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ことわざの世界

古くから人々に言い習わされきた,教訓や風刺を内容とする言葉があり,ことわざ(諺)と呼ばれています。

英語では “proverb” と言い,比較して覚えておくと何かと便利です。
よく使うものをいくつか列挙しますと,

  1. A bad carpenter quarrels with his tools.
    弘法は筆を選ばず
  2. A miss is as good as a mile.
    五十歩百歩
  3. After a storm comes a calm.
    雨降って地固まる
  4. Age and experience teach wisdom./Years bring wisdom.
    亀の甲より年の功
  5. Bread is better than the songs of birds.
    花より団子
  6. Even Homer sometimes nods.
    弘法も筆の誤り/猿も木から落ちる/河童の川流れ
  7. Everything is good in its season.
    鬼も十八番茶も出花
  8. First come, first served./Take the lead, and you will win.
    先んずれば人を制す
  9. He that falls today may rise tomorrow.
    七転び八起き
  10. History repeats itself.
    歴史は繰り返す
  11. It is no use crying over spilt milk.
    覆水盆にかえらず
  12. It is not necessary to teach a fish to swim.
    釈迦に説法
  13. Laugh and get fat.
    笑う門には福来たる
  14. Less is more.
    過ぎたるはなお及ばざるがごとし
  15. One good turn deserves another.
    情けは人のためならず
  16. Out of sight, out of mind.
    去る者は日々にうとし
  17. The early bird catches the worm.
    早起きは三文の得
  18. To see is to believe./ Seeing is believing.
    百聞は一見にしかず
  19. We never meet without a parting.
    逢うは別れの始め

ローマ三部作(自選)と言われるものがあります。

  1. All roads lead to Rome.
    すべての道はローマに通ず
  2. Do in Rome as the Romans do.
    郷に入っては郷に従え
  3. Rome was not built in a day.
    ローマは一日にしてならず

また,アシックスというスポーツ用品の会社がありますが,その由来は

Anima Sana in Corpore Sano.

というラテン語から来ており,その意味は

A sound mind in a sound body.
健全なる精神は健全なる身体に(宿る)

で,頭文字をつなげて ASICS としています。
良いネーミングですね。
開業(1949)当初はオニツカ(鬼塚)タイガーという創業者の名にちなんだ商標で,バスケットボール・シューズに特化した堅実な事業で,私も愛用したものでした。

ところで,毎日新聞(7/19朝刊)の世論調査で,安倍内閣の支持率は35%(ー9%),不支持率は51%(+8%),そして安保法案の強行採決に対して「問題だ」とする回答は68%になりました。

この歴史的な蛮行に対して,最も有効な対応策は,次の国政選挙である来年の参議院選挙で,自民党政権に対して「No!」という意志を突き付けることです。
しっかり,この気持ちを忘れずに,選挙には必ず投票に行きましょう。

ながながと書き連ねてきましたが,

Speech is silver, silence is gold.
雄弁は銀、沈黙は金

という格言もあることなので,このへんで・・・

ミュージカルは楽しい

このごろ世間に流行るお笑い芸人といえば,

● クマムシ「あったかいんだからぁ
● どぶろっく「もしかしてだけど」
● テツandトモ「なんでだろう

いずれも歌入りで,それぞれにキャッチフレーズがあり,それにそこそこ音楽性もあるというのが面白いところです。

昔の音曲芸人といえば,独自のテーマソングで始まりました。

横山ホットブラザーズ(アキラ・マコト・セツオ,1936-)
「明るく笑ってリズムショー 楽しく唄ってリズムショー 仲良く陽気に奏でるホットブラザーズ」(初期のもの)

かしまし娘(正司歌江・照江・花江,1948-)
「ウチら陽気なかしまし娘 誰が言ったか知らないが 女三人寄ったら かしましいとは愉快だね。ベリ-グッド ベリ-グッド お笑いお喋りミュージック 明るく歌ってナイトアンドディ ピーチクパーチクかしましい」

いずれも兄弟姉妹でトリオ,というのが面白いですね。
横山さんのところは,最初は父親の東六さんが創めて,紆余曲折を経て,現在の兄弟トリオになっています。

これらの原点はなんといってもオペラミュージカルでしょうね。
ところでオペラとミュージカルの違いはなんでしょうか?

オペラはヨーロッパで発生したクラシック音楽であり,ミュージカルはアメリカで発展したポピュラー音楽です。

オペラでは歌もオーケストラも生ですが,ミュージカルでは音楽は全てマイクを使いPA(Public Address System,拡声装置)を通してスピーカからの音を聴くことになります。

大きな違いは歌唱です。オペラでは歌・歌唱がもっとも重要な要素で,肉声を使うため,ベルカント(美しい歌唱の意)唱法という特別な発声法を訓練する必要があります。

ミュージカルでは舞踊(ダンス)も重要な要素で,歌手が歌いながら踊るのが基本ですが,オペラでは歌手は歌のみで,舞踊が必要な場合はバレエダンサーが踊ります。

ガーシュウィン(98-37)作曲『ポギーとベス』(1935)はアメリカのオペラに分類されていますが,ミュージカルの先駆的な作品でもあります。出演者全員が黒人というのも特別です。
劇中で歌われるヘイワード・詞「サマータイム」はポピュラーソングのスタンダードナンバーになっています。

ミュージカルの名作はそれこそたくさんありますが,独断で挙げる三大ミュージカルは,

●『マイ・フェア・レディ』(1956,映画化64)
●『ウエスト・サイド物語』(1957,映画化61)
●「サウンド・オブ・ミュージック」(1959,映画化65)

いずれも50年代にブロードウェイ公演から,60年代に映画化され,世界的な大ヒット作品となりました。
もちろん映画は全作見ましたし,前2作はアメリカ人公演の舞台を日本で見ましたし,楽譜も全作持っています。
映画を観る前に,楽譜を見て曲を覚えて,映画を観ながら歌を口ずさんだことを覚えています。

今回は『マイ・フェア・レディ(My Fair Lady)』を取り上げます。

原作は英国のジョージ・バーナード・ショー(1856-1950)戯曲『ピグマリオン(Pygmalion)』(1912)ですが,彼はミュージカルには否定的だったため,存命中は上演できませんでした。

しかし,ショーの「ピグマリオン」も,ギリシャ神話のキプロス島の王ピグマリオンが,理想の女性ガラテアを彫刻し,その女像に恋するようになり,女神アフロディテがそれに生命を与えて妻とさせた,という話が元になっています。

ミュージカル化は,作詞・脚本:アラン・ジェイ・ラーナー,作曲:フレデリック・ロウで,ブロードウェイ上演では56.3~62.9の6年6か月のロングランとなりました。
初演ではジュリ・ーアンドリュース(35-)がヒロインを務めました。

映画化(64)ではオードリー・ヘプバーン(29-93)が主演しましたが,歌唱はマーニ・ニクソン(30-)の吹替えです。
ジュリー・アンドリュースに主演させなかったのは残念だ,という人たちが大勢います。
じつは,1965年のアカデミー賞で,『メリー・ポピンズ』のジュリー・アンドリュースが主演女優賞を取り,『マイ・フェア・レディ』で取れなかったオードリー・ヘプバーンが大いに悔しがった,という逸話が残っています。

あらすじは,ロンドン下町の花売り娘イライザを,言語学者ヒギンズ教授とピカリング大佐の賭けで,粗野で下品な言葉をつかう娘を淑女(レディ)に仕立て上げる,という物語です。
もちろん,ヒギンズはキプロス王のように,自分で造り上げたはずの女性イライザのとりこになってしまうのです。

コックニー(Cockney)と呼ばれるロンドン訛りでは,エイ[eɪ]とすべき発音がアイ[aɪ]になり,たとえばデイ day をダイ[daɪ]と発音します。
それを矯正するために” The Rain in Spain “「スペインの雨」では,

The rain in Spain stays mainly in the plain
スペインの雨は主に平野に降ります

という陳腐なセリフを反復練習させ,正しいエイ[eɪ]の発音を覚えさせようとします。

オーストラリア方言でも同じような傾向があり,コックニーの人たちが移民していったのではないか,と想像しています。

また「My Fair Lady」のタイトルは「Mayfair Ladyメイフェア・レディ)」をコックニー訛りで発音して「マイフェア・レディ」とした,という裏話があります。
メイフェアは,昔は閑静な住宅地で,今は高級店舗が並ぶロンドンの地区の名前です。

『マイ・フェア・レディ』では名曲がいろいろあり,

●” Wouldn’t It Be Lovely “「素敵じゃない?
●” With a Little Bit of Luck “「運がよけりゃ」
●” I Could Have Danced All Night “「踊りあかそう
●” On the Street Where You Live”「君住む街角」
●” Get Me to the Church on Time“「時間通りに教会へ

今回は,マイ・フェア・レディの代表曲といっていい,この歌にしましょう。

I Could Have Danced All Night “『踊りあかそう
作詞・アラン・ジェイ・ラーナー(Alan Joy Lerner)
作曲・フレデリック・ロウ(Frederick Loewe)
歌唱・マーニ・ニクソン(Marni Nixon)

Bed! Bed! I couldn’t go to bed!
My head’s too light to try to set it down!
Sleep! Sleep! I couldn’t sleep tonight!
Not for all the jewels in the crown!

