決勝はジョコビッチ(セルビア,188cm)に全て粘り勝ち,
決勝はチリッチ(クロアチア,198cm)と対戦します。
大男たちを相手に非常に頑張っているじゃありませんか。

この時期は,夜ともなると,虫の鳴く声に一段と秋を感じるものです。

虫のこえ』尋常小学読本唱歌 作詞・作曲者不詳(1910)

あれ松虫が 鳴いている
ちんちろ ちんちろ ちんちろりん
あれ鈴虫も鳴きだした
りんりん りんりん りーんりん
秋の夜長を鳴き通す
ああ おもしろい虫のこえ

きりきりきりきり きりぎりす
がちゃ がちゃ がちゃ がちゃ くつわ虫
あとから馬おい おいついて
ちょんちょん ちょんちょん すいっちょん
秋の夜長を鳴き通す
ああおもしろい虫のこえ

ここで,「きりぎりす」はコオロギのことです。

聞きかじりですが,外国人には虫の声はあまり届かないそうです。
日本人のみが,繊細な虫の音に,秋を感じることができるのです。

1989年の思い出

いまの時期は,二十四節気の処暑で,暑さがやみ涼しくなりはじめるころで,季節の替り目といっていいでしょう。

ものごとには節目というものがあり,時代にも特別な転換点ターニングポイント)と思えるような年があります。

その一つが,いまから四半世紀・25年前の1989年ではないでしょうか。

1月7日,昭和天皇が崩御されました。
昭和元年は12月25日からですから,元年と64年は7日づつ,つまり昭和時代は62年と2週間ということになります。

昭和天皇(1901.4.29-1989.1.7)は第124代の天皇で,諱(いみな)は裕仁,まさしく激動の87年の生涯でした。

このたび,宮内庁による『昭和天皇実録』という公式記録が24年かかって完成しました。全60冊,約12,000ページという膨大なものです。9月中旬に公表されるそうです。

誕生日の4月29日は,平成になってから「みどりの日」,2007年からは「昭和の日」に,5月4日が『みどりの日』となりました。

2月10日,オウム真理教による信者殺害事件発生。
教団代表の松本智津夫(麻原彰晃)が主導して,世間的には有能とされるような若い信者を勧誘・洗脳し,松本サリン事件,地下鉄サリン事件などのテロ行為,信者殺害,弁護士一家殺害などを行い,世の中を震撼とさせました。

2月13日,リクルート事件で,リクルート社会長の江副浩正が逮捕。
未公開株を賄賂として,多くの有力政治家たちに贈った戦後最大の贈収賄事件でした。

4月1日,消費税施行。
当初は3%,1997年4月から5%,そして2014年4月から8%となりました。

6月4日,北京で天安門事件発生。
4月の胡耀邦の死をきっかけとして,中国北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し,中国人民解放軍が武力弾圧し,多数の死傷者を出した事件です。
中国当局はいまだに,事件はなかった,という隠蔽工作をつづけています。

11月10日,ベルリンの壁崩壊。
ベルリンの壁とは,冷戦の真っ只中にあった1961.8.13に東ドイツによって建設された西ベルリンを包囲する壁です。
1990.10.3に東西ドイツが統一されるまで,この壁はドイツ分断や冷戦の象徴となっていました。

12月3日,米のジョージ・H・W・ブッシュ大統領とソ連のミハイル・ゴルバチョフ最高会議議長がマルタ島で会談し,冷戦の終結を宣言しました。
その後もソ連のペレストロイカ(再構築)路線は行き詰まり,東欧各国の独立や連邦からの離脱が進み,ついに1991.12.25にソ連は消滅します。

ここに,冷戦とは,第二次世界大戦後の世界を二分した,アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と,ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造です。

12月29日,東証の大納会で,日経平均株価が38,957円(史上最高値)を記録し,翌1990年の大発会から株価は下落へ転じ,バブル景気は崩壊に向かいます。

この年には,多くの著名人が亡くなっています。

2月4日,手塚治虫さん死去(60)
手塚治虫(1928.11.3)は漫画家・アニメータ・医学博士であり,生存中から「マンガの神様」と称されました。
豊中市で生まれ,宝塚市で育ち,大阪帝国大学医学専門部在学中に漫画家としてデビューし,『新宝島』がベストセラーとなり,大阪に「赤本」ブームを作りだします。
1950年より漫画雑誌に登場,『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』などを大ヒットさせます。
1963年から鉄腕アトムをTVアニメーションとして製作します。
1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』を創り,晩年には『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』などの青年漫画をも創り出しました。
デビューから亡くなるまで第一線を走り続け,夢を与え続けた60年の生涯でした。