I could have danced all night
I could have danced all night
And still have begged for more
I could have spread my wings
And done a thousand things
I’ve never done before

I’ll never know what made it so exciting
Why all at once my heart took flight

I only know when he began to dance with me
I could have danced, danced, danced, All night!

ベッド!ベッド!ベッドになんて行けないわ!
頭が冴えすぎているわ
このまま落ち着けようなんて無理なの!
寝る!寝る!今夜は眠れないわ!
この冠の宝石たちのせいじゃないのよ!

一晩中だって踊れたわ
一晩中だって踊れたのよ
さらにそれ以上をお願いできるぐらいだったの
翼を広げることすらできたかもね
そして1000の事をやっていたかも
今までやったことのない事を

決して知りえないでしょうね
何がこれほど興奮させるのかなんて
どうして全てが突然に 私の心は飛び立ったの

分かることは,彼が私とダンスを始めた時だけ
踊れるわ 踊る,踊る 一晩中だってね!

前述の「スペインの雨」を真夜中3時までヘトヘトニなるまで練習して,やっと「エイ」が発音できるようになって,喜んだ3人(イライザ,ヒギンズ,ピカリング)が興奮して踊り出すシーンがあって後にこの歌になります。
一晩中でも踊っていたい,という高揚感は,聴いているこちらもウキウキしますね。

この作品の登場人物で,イライザの父で飲んだくれのドゥーリトルを舞台と映画の両方で演じたスタンリー・ホロウェイが,歌も踊りも演技も出色でした。「運がよけりゃ」や「時間通りに教会へ」など,観ていて聴いていて,こちらもつられて踊り出しそうになります。

時は新緑あふれる5月,何をするにも良い季節です。
7月に勝るとも劣らない強力な紫外線による日焼けには気を付けて,大いに楽しんでください。

歴史に学ぶ

時代劇,けっこう好きです。
しかし,最近の立ち回り(チャンバラ・シーン)はやけに派手ですが,役者の腰が据わっていなくて,緊迫感が伝わってこないのが残念です。

好ましいと思うところは,立ち居振る舞いや言葉づかいです。
長幼の序(大人と子供,年上と年下の秩序)をわきまえて敬語が適切に使われているのが良いですね。
分りやすい,との配慮からか,「ありがとう」とか「すみません」などの現代語が使われると,興ざめで見る気をなくします。

歴史小説時代小説も好きです。
この区別として,歴史小説は,歴史上に実在した人物が大筋は史実に基づいて進行しますが,時代小説は,架空の人物か実在の実物でも史実とは異なった自由な展開をするものです。

現在,NHKの大河ドラマでは「花燃ゆ」で,吉田松陰の妹・(ふみ)を主人公にした歴史ドラマですが,視聴率が芳しくないらしく,主役の井上真央が謝罪するというおかしな展開になっています。
不人気とすれば,それは役者のせいではなくて,おもに脚本プロデューサー(製作者)のせいです。
激動の時代を,今までとは違った角度で描いていて,私は興味深く見ています。

たとえば,
池波正太郎鬼平犯科帳』の長谷川平蔵は,これまで4人の役者が演じています。

松本幸四郎  69.10-70.12,71.10-72.3
丹波哲郎   75.4-75.9
萬屋錦之助  80.4-82.10
中村吉右衛門 89.7-

まったくの独断ですが,圧倒的に吉右衛門の平蔵がおもしろいですね。
密偵の一人一人まで登場人物の性格描写がていねいです。
とくに相模の彦十役は,江戸家猫八(21-01)をおいて,他に人なし,の感があります。
ちなみに長谷川平蔵は実在の火付盗賊改方の長官ですが,これは歴史小説とはいわず,池波が創作した時代小説です。

幕末以後の日本の歴史を「近代史」といいますが,歴史として学校ではあまり教えないですね。

岸信介(96-87)は安倍晋三首相の母方の祖父です。
昭和の妖怪」と言われた人です。

弐キ参スケ(2き3すけ)」と称された満州国(32-45)に影響を与えた軍・財・官の5人の1人です。
また,鮎川・岸・松岡は満洲三角同盟とも言われました。
5人全員が,第二次世界大戦後にA級戦犯の容疑者として逮捕され,東京裁判で右の判決が出ました。

東條英樹(ひでキ) 関東軍参謀長    死刑
星野直樹(なおキ) 国務院総務長官   終身刑(後に釈放) 鮎川義介(よしスケ)満洲重工業開発・社長 不起訴
岸信介 (のぶスケ)総務庁次長     不起訴
松岡洋右(ようスケ)満鉄・総裁     公判中に病死

岸信介は元A級戦犯でありながら総理大臣(57-60)になり,日米安保条約の改定をめぐって,国民的な反対にあい,条約批准後に混乱の責任を取って退任します。
90歳で死去しますが,晩年まで政界に影響力を行使しました。

安倍晋太郎(24-91)は毎日新聞社に勤務後,政治家に転身,岸の長女・洋子と結婚し,ニューリーダーと称されますが,自民党総裁になる直前に,すい臓ガンになり,67歳で病没します。

晋太郎の次男・晋三は,温和な父よりも大物であった祖父の影響を強く意識しており,「自主憲法」の制定に意欲を示しています。

平和」維持のための武力行使,という矛盾する旗印で,平和憲法をないがしろにしようとしています。

アドルフ・ヒトラー(89-45)は独裁者といわれていますが,最初から権力を持っていたわけではなくて,むしろ24歳くらいまでは無能で学校へも順応できず(卒業は小学校のみ),徐々にのし上がって独裁者の地位を確保しました。
もっと早い段階で,ヒトラーの異常さに気が付いて,ストップをかけていたら,あんな悲惨な悲劇は起こらなかったのです。

とくに権力を持った人の異常行動は細大漏らさずに監視して,おかしな方法へ向かわないようにすべきなのです。

集団的自衛権の拡大や,原子力発電の縮小を口では唱えながら実質推進している不安状況は,見過ごしてはならない,危険サインです。

ところで,
立春(今年は2月4日)から数えて88日目は八十八夜(5月2日)といって,播種(はしゅ,たねまき)の適期とされ,茶どころでは茶摘みの最盛期となります。

また,
この時季はゴールデン・ウィーク(GW,和製英語)と呼ばれ,5月4日が「みどりの日」(2007年から,それまでは4月29日)が祝日になったので,4月29日の「昭和の日」から5月5日の「こどもの日」さらに5月3日の「憲法記念日」の振替えで5月6日までをGWといいます。
なにしろ,年間15日の国民の祝日のうち,じつに4日間もここに集中しているのですから,楽しんでください。

そして「憲法記念日」には,平和憲法の主旨を改めて考えてみましょう。

この時季の歌は,子供の日にちなんで,この曲にしましょう。


背くらべ海野厚・作詞 中山晋平・作曲(1919)

柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
ちまきたべたべ 兄さんが
計ってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何のこと
やっと羽織の 紐のたけ

柱にもたれりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
でんでに背伸び していても
雪の帽子を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山

海野厚(96-25)静岡県出身,童作詞家・俳人,本名:厚一,代表作は「おもちゃのマーチ」(小田島樹人・曲)など。

中山晋平(87-52)長野県出身の作曲家,童謡・流行歌・新民謡など多くの作品があり,代表作は「砂山(北原白秋・詞)」「船頭小唄(野口雨情・詞)」「波浮の港(野口雨情・詞)」「東京行進曲(西条八十・詞)」など多数。

この時季はとても過ごしやすい頃です。
しかし,紫外線はすでに強いですから注意して外出しましょう。
花粉の飛散は少なくなってきましたが,花粉症が楽になってきたら,ぜひ「舌下免疫療法」を試して,少しでも楽になる方向に進んでください。

青春とは

むかし,「青春とはなんだ」というTVの学園ドラマ(65-66)がありました。
夏木陽介の主演,石原慎太郎の原作,主題歌・挿入歌は岩谷時子・詞,いずみたく・曲,布施明・歌で,ラグビーを通じて心の交流や人間教育を実現してゆくという,よくあるパターンのドラマでした。これは,その後「これが青春だ」「でっかい太陽」「燃えろ!太陽」とシリーズ化してゆきます。

このような場合,ラグビーという競技はまことに都合がよく,泥んこになって乱闘するという,極めて分りやすいシーンが展開できますから。

ラグビーの精神として

One for all,  All for one
(一人は皆のために,皆は一人のために)

がよく言われていますが,それは日本だけのことで,
もともとはアレキサンドル・デュマ(大デュマ)の『三銃士』(1844)のなかで三銃士が剣をあわせて誓う言葉として登場しました。(原典 un pour tous, tous pour un“)

ところで,四季と方位には四神と色が割り当てられており,

春  東  青竜  青
夏  南  朱雀  朱(赤)
秋  西  白虎  白
冬  北  玄武  玄(黒)

つまり,青春朱夏白秋玄冬というわけです。

さて,日本の三大青春文学,純愛小説というべき作品は

伊藤佐千夫野菊の墓』(1906)
15歳の少年・斎藤政夫と2歳年上の従姉・民子との淡い恋を描きます。夏目漱石より「自然で,淡泊で,可哀想で,美しくて,野趣があって(中略)あんな小説ならば何百編よんでもよろしい」との評価を受けます。
民さんは野菊のような人だ。僕は野菊が大好き」という政夫のセリフは絶妙です。

川端康成伊豆の踊子』(1926)
19歳の川端が伊豆に旅した時の実体験を元にしている短編です。孤独や憂鬱な気分から逃れるために伊豆へ一人旅に出た青年が,旅芸人一座と道連れとなり,踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。孤児根性に歪んでいた青年の自我の悩みや感傷が,素朴で清純無垢な踊子の心によって解きほぐされていく過程と,彼女との悲しい別れまでが描かれています。

三島由紀夫潮騒』(1954)
伊勢湾に浮かぶ歌島(神島)を舞台に,若く純朴な漁夫・久保新治と海女・初江が,いくつもの障害や困難を乗り越え,恋愛が成就するまでを描いた物語。
雨の降る休漁日に初江と待ち合わせの約束をした新治は,先に到着し,初江を待っていたが,焚き火に暖められるうちに眠ってしまう。ふと目が覚めて気が付くと,初江が肌着を脱いで乾かしているのが見えた。裸を見られた初江は,新治にも裸になるように言う。裸になった新治に,さらに「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」と言った。火を飛び越した新治と初江は裸のまま抱き合うが,初江の「今はいかん。私,あんたの嫁さんになることに決めたもの」という誓いと,新治の道徳に対する敬虔さから二人は衝動を抑えた。
よく登場するシーンですが,今はこういう風にはいきません。

いま読み返しても,甘酸っぱい青春時代の思い出がよみがえるようです。
これらは,それぞれの時代のアイドルたちによって何度も映画化されています。

4月1日は入学式の日です。
今回の歌はこの楽しい曲にしましょうか。

一ねんせいになったらまどみちお・作詞 山本直純・作曲

一ねんせいに なったら
一ねんせいに なったら
ともだち ひゃくにん できるかな
ひゃくにんで たべたいな
ふじさんのうえで おにぎりを
ぱっくん ぱっくん ぱっくんと

一ねんせいに なったら
一ねんせいに なったら
ともだち ひゃくにん できるかな
ひゃくにんで かけたいな
にっぽんじゅうを ひとまわり
どっしん どっしん どっしんと

一ねんせいに なったら
一ねんせいに なったら
 ともだち ひゃくにん できるかな
ひゃくにんで わらいたい
せかいじゅうを ふるわせて
わっはは わっはは わっはっは

まどさんについては,下記に詳しく述べています。
2014年5月29日付「まどさんを偲ぶ」
をクリックしてみてください。

どうです,春にふさわしい,とても楽しい歌でしょう。
やはり入学式は桜のしたで,春にかぎります。

名人上手

3月19日に桂米朝さんがお亡くなりになりました。享年89歳。
翌朝の新聞では,全国紙からスポーツ紙にいたるまで,こぞって1面のトップ記事で伝えました。亡くなってから偉大さがわかる,というものです。
追悼文で「知的でハンサム,上品で博学」と表現した人がいましたが,芸風・人柄・存在感がそのとおりでした。

桜餅 一つ残して 帰りけり    八十八(やそはち)

八十八とは米の字を分解した米朝さんの俳号です。
私のブログでも,
2014年12月20日付「落語とわたしと」
のなかでいろいろと書いておりますので,ご興味のある方はクリックしてみてください。

昔からいろいろな人が亡くなるときに辞世の和歌・俳句を詠んでいます。(米朝さんのは辞世の句ではありません,念のため)

願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ
西行
つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを
在原業平
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢
豊臣秀吉
風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん
浅野長矩(内匠頭)
あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
大石良雄(内蔵助)
此の世をば どりゃお暇に せん香の 煙とともに 灰左様なら
十返舎一九
昨日まで人のことかと思いしが俺が死ぬのかこれはたまらん
太田蜀山人
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
吉田松陰

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる   松尾芭蕉
おもしろきこともなき世をおもしろく 高杉晋作
人魂で行く気散じや夏野原      葛飾北斎
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな     正岡子規
行列の行きつく果ては餓鬼地獄    荻原朔太郎

名人とは,技芸にすぐれて名のある人,ということです。
米朝さんは重要無形文化財保持者(人間国宝)ですから,当然,落語の名人といってよいでしょう。

名人のもともとは,囲碁・将棋から来ています。
名人の最初は,織田信長本因坊算砂(日海)に「そちはまことの名人なり」とほめたことが起源とされます。
ちなみに,本因坊とは囲碁の家系の一つで,昭和になって本因坊秀哉が引退するときに日本棋院に名跡を譲渡し,以後タイトルとなりました。

世襲制・推挙制であった名人位を,大正になって十三世名人関根金次郎が実力制名人戦を提案したことから,名人位はタイトルになりました。
ちなみに,関根金次郎といえば,王将で有名な大阪の坂田三吉と何度も対局したことでも有名です。

囲碁のタイトルは,本因坊・王座・名人・十段・天元・棋聖・碁聖の7つで,井山祐太は2013年に棋聖を除く六冠を取りました。
井山祐太(89.5.24-)は東大阪市の出身,石井邦生九段の門下,ネットを通じて師匠と1000局を超える対局をして実力を高めたことで話題になり,夫人は将棋女流棋士の室田伊緒二段で生年月日が同じです。現在は,棋聖・名人・本因坊・碁聖の4冠。

将棋のタイトルは,名人・棋聖・王位・王座・竜王・王将・棋王の7つです。
羽生義治(70.9.27-)は現在,名人・王位・王座・棋聖の4冠を達成しています。
1995-96に7冠独占を達成し,維持したのは167日間でした。
すでに,永世の称号を6つも持っており,十九世名人・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世棋聖・永世王将で,いずれも引退後に襲名することになっています。

ところで,名人のことを英語ではマスター(master),ドイツ語でマイスター(Meister),イタリア語でマエストロ(maestro)といいます。

マスターというと,喫茶店の店主のようで軽く聞こえますが,学位の修士はマスター(Master)といいます。

マイスターといえば,いかにも熟達した職人の感じがして,ドイツ人の技を大切にする伝統が生き続けています。
マイスタージンガー(Meistersinger,職匠歌手)という言葉を聞かれたことはありますか? ワーグナー作曲の楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は有名です。
ドイツでは大学へは無料で行けますが,誰もが行くわけではなくて,一方ではマイスターを目指す若者も多いのです。