藤子不二夫,石ノ森章太郎,赤塚不二夫,横山光輝など多くの人たちが手塚さんの影響を受け,漫画家を志しました。

漫画家たちばかりではなく,ロボット開発に携わる技術者たちが「アトムのようなロボットを作りたい」と言うほど後々まで社会に影響をあたえました。

手塚作品は海外にも影響を与えており,アメリカ映画『ミクロ決死圏』(1966)は,『吸血魔団』(1948)の,ディズニーの『ライオンキング』映画(1994)舞台(1997)は『ジャングル大帝』マンガ(1950-54)アニメ(1965-66)の明らかに盗作と言ってよい作品です。

じつは,少年のころ,貸本屋で「赤本」と呼ばれた手塚作品を見つけ出して,読み漁りました。まったく他の作者とは一線を画した胸躍るような内容に魅了され,雑誌「少年」に連載された『鉄腕アトム』も発売日の前から,貸本屋で予約し,誰よりも先に読むことを小学校の卒業まで続けました。
手塚さんの影響で,自分でも漫画を描いていたのが,クラスでも有名で,「マンガの先生」というありがたいアダナを頂戴していました。
もし,いまのように自由で余裕のある時代だったら,漫画家を目指していたかもしれません。

4月27日,松下幸之助さんが死去(94)
松下幸之助(1984.11.27)は松下電器(現パナソニック)を一代で築き上げた経営者で,経営の神様と称されています。
和歌山の出身で,尋常小学校を中退して丁稚奉公から会社を立ち上げ成功し,長者番付1位を長年続け,のちにPHP研究所を設立し倫理教育に乗り出し,晩年には松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも力をそそぎました。死亡時の遺産総額は約2,450億といわれ日本最高です。

松下さんは大阪の経営者らしく,大社長になってからも,言葉づかいは誰に対しても丁寧で,面長で耳が大きく,仏様のような感じの人でした。

6月24日,美空ひばりさんが死去(52)
美空ひばり(1937.5.29)は横浜市の出身,幼少のころから才能を発揮し,母親の支援で成功し,昭和の歌謡界を代表する歌手といわれています。
山口組三代目・田岡一雄が父親代わりで,日活の人気スター・小林旭と結婚(1962-64)するも入籍せずに離婚,実弟の不祥事や暴力団とのつながりを指摘されるも,人気は不動でしたが,身内はみんな早逝し,本人も晩年は病魔に苦しみます。
代表曲は, 『リンゴ追分』(1952),『』(1964),『悲しい酒』(1966),『川の流れのように』(89)など多数。
同い年の江利チエミ(1937-82),雪村いづみ(1937-)と東宝映画『ジャンケン娘』(1955)で共演,元祖三人娘を結成しますが,実際は,圧倒的に美空の存在が大きかったようです。

個人的には江利チエミが贔屓だったのですが,東映の高倉健と結婚(1959-71)しますがやむなく離婚,明るい表情とは裏腹に,不幸が付きまとった45年の短い人生でした。

7月16日,ヘルベルト・フォン・カラヤン死去(81)
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908.4.5)はオーストリア・ザルツブルグ出身の指揮者,ベルリン・フィルハ-モニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督をつとめ,暗譜で眼を閉じて指揮することでも有名で,一時期,クラシック音楽界の主要ポストを独占し,楽壇の帝王とも称されていました。
当時のソニー社長・大賀典雄と親交があり,大賀がカラヤンの自宅を訪ねているときに倒れ,大賀の胸に抱かれて絶命しました。

大賀典雄(1930-2011)は日本の実業家・指揮者・声楽家です。
東京藝術大学音楽学部卒業・同専攻科修了後ドイツに留学,テープレコーダーの図面を東京通信工業(現ソニー)に送ったりした縁で,留学後,井深大に誘われて入社(1959)します。
最初は歌手と実業家の2足の草鞋を履いていましたが,そのご実業に専念し,CBSソニーレコードやソニー商事の社長を経てソニーの社長に就任(1982),会長等を経て退職,退職慰労金の16億円を全額軽井沢町に寄付し,軽井沢大賀ホールを建てました。