指揮者のことを万国共通で,マエストロと呼びますが,カール・ベームという著名なドイツ人の指揮者が来日したとき,「マエストロ」と呼びかけたところ,「ドクターと呼んでください,若い頃,頑張って取得したのですから」と言いました。グラーツ大学で法学博士の称号を得ています。
ドクター(Doctor,Dr)とは学位の最高位で「博士」を指します。
ちなみに,学士バッチェラー(Bachelor)と言います。じつは「独身の男子」のことも,bachelor というのです。

いよいよ桜の季節です。
ある気象予報士のデータによると,2月からの1日の平均気温の積算値が400℃を超える頃に桜が開花するそうです。
今年は短い周期で暖かい日と寒い日が大きく変動する春でしたが,今週末には桜の開花が見られそうです。

桜の歌はたくさんありますが,なんといってもこの曲に尽きるでしょう。


』 武島羽衣・作詞 滝廉太郎・作曲(1900)

春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂(かひ)のしづくも 花と散る
ながめを何に たとふべき

見ずやあけぼの 露浴びて
われにもの言ふ 桜木を
見ずや夕ぐれ 手をのべて
われさしまねく 青柳(あおやぎ)を

錦おりなす 長堤(ちょうてい)に
くるればのぼる おぼろ月
げに一刻も 千金の
ながめを何に たとふべき

武島羽衣(72-67)は東京出身の詩人・作詞家・国文学者,「美しき天然」(田中穂積・曲)など,享年94歳。

滝廉太郎(79-03)は東京出身の作曲家,東京音楽学校卒,ライプツィヒ音楽院に留学するも結核発症のため1年で帰国,代表作は「荒城の月」(土井晩翠・詞),「箱根八里」(鳥居忱(まこと)・詞)など,享年23歳。

』は日本最初の合唱曲で,ピアノ伴奏付きの女声二部合唱か女声二重唱で歌われます。
滝さんは早逝されましたが,すばらしい楽曲を残されました。

たんに「花」といえば桜をさし,ソメイヨシノ・ヤマザクラ・サトザクラ・ヒガンザクラなど種類も多く,日本の国花です。

桜が咲けば,本格的な春です。
夜桜の下で深酒して風邪などひかぬ程度に楽しんでください。

先生というもの

夜の盛り場で,道行く人たちに客引きが呼びかけるときに,

「社長!」か「先生!」

と言っとけば,客は嫌な顔をしない,ということを聞いたことがあります。

私が初めて「先生」と呼ばれたのは,大学に入って,家庭教師として生徒のお宅へ出向いたときでした。
なんとなく,偉くなったような気がしたのは,まさに若気の至りとでも申しましょうか。

先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし

と川柳にもあるように,先生と呼ばれていい気になっていても呼んだ方は特別に尊敬しているわけでもないし,乗せられて得意になるものではない,というような意味です。

先生」と呼ばれる人には,真に尊敬に値する先生と呼ばれるにふさわしい人と,とりあえず先生と呼んでいるだけ(本人は呼ばれて嬉しがっているが)の人,の2種類があります。

後者は代議士,弁護士,小説家など,そして最近増えてきた各種の指導者たちです。

いずれにしても,日本人,とくに女性は簡単に「先生」を連発する傾向にあります。

弟子を見るとその先生が素晴らしかったかどうかが分ります。

まずは,江戸末期の緒方洪庵(1810-1863)は大坂に適々斎塾(適塾)を開き,もともと蘭学塾でしたが,

福澤諭吉(1835-1901)慶応義塾の創設,学問のすゝめ・著

大村益次郎(村田蔵六,1824-1869)長州の医師,兵学者

などの維新で活躍する多くの人材を育てました。

明治政府のいわゆる「お雇い外国人」として W. S. クラーク(26-86)は札幌農学校の教頭として1877年に赴任,1年足らずの滞在でしたが,帰国後も影響力は生き残り,

新島襄(43-90)米アマースト大学で受講,同志社の創設

内村鑑三(61-30)農学校2期生,クラークと入違い,宗教家

新渡戸稲造(62-33)内村と同級生,教育家,5千円札の肖像

その後の日本に大きな影響を与える人材を輩出しました。

” Boys, be anbitious like this old man. “

という言葉を残したことでも有名ですが,「この老人(自分)のように,あなたたち若い人も野心的であれ」というような意味です。

明治期にたくさんの外国人が教師として雇われましたが,彼らはほとんどみんな良い印象をもって帰ったと言われています。
それは日本人の若者たちはみな礼儀正しく,勉強熱心で,教師を尊敬し,日本の発展に役に立ちたいという志を持っていましたから,必然的に教師たちも熱心にならざるを得なかったし,「今は遅れているが将来発展するのは間違いない」,日本を馬鹿にはできない,特別に優秀な民族である,と感じて帰ったといわれています。
日本が他の後進国のように植民地にならなかったのは,これら外国人の帰国後の発言が影響したとも言われています。

われわれ現代の日本人も140年前の大先輩たちに負けないように誇りをもって毅然として外国人と付き合って行きたいものです。

じつは,
私もある開発途上国へ国際協力の一環として,ある大学に専門教育するために赴任したことがあるのです。
クラークさんは1年足らずでしたが,私は2年間でしたから,少しは役に立てるのでは,と内心期待して赴きました。
しかし,着任早々,完膚なきまでにその思いは裏切られました。
学生たちに全くと言ってよいほど,学習意欲というものがないのです。
ある大学院生に,「私のような日本人に指導を受ける機会は今後もそうないと思うので,もう少しちゃんと出席して学習すればどうですか」と言ってみたのですが,
なんと,その学生は「私には妻や子がいるので,働かなくてはいけない。卒業証書は金で買う」と言ってのけたのです。

その国は独立後15年,独裁政権が続き,カネとコネが優先する社会で,勉強しても良い就職先はないし,教師すら学生からカネを取って単位を与えたり,成績を上げたりするので,若者たちに前向きな意欲というものが生まれないのでした。

また,言い訳に,「まだ独立して15年しか経ちませんから」というセリフをよく耳にしましたが,日本では,黒船が来航して15年で明治維新,敗戦後15年で所得倍増計画が出されました。(実質国民所得は7年で倍増が達成されました)

残念ながら,そういう国では20年,30年たっても発展するのは難しい,と感じました。

さて,
ちょっと意外な先生たちの話をしましょうか。
自分たちのことを「先生」「先生」と呼び合うのです。若くてまだ未熟に見える人に対しても「先生」と呼びかけます。

それは,「社交ダンス」教室の「先生」たちです。
英語では社交ダンスを Social Dance とは言わず,Ballroom Dance と言います。Ballroom(ボールルーム)とは舞踏室のことを指します。

欧米では社交ダンスは教養の一つとなっていて,学校で習うそうです。

ノーベル賞授賞式の晩餐会では,ディナー後の大舞踏会で自由に踊ることができます。確か,江崎玲於奈(1925-)さんは転んで骨折したはずです。

また,テニスのウインブルドン大会後のパーティでは,男女シングルスのチャンピオン同士でペアを組んで踊ることが恒例になっていました。(現在はやらなくなったようです)

ところが,日本では,鹿鳴館時代に外交政策上の必要性から導入されましたが,本格的に一般の人が踊り出すのは第2次世界大戦後に進駐軍向けにダンスホールがたくさん開かれるようになってからです。
しかし問題は,風俗営業法でダンスを規制してきたことです。
最近1998年,改正されましたが,指定された教師がいる場合にのみ法律が適法外になるというおかしなものになっています。

オーストリアのウィーンでは大舞踏会が1月から3月にかけて幾つも開催され,みんな正装して,それこそ夜を徹して踊りあかします。
もっとも有名なのはウィーン国立歌劇場で行なわれる大舞踏会(オーパンバル,Opernball)ですが,デビュタント(debutant,初舞台の人)として,17~24歳の男女150組300人がオーディションで選出され,一生に一度しか出られない特別の舞踏会です。

それで,「先生」の話に戻りますが,日本の「社交ダンス」教室の教師たちは,風営法で規制されるダンスを,もっと世界基準の高尚な芸術の一つという認識に変えてもらうために,自ら「先生」と呼び合って意識を高めているのではないか,と思っています。

日本のこの時期は卒業式のシーズンです。
かずある卒業式で歌われる歌のうち,もっとも伝統的で,感動的なのがこの曲です。
歌詞が難しいので歌われなくなってきたそうですが,名曲です。

仰げば尊し』作詞・作曲者不詳(1884)小学唱歌集(三)

仰げば 尊し 我が師の恩
教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
今こそ 別れめ いざさらば

互(たがい)に睦(むつみ)し 日ごろの恩
別(わか)るる後(のち)にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば

朝夕 馴(な)れにし 学びの窓
蛍の灯火(ともしび) 積む白雪(しらゆき)
忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
今こそ 別れめ いざさらば

ここに,「今こそ別れめ」の「め」は,意志・決意を表す古語の助動詞「む」の已然形(いぜんけい),つまり「こそ」と呼応した係り結びで,「今まさに別れよう」というような意味で,決して「別れ目」ではないことに注意してください。

また,ながらく作者不詳となっていましたが,最近2011年,アメリカの楽曲に ” Song for the Close of School ” があり,それが原曲であることが示されました。しかし,歌詞は訳詞ではないので,「仰げば尊し」に至る経緯の詳細はわかりません。

現代では次の曲が卒業シーズンの歌として人気が高いそうです。

卒業写真荒井(松任谷)由実・作詞作曲(1975)

かなしいことがあると 開く革の表紙
卒業写真のあの人は やさしい目をしている
町で見かけたとき 何も言えなかった
卒業写真の面影が そのままだったから
人ごみに流されて 変わって行く私を
あなたはときどき 遠くで叱って

話しかけるように ゆれる柳の下を
通った道さえ今はもう 電車から見えるだけ
あの頃の生き方を あなたは忘れないで
あなたは私の 青春そのもの
人ごみに流されて 変わって行く私を
あなたはときどき 遠くで叱って
あなたは私の 青春そのもの

歌詞にでてくる「あの人」とは誰でしょうか?
昔の彼氏ですか?
いえいえ学校の先生です,しかも女性の美術の高校の先生です。
芸大(東京藝術大学)美術学部を目指して勉強していたユーミン(由美)を厳しく指導したのがこの先生でした。今年がダメでも来年頑張ればいいよ,と言って励ましてくれました。
この美術学部は倍率30~40倍の超難関校で,専門の予備校があり,ある経験者によると,1クラス40名で,ここで断トツで1番にならないと合格できない,と知って愕然とした,と言っていました。
結果は不合格で,親の勧めもあって,浪人はせずに多摩美術大学に入りました。その後,作曲,音楽の道に進みました。

そういう経緯を知って歌詞を見直すと,随所に腑に落ちる箇所があります。

この曲は1975年リリースのアルバム「COBALT HOUR」に収録されており,ハイ・ファイ・セットのデビュー・シングルとしても同時期の1975年に発売されています。

赤い鳥(69-74)が解散してハイ・ファイ・セット紙ふうせん(後藤・平山)になり,ハイ・ファイ・セット(74-94)が解散して,山本(新居)潤子の持ち歌になっています。

3月に卒業して,桜咲く4月に入学するという日本の伝統的な年度行事を,欧米風に9月開講に変更しようという動きがありますが,やはり従来式の方が季節感が馴染んでいて断然よいと思います。

司馬さんの思い出

2月12日は作家・司馬遼太郎さんの命日『菜の花忌』です。
国民的な歴史小説家であった司馬さんが亡くなって19年が経ちます。

改めて司馬(23-96)さんの略歴を記しますと,
本名は福田定一,大阪市の生まれ,筆名は「司馬遷に遼かに及ばない日本の者(太郎)」から来ています。
旧制・大阪外国語学校(新制・大阪外国語大学,現・大阪大学外国学部)蒙古語学科を仮卒業,学徒出陣で戦車隊に配属,栃木県佐野市で終戦を迎えます。

アメリカ軍(連合国軍)が東京に攻撃に来た場合に,栃木から東京に移動して攻撃を行なうという作戦に,
市民と兵士が混乱します。そういった場合どうすればいいのでしょうか」と,大本営からきた少佐参謀に聞いたところ,
轢(ひ)き殺してゆく」と答えたのをきき,軍隊は国民を守るための存在ではなかったのか,と疑問を持った22歳の司馬さんは,
なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう?」
いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」
昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として
22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐しています。

司馬さんの著作はたくさんあって代表作を選ぶのは難しいですが,なんといっても『龍馬がゆく』は間違いなくその一つです。
世間一般でイメージされる坂本龍馬像はこの小説で確立したといってもいいです。

最初,産経新聞の夕刊に連載(62-66)されました。
岩田専太郎(01-74)の艶のある挿絵もよかったし,毎日,学校帰りに読むのが楽しみの一つでした。
文春文庫(全8巻)になったのを再読しましたが,割愛されている部分も多く,やはり新聞の連載小説は読者の興味をつなぎとめるために,濡れ場などサービス・カットもたくさんあったのだと感じました。

菜の花忌』の由来にもなったのは長編小説『菜の花の沖』です。
江戸時代後期の廻船商人の高田屋嘉兵衛を主人公にした小説です。

嘉兵衛(1769-1827)は淡路島の貧家に生まれ,半農半漁をすて,兵庫にでて船乗りになり,苦労して船もちの廻船商人にまでなり,蝦夷・函館まで進出します。ゴローニン事件に巻き込まれ,カムチャツカに連行されますが,町人身分ながら日露交渉の間に立ち,事件解決へ導きました。
鎖国時代に外国へ行ったことは国禁を犯したことになるのですが,そのことは「お構いなし」を申し渡され,難しい国際問題の解決への「骨折り」に対して,幕府から「おほめ」があり,「ほうび」として金5両がさげわたされました。すべて異例のことです。

ゴローニン事件(ゴロヴニン事件とも表記)とは,1811年にロシアの軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン Головнин, Golovnin)が日本に抑留された事件です。
じつはこの前段階で,1807年にフヴォストロフが択捉(エトロフ)や樺太に上陸し,略奪や放火などの襲撃事件を起こしていたのです。

その後,測量目的で千島を訪れていたゴローニンが罪もないのに日本に捕えられたというわけです。

副艦長のリコルドが報復処置として,国後(クナシリ)沖で日本船の観世丸を拿捕(だほ)し,乗っていた高田屋嘉兵衛ゴローニンとの捕虜交換を画策します。

嘉兵衛カムチャツカに連行されてリコルドと同居するうちに,ロシア語も理解するようになり,信頼を得て友人としてもてなされ,ディアナ号で日本に向かう時には,船員たちからもタイショウ(大将)と敬意をもって呼ばれるようになります。

やがてディアナ号は湾口にでたとき,風の中で鳴るようにして帆を開いた。そのとき,リコルド以下すべての乗組員が甲板上に整列し,曳綱(ひきづな)を解いて離れてゆく嘉兵衛に向かい,

ウラァ,タイショウ

と,三度,叫んだ。嘉兵衛は不覚にも顔中が涙でくしゃくしゃになった。
(中略)
臨終のとき,まわりの者に,

ドウカ,タノム。ミンナデ,タイショウ,ウラァ
と喚(おら)んでくれ。

と小さな声でいった。まわりの者は何のことかわからず,不覚にも沈黙で酬(むく)いてしまった。

この小説を読んで以来,この「ウラァ」を生で聴いてみたい,とながらく思っていました。

その思いが実現したのは,
旧・ソ連のある共和国に赴任していたときのこと,あるレストランに入ったとき,10人ほどの団体が壮行会だったのでしょうか,車座で着席していました。
ほどなく,全員が立ち上がり,

ウッラー 〇〇

と三唱したのです。
その叫びは,はらわたの底に沁み渡るような声量と迫力でした。

本場ロシアの合唱を聴いたときに,とても人間の声とは思えないような音域・音量が聞こえることがありますが,声帯の違いとしか言いようのない,地鳴りするような大音声でした。

じつは,わたしの通っているスポーツジムに司馬さんの後輩たちがアルバイトでスタッフとして勤務しています。
「2月12日は何の日?」「さあ,しりません
「菜の花忌ですやん」「ナノハナキて何ですか?」
偉大な大先輩のことをもう少し知ってほしいな,と思いました。
ちなみに,この後輩たちは,ハンガリー語学科,蒙古語学科,デンマーク語学科,ペルシャ語学科の学生たちです。