大賀さんの歌うフィガロをFM放送で聴いたことがあります。
良いバリトンでした。
もし,人生をやり直す機会があるとすれば,音楽家になりたかった,と本人も言われていました。

12月9日,開高健さんが死去(58)
開高健(1930.12.30)は大阪市天王寺区の出身,天王寺中学(現天王寺高校)卒,大阪市立大学文学部卒,在学中に牧羊子と結婚(1951),壽屋(現サントリー)宣伝部に入社(1954),数々の名キャッチコピーを創作,朝日新聞の臨時特派員としてベトナム戦争に従軍(1964)命をはって取材,帰国後に小田実らとともにベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に参加します。
裸の王様』で芥川賞受賞(1958),食と釣りを楽しみ,エッセイも多数。
開高さんの作品は海外でも評判が高く,もし,もう少し長生きしておれば,大江健三郎(1935-)ではなくて,開高さんがノーベル文学賞を受賞していたかもしれません。

盟友・谷沢栄一は『回想 開高健』(PHP研究所,1999)のなかで,「七つ年上の女につかまり,しだいに事態の意味するところに気づき,見る見る不機嫌となった」と書き,稀代の悪妻とまで言い切っています。開高さんが海外にまで釣りに出かけたのは,妻から逃げるためだった,とも言っています。

編集者・菊谷匡祐も『開高健のいる風景』(集英社,2002)で,開高の葬儀のとき,牧羊子(1923-2000)が郷土の先輩・司馬遼太郎(1923-1996)に弔辞を依頼しますが,「開高さんは口にこそ出しませんでしたが,司馬さんの作品を認めていなかった」と証言しています。さほどに,食い違った夫婦であったようです。
しかし,悪妻が故に,夫がいい仕事をした実例は,古今東西いろいろとありますからね。

この1989年という年は,個人的にも特別な年でした。
この年の9月から12月までの3か月余り,フランスに滞在する機会を得ました。
それまで学校や仕事には生まれた自宅から通っていましたから,初めて自宅を離れるのが,海外,しかも伝統あるフランスのパリということで,期待と少々の不安がありました。
居住地は,地下鉄1号線の,凱旋門の直下のシャルル・ド・ゴール・エトワール駅(通称エトワール)から乗って終点のヴァンセンヌにあるホテル兼アパートでした。
じつはヴァンセンヌは市で,パリ市の隣町ですが,フランス人によるとほとんどパリと言ってよいそうです。
パリの西にブローニュ―の森があり,東にヴァンセンヌの森があります。しかしブローニュ―の森はパリではないそうです。
勤務先が高速地下鉄RERとバスを乗り継いて15km東の新興都市シャンスルマルヌにあるCSTB(建築科学技術研究所)でしたので,パリの東が適当であろうと,フランス人(日本で私の研究室で研修した人)が思って確保してくれたのだと思います。
それと夜のジョギングをするのに,ヴァンセンヌの森が適切ではないかとも言っていました。
しかし,フランスの道は犬のフンだらけで,踏まずに歩くことはできません。フンを踏みながら走るのはなかなか慣れませんでした。

フランスの思い出はいろいろありますが,また別の機会にゆっくりとお話ししましょう。

この季節の歌は『誰もいいない梅』にしましょうか。

山口洋子・作詞 内藤法美・作曲 越路吹雪・歌(1970)

今はもう秋 誰もいない海
知らん顔して 人がゆきすぎても
わたしは忘れない
海に約束したから
つらくても つらくても
死にはしないと

今はもう秋 誰もいない海
たった一つの夢が 破れても
わたしは忘れない
砂に約束したから
淋しくても 淋しくても
死にはしないと

今はもう秋 誰もいない海
いとしい面影 帰らなくても
わたしは忘れない
空に約束したから
ひとりでも ひとりでも
死にはしないと

作曲者・内藤法美(1929-88)は,歌手・越路吹雪(1924-80)の夫です。
長らくヒット曲がなかった夫にやっとヒットが出たということで妻は非常に喜んだということです。
ですからここはトア・エ・モアではなくて越路吹雪にしました。
作詞者・山口洋子(1933-)は詩人で,「横浜たそがれ」の同名の作詞者とは別人です。

昼間はまだ残暑がありますが,夜は虫の音が聞こえる秋になりました。
本格的な秋にはもう少しですが,季節の替り目には体調を壊すことがありますので,夏の疲れがでませんように,すこやかにお過ごしください。

美しく逞しき日本女性アスリートたち

頭の中で想像していたことと実際が違っていたということは多々あることです。

外国へ行く前になんとなく思っていたこと
1.外国の食事は問題なく食べられる
2.外国人(西欧人)はカッコいい

元来,偏食の方ではないので,なんでも食べられる,と思っていたのですが,やはり外国の食事は美味しくないのです。

長期に滞在していると,無性に日本食が食べたくなりました。
醤油味噌という最高の調味料があれば問題はないのですが。
和食がないところでは,中華で代用させることができます。
中国人は世界のあらゆるところに進出しているので助かります。

カナダ最大の都市トロントチャイナ・タウン(中華街)へ足を踏み入れると,ここはカナダか?と思います。
街の表示は漢字であふれ,音楽はテレサ・テンの歌う耳慣れた,中国語の歌でした。
現地の中国人たちが食べるレストランなので,値段も格安です。

フランスの首都パリの高級和食店では,入口を入ると,日本語で「いらっしゃいませ」と案内されます。
店内は黒い背広を着た日本人たちの日本語であふれています。
ビールはキリンビールがでます。
招待したフランス人は「ここはパリなのか?」と驚いておりました。

パリで,通勤に使う地域高速鉄道(RER)でも,パリ中心街のメトロ(地下鉄)でも,超高速列車TGVの車内でも,シャンゼリゼ通りを歩いても,職場でも,魅力的と思えるマドモアゼルには残念ながらお目にかかりませんでした。

カナダのスポーツジムでは,シャワールームで自然に目に入るのは,細い長い脚とたるんだお腹のカナダ人たちでした。
脚の長いことが必ずしも美的ではないのですね。

やっぱりカッコのいい西欧人というのは映画の中だけの虚構だったのだ,と気づきました。
日本でも,映画では美男・美女が目立ちますもんね。

さて,ここからが本題です。
女子の体操競技で
池田敬子(旧姓:田中,1933-)さんは,1954ローマの世界選手権で平均台金メダルを獲得(日本史上唯一),1964東京オリンピックで団体銅メダル,1966ドルトムントの世界選手権で段違い平行棒銀メダル個人総合銅メダル団体銅メダルと長期にわたり活躍し,日本女子体操の先駆者として,36歳までママさん選手として現役を続け,選手養成にも力をそそがれました。
その池田さんが「お尻の位置がもう一つ上にあったら」と外国選手との体型の違いを嘆いておられました。

女子フィギュアスケートの
伊藤みどり(1966-,145cm)さんは1992年アルベールビル・オリンピックの女子シングルで,世界初となるトリプル・アクセル(3回転半)を飛び,銀メダルを獲得しました。
技術点では最高点を取りましたが,芸術点では低い評価となりました。
技術は高いのに背が低かったり,スタイルが良くなかったりすると不利になるというのは,スポーツとしてはどうかと思います。

いつも思うことですが,スポーツ競技で採点によって結果の出る種目は,審判員の主観に必ず左右されるし,ときには不正が起きやすいので,納得のいかないことも少なくないのです。

しかし,その後の女子フィギュアスケート界はすごいですね。

まず,
荒川静香(1981-,166cm)さんは,2004ドルトムント世界選手権で金メダル,そして2006トリノ・オリンピックでは念願の金メダルを獲得しました。
時の首相は,すぐに祝福の国際電話を掛け,その後フリー演技に使ったプッチーニのオペラ「ツゥーランドット」を席を並べて鑑賞するという,職権乱用,越権行為もしくはパワハラを行い,ヒンシュクを買いました。

つぎに,
安藤美姫(1987-,162cm)さんは,2007東京,2011モスクワの両世界選手権で金メダルを取りました。
天才的なところがあり,反面,気まぐれなところもあって伸び悩みましたが,若いころ,公式戦で4回転を成功させています。