昭和は遠くなりにけり
20世紀も遠くなりにけり

この季節にピッタリのあまりにも日本的なこの歌はどうでしょうか。

早春賦吉丸一昌・作詞 中田 章・作曲(1913)新作唱歌(三)

春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か

吉丸一昌(1873-1916)作詞家・文学者・教育者,東大卒,東京音楽学校(現・東京藝術大学)教授,大分県出身。

中田 章(1886-1931)作曲家・オルガニスト,東京音楽学校卒,東京音楽学校・教授,東京都出身,中田喜直は三男。

まだ寒い日が続きますが,まちがいなく春はそこまで来ていますから,もう少しの辛抱です。
風邪などひかないように注意して元気にお過ごしください。

年の始めの

年の始めのためしとて」は,唱歌「一月一日」の歌い出しで,「ためし」は「」で,決して「試し」ではありません。
年始の先例のように」というような意味です。

元旦(元日の朝)には,お屠蘇(とそ)を飲み,それぞれのお国柄の雑煮おせち料理をたべて,新年の祝儀をおこないます。

厚い新聞が届きますが,正月の新聞は読みごたえがないですね。

ほどなくとどく年賀状は,いっとき,虚礼廃止だとか,メールで済ます,などですたれた感がありましたが,年に一度の安否確認の意味もあって,なくならずに続いています。

正月が困るのは,スポーツジムも休館だし,テニスコートも開いてないし,初詣に出かけるにも混んでいるし,TV番組も似たようなものばかりで飽きるし,身体を持て余すことです。

唯一といっていいTVの楽しみは,オーストリアのウィーンから生でとどけられる,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の「ニュー・イヤー・コンサート」でしょうか。
現在では世界の40ヵ国以上に生中継されています。
ちなみに,オーストリアと日本の時差は8時間,日本が進んでいます。

会場はウィーン楽友教会(Wiener Musikverein,ヴィーナー・ムジークフェライン)の大ホールで,ホール内部の絢爛豪華な装飾とともに,その音響の素晴らしさから通称「黄金のホール」と呼ばれています。

演奏会は,マチネ(昼間の興行)のため,演奏者は燕尾服やタキシードではなく,フロックコートかモーニング,略式でもズボンはグレーの縞物です。

演目はおもにワルツポルカです。
このウィンナ・ワルツと呼ばれるクイック・ワルツは独特で,3拍子が均等間隔ではなく,2拍目がひっかかり気味に演奏され,ウィーン生まれでなければこのリズム感がとれない,などと言われたりしています。

この伝統あるコンサートでは,アンコールとして,ヨハン・シュトラウスⅡの「美しく青きドナウ」,そして最後にヨハン・シュトラウスⅠの「ラデツキー行進曲」を演奏するのがならわしとなっています。

美しく青きドナウ」の冒頭が演奏されると一旦拍手が起こり演奏を中断,指揮者およびウィーン・フィルからの新年のあいさつがあり,再び最初から演奏を始めるのもならわしです。

新年の挨拶はその年の指揮者により色々な趣向で行なわれます。
たとえば,2002年のコンサートではウィーン・フィルの楽員に縁のある国の言葉で新年の挨拶を述べるという形で行なわれ,日本語のあいさつはコンサート・マスターが日本語で(妻が日本人),指揮者の小澤征爾が中国語(満洲生まれ)であいさつしました。

最後の最後の「ラデツキー行進曲」では,小太鼓が高らかに打ち鳴らされると,観客はもう待ってましたとノリノリで手拍子で参加します。

指揮者が誰になるのかも,注目ですが,今年2015年はズービンメータが5回目の登場でした。

ズービン・メータ(1936-)さんは,インドの出身,われわれの記憶に新しいのは,
2011年3月,フィレンツェ歌劇団を率いて来日しましたが,東日本大震災に遭遇,福島原発事故の影響を危惧するフィレンツェ市長の帰国命令によって日程半ばで中止となりました。
「日本の友人たちのために何も演奏できずに去るのは悲しい」と涙しました。
2011年4月10日,多くの外国人演奏家の来日キャンセルが続くなか,東京のオペラの森公演でベートーヴェンの「第九」(管弦楽はNHK交響楽団)を渾身の演奏し,観客は熱狂的に迎え,収益は全額寄付されるチャリティコンサートでした。

2002年の指揮者は小澤征爾(1935-)さんでした。
観客席には元モデルの妻,俳優の息子たちの顔が見えました。

観客といえば,以前,久米宏「ニュース・ステーション」で夜桜中継をしていた元銀行員の姿を何度も目にしました。

一度は生で見てみたい聴いてみたいという願望はありますが,なにせ,日本からの観劇ツアーがありますが,なんと,お一人様120万円(!)からの費用では,おいそれとは行けません。
ネットから自分で座席を確保できますから,ホテルも自分で予約して,格安航空券を利用すれば,何分の一かの費用で可能なはずです。

美しく青きドナウ」(An der schönen blauen Donau)は,1866年の普墺戦争(プロイセン王国とオーストリア帝国との戦争)で大敗し,失望の底に沈んだウィーン市民を慰めるために,ヨハン・シュトラウスⅡ(1825-1899)が1867年に最初,男声合唱曲として作曲しましたが,不評のため,管弦楽曲に書き直されて,人気が出ました。オーストリアの第2の国歌といわれています。

やはり年頭は,2012年ニューイヤーコンサートでのマリス・ヤンソンス指揮の「美しく青きドナウ」にしましょう。
ヤンソンス(1943-,ラトビア)は来年2016年の指揮者にも予定されています(3回目)。

実際の観劇では見られない(と思います)バレエがTVでは見られるのが良いところですね。
この2012年は特にバレエに趣向が凝らされており,上記の踊りの舞台もベルヴェデーレ宮殿ですが,そこの絵画館に所蔵されているクリムトの「接吻」のまえで,絵から抜け出たように踊るバレエ・シーンもありました。(バレエはウィーン国立バレエ団)

さて,
松の内」とは,正月の松飾がある間の称ですが,関西では昔ながらに15日までですが,関東では7日までと短縮されています。

また,
1月7日には,正月のごちそうに疲れ気味の胃を休めるために,春の七草を入れて炊いた七草粥(ななくさがゆ)を食べる習慣があります。
ところで春の七草は,つぎの和歌で覚えます。

せり・なずな ごぎょう・はこべら
ほとけのざ すずな・すずしろ
これぞ七草

ここに,
「なずな」はペンペン草
「ごぎょう」はハハコグザ
「はこべら」はハコベ
「ほとけのざ」はコオニタビラコ
「すずな」は蕪(かぶ)
「すずしろ」は大根

さらに,
1月8日は初薬師
1月10日は十日恵比寿(えべっさん)
1月14日は四天王寺どやどや
1月18日は初観音
1月21日は初弘法(初大師)
1月24日は初地蔵若草山山焼き
1月25日は初天神
1月28日は初不動

と「初」の付く行事がめじろ押し,1月は寒いのに,何かと心急き(こころぜき)な時節なのです。
風邪など引かないよう,元気にお過ごしください。

年の瀬に楽しむ音楽

年末恒例のコンサートといえば,
ベートーヴェン交響曲第9番』(通常『第九』と略)ですね。

この発端は,
戦後の1940年代後半,オーケストラの収入が少なく,楽団員が年末年始の生活に困る状況を改善するため,演奏参加者が多くて,「必ず客が入る曲目」であった『第九』を日本交響楽団(現NHK交響楽団)が年末に演奏するようになり,それが定例となりました。
1956年に群馬交響楽団が行った群馬での成功が,全国に広まったきっかけとされています。

ズブの素人でも,けっこうみなさん合唱に参加されているようですが,そんなに簡単に歌えるような曲ではありません。
音域が広いし,周りの音は聞き取りにくいし,わたしが参加した公演では,隣の人は大きくハモル長音のところでは,なんど注意しても,いつも3度下を歌っておりました。

第4楽章で,すべての音が止まり,二拍おいて,バリトン歌手が ”O Freunde, nicht diese Töne!”「おお友よ,このような音ではない!」と歌い出しますが,学生時代,ボイストレーニングをお願いしていた先生は,「バリトンの名誉です」とおっしゃっていました。

1964年の東京オリンピックに東西ドイツが統一選手団を送ったときに,国家の代わりに『第九』が歌われました。

1998年の長野オリンピックの開会式では,世界5大陸・6カ国・7カ所で連携しての演奏が試みられました。
これは通信による遅れを調整するため,伴奏となる文化会館での演奏を各地に届けて合唱し,その映像が最終的にオリンピック・スタジアムで同期するように再送されました。

また,
通常のCDの録音時間が約74分であるのは,『第九』が1枚のCDに収まるように決められた,という説があります。
初演時の演奏時間は63分とされ,現代では70分前後が主流です。

ヨーロッパでは,
年末年始にオペレッタ(Operatte,喜歌劇)を楽しむ習慣があります。

オペレッタがオペラと違うところは,美男・美女が登場することでしょうか。
たとえば,ヴェルディ椿姫』の初演で歴史的な大失敗(蝶々夫人カルメンと共にオペラ3大失敗といわれる)をきっしますが,その原因の一つが,ヒロインのヴィオレッタが肺結核で死ぬことになっていますが,その歌手が肥満体だっため,「その体で肺結核はないやろ」と非難されたといいます。

年末には,シュトラウスⅡの『こうもり』が,年始にはレハールの『メリー・ウィドウ』が公演されるのが恒例となっています。

ヨハン・シュトラウスⅡ作曲『こうもり』(1874)の内容は,
金持ちの銀行家アイゼンシュタイン男爵は,役人を殴った罪で8日間の禁固刑になり,明朝6時には刑務所に投獄される前夜,友人のファルケ博士に誘われて「仮面舞踏会」に出かけ,そこでハンガリーの伯爵夫人に変装した妻ロザリンデに会い,妻とは気が付かず口説きだします。
ハンガリーの伯爵夫人であることを疑われれたロザリンデはハンガリー民族音楽「チャルダッシュ(csárdas)」を歌います。
刑務所長フランク,舞踏会の主宰者のロシア貴族オルロフスキー公爵,音楽教師でロザリンデの昔の恋人アルフレード,ロザリンデの小間使いアデーレなどが登場して,にぎやかに終わります。

わたしがこの作品に特別な思い入れがあるのは,
指揮の練習曲として「こうもり」序曲と「チャルダッシュ」を振った経験があるからです。

とくに「チャルダッシュ」では,全日本学生音楽コンクール2010年の声楽部門の大学・一般の部で1位になられた林佑子さんにこの歌を歌ってもらいました。
容姿端麗で美声のさんには将来さらに活躍されることを期待しています。

この「こうもり」序曲は,フィギュアスケートの鈴木明子選手がご自身も好きということで,ソチ・オリンピックのフリー・プログラムで使いましたが,途中でウィンナ・ワルツも挟まっていて,同調するのがとても難しい曲です。

そういえば,今年末突然引退を表明した男子フィギュアスケートの町田樹(たつき)選手は『第九』をフリーに使っていました。
これは「こうもり」以上に同調するのが至難の曲です。
そんなところが「氷上の哲学者」と言われる由縁でしょうか。

年始には,フランツ・レハール作曲『メリー・ウィドウ』原題 “Die lustige Witwe”「陽気な未亡人」(1905)ですが,
舞台はパリ,ポンテヴェドロ(仮想の小国)公使館では,公使のツェータ男爵が悩みを抱えていました。それは,老富豪と結婚後わずか8日で未亡人となったハンナが,パリに居住を移したことで,もしハンナがパリの男と結婚したら,莫大な遺産が母国ポンテヴェドロから失われることとなり,国の存亡に関わるのです。
公使館の書記官ダニロを彼女と結婚させて,遺産が他国に流出するのを食い止めようとします。
実はダニロは,ハンナと過去に愛し合っていた仲でしたが,身分の違いから,結婚できなかったという経緯がありました。彼は,大金持ちとなったハンナに,いまさら結婚したいと言い出せませんし,ハンナとしても意地があるわけで,素直になることはできません。
もちろん,いろいろな恋の駆け引きがあって,最後はめでたしめでたし,となるのですが,なにしろにぎやかで,途中にオッフェンバックの「天国と地獄」 が出てきたり,「ヴィリアの歌」とか「メリー・ウィドウ・ワルツ」の馴染みのある美しいメロディーで終わります。

さらに,大みそかには,
ジルベスター・コンサート」が開催されます。ジルベスターとはドイツ語で大晦日(Silvester,「聖ジルベスターの日」)の意味です。

日本でも生放送されていて,12月31日から演奏を開始して,1月1日の午前0時0分0秒ちょうどに演奏を完了するのを見世物にしています。

これは指揮者としての職人芸の腕を見せつける瞬間で,0時0分0秒ピッタリに曲を終了させて,同時に花火が打ちあがり,紙吹雪が舞って「新年,明けましておめでとうございます」となるのです。

2011-12年は,ラヴェルの「ボレロ」でした。
指揮者は大阪出身で女優と結婚歴(06-10)のある若手でしたが約5秒前に曲は終了してしまい,無音の恐怖の静寂状態がつづくなか,年マタギのときに,紙吹雪のみが虚しく舞いました。

2012,2013年は見事無事にすんで司会の女子アナは感涙にむせびました。
さて,今年は何が起こるのか,お楽しみにご覧ください。
曲目はシベリウスの『フィンランディア』です。

今年最後の曲は,『メリー・ウィドウ・ワルツ』にしましょうか。

(Danilo)
Lippen schweigen, ‘sflüstern Geigen: Hab’ mich lieb!
All’ die Schritte sagen bitte, hab’ mich lieb!
Jeder Druck der Hände deutlich mir’s beschrieb
Er sagt klar, ‘sist wahr, ‘sist wahr, du hast mich lieb!

(Hanna)
Bei jedem Walzerschritt Tanzt auch die Seele mit
Da hüpft das Herzchen klein es klopft und pocht:
Sei mein! Sei mein!
Und der Mund er spricht kein Wort,
doch tönt es fort und immerfort:
Ich hab dich ja so lieb, Ich hab dich lieb!

(Danilo, Hanna)
Jeder Druck der Hände deutlich mir’s beschrieb
Er sagt klar: ‘sist wahr, ‘sist wahr, du hast mich lieb!

(ダニロ)
唇はとざされて ヴァイオリンはささやく
「私を愛して」 と
ワルツのステップよ 言っておくれ
「私を愛して」 と
手を握りあうたび はっきりわかる
あなたの手は告げている
ほんとうに ほんとうに あなたは私を愛している

(ハンナ)
ステップを踏むたび 心も踊る
鼓動が高鳴る
「私のものになって 私のものになって」 と
唇は何も言わないけれど 耳には響く
「本当にあなたを愛している あなたを愛してる」

(ふたりで)
手を握りあうたび はっきりわかる
あなたの手は告げている
ほんとうに ほんとうに あなたは私を愛している

来年こそ良い年になりますように願っています。
お元気で良いお年をお迎えください。

落語とわたしと

まず,
桂米朝さんの著書『落語と私』ポプラ社(75)文春文庫(86)とは全くの別物なのでお間違いなく。

米朝さんのこの本は,中学生・高校生を対象にして,若い人向きに,といいながら,落語の歴史から,落語の基本,寄席にいたるまで,ていねいに解説されている名著です。

わたしの落語との出会いは,ラジオで,なぜかお気に入りは,三遊亭金馬(1894-1964)で,現在の金馬はまだ小金馬(1929-)と名のり,NHKの公開バラエティコメディ番組『お笑い三人組』ラジオ(55-60)TV(56-66)で江戸家猫八(1921-2001),一龍齋貞鳳(1926-)らと共演していた頃です。

金馬さんをヒイキにした理由は,野太い「熊五郎」から艶のある「おかみさん」そしてけなげな「こども」にいたるまで,声づかいが明瞭で子供ごころにも分りやすかったから,と思います。
のちに,金馬さんが禿頭で乱杭歯なのを知り,びっくりしたのを覚えています。

わたしが桂米朝さんを知ったのは最初ラジオで朝日放送の専属(1958-)だったころだと思います

大阪の演芸場・千日劇場からの中継録画による演芸番組『お笑いとんち袋』(65-67)では大喜利の司会をされていました。
小咄・謎かけ・川柳などを,複数の回答者が即興で回答するというもので,そこで異才をはなっていたのが,当時の小米(のちの枝雀)でした。いつも大ボケをして罰として顔に墨を塗られていました。