そして,
浅田真央(1990,163cm)さんは,2008ヨーテボリ,2010トリノ,2014さいたまの3回の世界選手権で金メダルを獲得し,2010バンクーバー・オリンピックでは惜しくも銀メダルとなりました。
2014ソチではショートプログラムで大失敗をし,フリーで完璧な演技をして,メダルには届きませんでしたが,感動させました。

荒川・安藤・浅田さんらは,各国の選手と比べても,優るとも劣らない,美しい容姿の持ち主です。

いっぽう,外国の選手を見ても,
クリスティ・ヤマグチ(日系アメリカ人,1971-)は,1992アルベールビル・オリンピックで金メダル,1991ミュンヘン,1992オークランドの両世界選手権で金メダルを取っています。

ミッシェル・クワン(中国系アメリカ人,1980-)は,1996エドモントン,1998ミネアポリス,2000ニース,2001バンクーバ,2003ワシントンDCの5回の世界選手権で金メダルを取りながら,オリンピックでは1998長野銀メダル,2002ソルトレーク銅メダルと結果が出ませんでした。

金妍児(キム・ヨナ,韓国,1990-)は2009ロサンゼルス,2013ロンドンの世界選手権で金メダル,五輪ではバンクーバー金メダルソチ銀メダルでした。
浅田と同年齢でジュニアの時代から競い合い,最終的に競い勝ったといえるのかもしれません。

男子でも
パトリック・チャン(中国系カナダ人,1990-)は2011モスクワ,2012ニース,2013ロンドンの3回の世界選手権で金メダルを取りましたが,2014ソチ五輪では銀メダルに終わりました。

もちろん
羽生結弦(はにゅう・ゆづる,1994-)が2014ソチ金メダルに輝いたのは記憶に新しいことです。

このように,日本を含む東アジアの人々が,このような結果を残しているということは,何か特別な理由があるのか,考察してみるのも面白いかもしれません。

ひとつには,東洋人特有の繊細さが生かされるスポーツなのかもしれません。
また,一つ一つの技術を時間をかけてコツコツ積み重ねて完成度を高めてゆく必要があるので,我慢強い忍耐力が求められ,それらの気質を民族的に有しているのかもしれません。

さて,女子体操やフィギュアスケートに共通する素養はなんでしょうか?

それはバレエです。
スイスのローザンヌ国際バレエコンクールは若手の登竜門として有名ですが,数々の日本人受賞者がいます。

1983 吉田都(1865-)スカラーシップ賞 ロイヤルバレエ団 元プリンシパル
1989 熊川哲也(1972-) 最優秀特別賞 ロイヤルバレエ団 元プリンシパル Kバレエ・カンパニー主宰
2000 鍛冶屋百合子(1984-) スカラーシップ賞 ヒューストン・バレエ団 ファースト・ソリスト
2001 倉永美沙(1987-) プロ研修賞 ボストン・バレエ団 プリンシパル
2012 菅井円加(1994-) プロ研修賞,コンテンポラリー賞1位 ドイツのナショナル・ユース・バレエ団
2014 二山治雄(1996-) スカラーシップ賞1位 サンフランシスコ・バレエ学校・留学予定

そのほか,今年2014年にはアメリカのジャクソン国際バレエコンクールのシニア部門で金賞の加瀬栞(1992-)や,ブルガリアのヴァルナ国際バレエコンクールのシニアとジュニア両部門でも日本人を母とするハーフの人たちが銀賞を取っています。

今後活躍が大いに期待される新進気鋭の菅井円加さんが2012年のローザンヌ国際バレエコンクールのコンテンポラリー部門でグランプリを取ったときの映像です。
現代のバレエはクラシックコンテンポラリ―に分かれており,今やヨーロッパのバレエでは自由な表現が許されるコンテンポラリーに重心が寄っています。

もちろん,バレエ・ダンサーアスリートではありませんが,バレエは身体全体を使った究極の踊りであり,いろいろな踊りやスポーツの原点となっています。

たとえば,
フィギュアスケートでは,スピードを出して滑ってきて,その勢いを利用して4回転しますが,
バレエでは,垂直に自力でジャンプして4回転して降りるダンサーがいくらでもいます。

いずれにせよ,
日本人女性が世界中で美しく,そして健気に活躍する姿を見たり,聞いたりするのは,とてもうれしいことです。