TVのワイドショー・トーク番組『ハイ!土曜日です』(66-82)では,共演者のSF作家・小松左京,西洋史の京大・会田雄次,薬師寺住職・高田好胤などを相手に,打打発止の司会をつとめました。

じつは,わたしが生の落語を聞いたのはそれほど古いことではありません。
池田市民文化会館の創立5周年記念として,大ホールで『米朝・圓楽二人会』が1980年4月に開催されました。
そのとき,米朝さんいわく「場所柄『池田の猪買い(ししかい)』をやってくれと言われまして」と。
噺の内容は,大阪の丼池(どぶいけ)から猪(しし)の肉を求めて池田の山猟師の六太夫さんを訪ねて行く,というものですが,とても面白かったです。
共演者の先代・圓楽さんは「星の王子さま」と名のっていた人ですが,何を公演したのか,まったく記憶にありません。

それ以降,落語にいささかはまりました。
当時,落語の定席はありませんでしたから,米朝さんがはじめられたいわゆる「ホール落語」を求めて,いろんな地方の公立の会館での公演をさがし,遠くは,大阪から70km以上離れた兵庫県加古川市まで足をのばしたりしました。

もっとも良い会場は朝日生命ホールで,御堂筋ぞいの淀屋橋と本町の間にありますが,席数が400名足らずなので,肉声で落語が聴けることです。いまでも落語の聖地とされているようです。

1972年からは毎年,正月と夏にサンケイホールで独演会をやるのが恒例になっていて,よく聴きに行きました。

わたしの好きなネタは,『百年目』『はてなの茶碗』『持参金』などたくさんありますが,掘起し再構築した長編『地獄八景亡者戯れ』,自作の『一文笛』など,面白いネタにことかきません。

いまさらですが,
米朝(1925.11.6-)さんの歴史を振返ると,本名は中川清,満洲の大連で生まれ,姫路市の出身,大東文化学院に進学中,正岡容(いるる,04-58)に入門,弟弟子に小沢昭一加藤武などがいます。
師・正岡の「伝統ある上方落語は消滅の危機にある,復興に命をかけろ」との言葉を受け,1947年に桂米團治に入門し,「3代目桂米朝」を名のりますが,1951年に米團治は55歳で死去してしまいます。

それ以後,衰微をきたしていた上方落語を,上方落語四天王といわれた6代目笑福亭松鶴,3代目桂小文枝(後の5代目文枝),3代目桂春団治らと共に復興に尽力しました。

とくに米朝さんの功績は,一度滅んだ噺を文献から発掘したり,落語界の古老から聴き取り調査をして多数復活させていことです。

その成果は,つぎの2冊の著書にくわしいです。
米朝落語全集』単行本,全7巻,創元社,1980.1-1982.1
上方落語 桂米朝コレクション』文庫,全8巻,筑摩書房,2002.9-2003.7

1995年に柳家小さん(1915-2002)が,いきなり重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され,周辺も本人も「なぜ?」と,文楽,志ん生,円生などの名人上手と言われた人たちでも認定されなかったのに,とざわめきました。

翌1996年に,米朝さんが人間国宝に認定され,いかにも日本の役所らしいやり方をみんなが納得しました。

2009年には,演芸人としては初の文化勲章を受章されました。

このように名実ともに落語家として最大級の評価を受けた米朝さんですが,唯一の無念があるとしたら,後継を託すべき,有能な弟子を二人まで,亡くしてしまったことではないでしょうか。

その第一は桂枝雀(1939-1999)です。
本名は前田達(とおる)で,神戸市で生まれ,伊丹市の出身,父の死去により家庭は貧しく,神戸大学文学部に入学後1年で退学して,1961年に米朝に入門,小米(こよね)を名のり,1973年に枝雀を襲名します。
枝雀襲名後,芸風を大幅に変え,オーバーアクションで大爆笑をとり,独演会はいつも満席になりました。

TVのバラエティ番組『浪花なんでも三枝と枝雀』(82.4-85.12)というのがありまして,その縁で『枝雀・三枝二人会』を開催しました。
当時の三枝(現6代文枝)は,まだ古典をやっていたのですが,マクラではTVのような笑いがとれるのに,本ネタになると,ピタッと笑いが消えるのです。
芸の力というものは,残酷なものですね。誰にでもわかるんです,良し悪しが。
三枝本人が一番それに気づいたのでしょう。
その時以来,古典はキッパリとあきらめ,「創作落語」と称する「新作落語」の道に進むのです。

枝雀の演じるわたしの好きなネタは,『宿替え』『高津の富』『不動坊』など,それこそたくさんあります。

朝日生命ホールでの独演会など,演者と客席が一つになり,同じ呼吸をして,演者につられて,客の体が前後に動くような一体感がありました。

わがまち池田でも,市民文化会館小ホールで,枝雀寄席が1月の恒例となり,1981から1998まで続きました。

ほとんど最後のほうと思われる公演を聴きましたが,体調不良とは聞いていましたが,余りにも生気がなかったのを心配しましたが,直後,自殺で亡くなるという訃報を聞いて驚きました。
享年59歳でした。
とても残念でした。

そのつぎは桂吉朝(1954-2005)です。
1974年に米朝に入門し,本格的な正統の上方落語を継承するものとして期待されましたが,胃がんでわずか50歳で死去しました。
時うどん』を,江戸の『時そば』風に粋に話していたのが,思い出されます。

今はその弟子の桂吉弥(1971-)が大活躍中ですが,もう少し仕事量を整理した方が良いのでは,と心配します。

上方落語協会としての不幸は,6代目松鶴が1986年に亡くなった後,米朝さんに会長を任せなかったことです。
当然,会長職は米朝さんが引き継ぐものと思われていたのに,松鶴一門の猛反対で,実現しませんでした。
その後,小文枝春団治も会長を歴任していますから,一番の功労者を会長に据えなかったのは全く不可解で,協会の汚点といってもいいでしょう。

その影響もあって,枝雀一門はいまだに協会を脱退したままです。

上方落語協会としては長年の悲願であった落語の定席「天満天神繁昌亭」(2006年開席)を設立しましたが,枝雀一門は孫弟子までも出演できません。

時節がら,誰もが知っているこの歌『Holy Night(聖夜,きよしこの夜)』にしましょうか。

Holy Nightきよしこの夜)』
・作詞:Josef Mohr,作曲:Franz Gruber(1818)
(讃美歌 第109番)

Silent night, Holy night
All is calm, all is bright
Round you virgin mother and Child
Holy Infant, so tender and mild,
Sleep in heavenly peace,
Sleep in heavenly peace.

きよし このよる
ほしは ひかり
すくいの みこは
まぶねの なかに
ねむり たもう
いと やすく

 いかがですか,心が洗われる思いがするでしょう。
クリスマスとはキリストの降誕祭です。
1年に1度くらいは神聖な気持ちで過ごすのもよいのではありませんか。

また落語に話を戻して,いささか蛇足ぎみに,
たった1人で行なう,この伝統芸能は,かなり難しく,枝雀さんのようにネタクリと呼ばれる稽古を怠らないようにしないと,滑らかに口がまわりません。
たとえば,寿限無などの長セリフを「立て板に水」のように息もつかないで言い切らないと,臨場感が出ません。

あの米朝さんでさえ,2002年,東京・歌舞伎座での『百年目』の公演を最後に,人前で落語をやっていません。
あのとき,旦那が長々と番頭相手に語り掛けるセリフの1部が抜けました,なんとか元へ戻って,話の終結は付けましたが,「一生の不覚,大恥をかいた」とご本人もへこみました。

息子の小米朝が2008年に5代目桂米團治を襲名するとき,その襲名披露公演で,大胆にもこの大ネタ『百年目』をやりました。
不思議なものですね,おなじセリフをしゃべっているのに,旦那にも大番頭にも見えないんですね。
思わずツッコミを入れました,「キミには百年早い!」と。

最近,落語家たちも,趣味の多い人たちが増えてきて,サックスを吹いたり,クラッシク音楽の司会をしたり,飛行機を操縦したりする人たちがいます。
芸というものは正直なものですね。
昔から,「練習はウソをつかない」と言いますが,稽古量の差が出るんです。
「天才」と言われた枝雀さんでさえ,趣味が落語というくらい,落語一筋でした。
「凡人」のその他の芸人たちが追いつけるはずがありません。

落語は奥が深いのです。
最近は落語を聴きに行かなくなりました。